第4話 二人の患者

今日も精神科のクリニックでは、様々な症例の患者たちがやってくる。今日の最後の患者は、若月あづさだった。あづさは、先週職場の人間関係についての悩みをひとしきり吐きだして帰って行った患者だった。予約制なので、一週間後の今日来ることになっていたのだ。


ナースの小池麗奈が相変わらず愛想のいい、上がり調子の声で名前を呼んだ。

「若月さーん、二番診察室にお入りください」

「どうでしたか、この一週間は?」

医師の野間勇人が、心配そうに尋ねた。

「特に良くも悪くもなっていません。相変わらず、二人で嫌味を言っては私はいつも孤立しているような感じです。男性社員にはいつもニコニコと会いそうよく振りまいて、気分が悪くなります」

「同じことの繰り返しですか?」

「はい、でも、もう割り切って自分は自分なんだと思うことにしました。いつまでも、ほかの女性たちのことばかり考えていると、仕事がおろそかになるし、自分の幸せが逃げて行ってしまいますから」

「若月さんの心の中では、何か吹っ切れたものがあるようですね」

若月あづさは、少し慌てて答えた。

「そういうわけでもないんですけど、お互いに相手のことを意識しても仕方がないので、私がほかのことに意識を逸らすことにしました」

「へえ、それはいいことです。考えないようにするというのも、消極的ではあるけど解決法の一つです。イライラしたり気分が落ち込んだりすることは、減ってきたようですね」

「はい、少なくはなりました」

「では、薬の量を少し減らしておきますね。お大事に」

「ありがとうございました。先生のアドバイスのおかげです」

立ち上がって、診察室を出ていく後姿を見送っていると、先週より軽い足取りになっていた。何かがあった。野間勇人はそう直感した。

「先生、若月さん先週より元気ですね。気持ちが切り替わってずいぶん前向きになっているみたいです」

「麗奈ちゃんもそう思う? 俺もそう思ってたところだ」

「ところで、岡本匠さん、今日は来ないですね。どうしたのかな」

「予約してあったのに、連絡がないな。何か急用でもできたかな?」

「岡本さん心配ですね。外で事故にでも合ってなきゃいいけど」

先週、夢遊病者のようにふらふらと赤信号にもかかわらず横断歩道を渡ろうとしていた岡本の様子を、麗奈に話してあったのだ。麗奈は続けた。

「岡本さん、相当ショックなことがあったんですね。一か月前まで、あんな症状でなかったって言ってましたよね」

「ショックが強すぎて、思い出すことを心の中で拒否しているのかもしれない」

「何事もなければいいけど」

麗奈が、つらそうに顔をしかめた。


そのころ岡本匠のところに一本の電話がはいった。休み時間に着信履歴を見ると、大学時代の友人で一条菜穂を紹介してくれた上田直人の名前があった。一抹の不安が、胸をよぎった。

急いでコールしてみた。

直人は、早口で要点を伝えた。

「もしもし、俺だ。先週の金曜日に、仕事の用で秋葉原へ行った。何と、帰り道で菜穂によく似た子を見かけたんだ。髪の毛が長くて、小走りに歩くところが菜穂そっくりだったんで気になって追いかけたんだけど、人ごみに紛れて見失ってしまった。もうちょっとで追いつけるかと思ったんだけど……」

「ほんとに菜穂だったのか? どんな様子だったんだ! 元気そうだったか?」

匠は、急かすような口調で問いかけた。

「横顔がちらっと見えただけだったんで、確信はないが、雰囲気がよく似ていた。ひどく急いでいるようだった。」

「近くのビルで、一か月前に変死体が発見された事件があったっけな? なんか怖いよな。」

「ああ、雑居ビルの一室で男が死んでいたあの事件か? 確か、新聞の報道によると被害者は芸能プロダクションの社長だったんだろう?」

直人に言われて、事件のことを思い出した。

「ああ、俺も覚えてる。その後の報道によると、殺人事件の疑いが濃いみたいだけどな。

外傷が複数あり、数回にわたって殴られたらしい。」

「そうか、殺人だったのか。犯人は捕まってないよな。捕まっていれば大きくニュースに取り上げられるだろう」

「そりゃそうだ。芸能プロダクションといってもなんだか胡散臭い奴だったらしい。芸能人志望の若い女の子をだましては、いかがわしいグラビアや、ビデオをとっていたそうだ。

なんでも、死体があった場所はその撮影スタジオなんだって。今時よくいそうな輩だよな」

直人は芸能記者のように、すらすらと事件の概要を説明した。

「詳しいんだな。そんなネタどこで仕入れたんだ?」

「お前世間の情報に疎いんだな。週刊誌に出てたよ。」

「しかしそんなところを歩いていたなんて、事件のことを知らなかったんだろうか。それとも人違いだったのか」

「人違いの可能性は低いな。あいつ左利きだから、いつもバッグを右の肩にかけるんだ。その女もバッグを右肩にかけていた。遠目で見てもしぐさでわかるってあるだろ?」

それは聞いた匠は、はっとした。

「俺、そこへ行ってみることにする。なんでもいいから手掛かりがほしいんだ。」

翌日、岡本匠は仕事を早めに切り上げて、友人の上田直人から聞いた秋葉原のビルの前に来ていた。もう、規制線は張られておらず

ビルが直接見えるところまで行き、上を見上げた。

様々な店舗が入る古びたビルで、横には非常階段があった。入口から入れば、エレベーターで上に上がることもできたが、あえてそうしなかった。こんなビルでも防犯カメラがあるかもしれない、と思うと映ることはかなりのリスクだと思われたのだ。

階段を写す防犯カメラがないことを確認し、周囲を見渡し誰もいないことを確認してから、登っていくことにした。それでも、心臓の鼓動が早くなっていくことが分かった。登り口には、ごみバケツが置かれ、すえた匂いがバケツの周辺から漂っていた。

見つかったらなんと言い訳しようかと思うと、さらに焦る気持ちが強くなった。足音を立てずにそっと歩いた。姿勢を低くし、周囲から見えないように上る。

四階まで登ったところで、外側のドアのノブを回した。念のため、用意しておいたハンドタオルをノブにあてがう。しかし、ドアノブは回らなかった。やはり予想していた通りだ。しかし、緊急時のために内側からは開けられる構造だということは想像がついた。

もう一度周囲を確かめ、足音を立てないようゆっくりと階段を踏みしめて降りた。

と、その時筋肉質な体にジャンバーを着たスポーツ刈りの男が現れ匠を呼び止めた。匠は一瞬暴力団か、と思い身構えた。

「こんなところで、何をしているんだっ!」

「ああ…… ちょっ、ちょっとこのビルに用があって……怪しいものではありません。二階の会社に用があったので。ところで、あなたはどなたですか」

匠はとっさに目に入った二階の会社名を言った。

「警察のものだ、それなら中のエレベーターか階段で上がれますよ」

口調は穏やかだったが、じろりと匠の方を向いた眼光は鋭く、気迫に圧倒されそうになった。

「ありがとうございます。そうします」

匠は、警察官の疑いの目に晒されながら、

仕方なくビルの中に入ることにした。階段で四階まで歩いていこうかと思ったが、先ほどの刑事の眼があるので二階で足を止めた。時間つぶしにトイレに入り、ふう、と大きくため息をついた。個室の中で、五分ほど時間をつぶし、下に降りることにした。

外へ出ると、やはり先ほどの刑事が張り込みをしていた。今度は呼び止められないように、足早にその場を立ち去った。疑われたのではないかと、気が気ではなかった。

匠は、目の前に菜穂が現れればいいと期待し、ゆっくりと駅へ向かった。暗がりの中で、夢の中で見た恐ろしい顔が現実のものとなって表れるような感覚にとらわれた。

大きな顔の中にひときわ大きな目や口が開き、不気味に自分を獲物の様に狙っている。頭の奥がジンとしびれるような感覚がよみがえった。ウーンと唸り立ち止まった。そうだ、今日は精神科クリニックを予約したんだ、と思い出したがもう予約時間はとっくに過ぎていた。がっかりして電話をすると、これからでもいいという野間医師の返事が聞こえてきた。

 

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