第2話

(3)一人目の患者と彼女 


翌日病院からの帰り道、精神科医の野間勇人は駅に向かって軽快に自転車を走らせていた。はるか前に、ポツンと意思のない人形のように手足を動かし、周囲に気を配る様子もなく歩いている男が視界に入った。


自転車が、男にだいぶ接近したところで男は横断歩道に差しかかった。ところが、赤信号も目に入らないのかこのままでは車の走行する道に入ってしまう。左側からは、まさか渡るつもりだとは思わないのか、車も速度を落とす気配がない。 


危ない! 勇人は、そのまま横断歩道に入り、男を横から押し倒した。クラクションが鳴った。ばたん、と男が地面に崩れた。次の瞬間、車は二人のわずか前を横切り、エンジン音が遠ざかっていった。


「おい、しっかりしろ。昨日うちのクリニックに来た、岡本さんじゃないですか」


「なんで…… 俺はここにいるんだ?」


「赤信号を直進してたんですよ。もう少しで車に挽かれるところだったんだ。危ないところだった」


「何も覚えてない。本当に何も覚えてないんだ!」


岡本匠ははじめは興奮し、何でここにいるんだ、と叫びだし、正気に戻るとがっくりと肩を落とした。


「正体を突き止めましょう。あなたは何かにおびえてるんだ。何に追われてるのか、何を恐れているのかを」


精神科クリニックへ岡本匠を連れて戻ると、ドクターの野間勇人は長椅子に座り問いかけた。


「今の仕事はどのくらい続けていらっしゃるんですか。」


「大学を出て、今の建設会社で働いて二年になります。会社では設計やセールスの仕事をしているんですが、このところ忙しくて、パソコンの画面を見ていると。目がちらついてきます。それを我慢して続けているとぼおっとしてきて、画面上の設計図に違うものが映り込んでいるような気がします。外回りをしている時もぼおっとしてくることがあります」


「手帳を持っていませんか。それをよく見て、異常が現れ始めた一か月前前後の出来事を振り返ってみるんです。仕事でもプライベートでもいいです」


「そう一か月ぐらい前でした。付き合っていた彼女から突然別れを言い渡されました。言い渡されたなんて言ったらおかしいですけど、本当に何の理由も言わずにもう会うのはやめようっ、て言われたんです。でも、そのうちまた会えるから大丈夫、と言われましたが、『絶対にいやだっ』と答えました。でも、いずれまた会えるから、と言っていたのが、心に引っかかっています」


「その時の彼女の様子はどうでしたか。本心からその言葉を言っているように見えましたか?」


「何か、思い詰めているように見えました。しかし、決心は固いようでした」


「彼女のことについてもっと詳しく教えてください。出会いはいつですか?」


「彼女とは、大学時代の友達の紹介で出会いました。一年程前です。僕の方が一目ぼれしてしまって、何度かあったときにはもう夢中になっていて、こちらから連絡することが多かったような気がします。彼女、自分の好きなことや楽しいことを話すときに、本当に笑顔が素敵なんです」


「へえ、どんなことが好きなんですか?」


「演劇は自分を表現できるので最高だと言っていました。アルバイトをしながら劇団の研究生として勉強していました。大学生のころから趣味で演劇をやっていて、劇団に入りプロの女優を目指して勉強しているといっていました。研究生になっても、舞台に出られるのは選ばれた人だけなので、まだまだ道は遠いと落んでいることもありました」


「そりゃあ、プロになるのは大変ですよね。でも熱心に打ち込んでいたんですね?」


「はい、プロデビューするためにはどんなことをしたらいいのか、よく考えていることがありました。僕は、へえとうなずくことしかできませんでしたが。練習がうまくいかなくて落ち込んだときは、一緒に映画を見に行って、感想を言い合っては楽しく話をしました。結構気晴らしになっていたようなんですが。それに、練習の時の楽しさや失敗談を聞くのも楽しいものでした。本当に演劇が好きなんだなと思いました」


「東京にはいつから住んでいるんですか? 家族とは一緒に暮らしているんですか?」


「大学生のころから、千葉県の実家を出て兄と一緒に東京で暮らしているそうです。お兄さんは、大学に入るときに東京へ出てきて、彼女も大学に入る時に一緒に住むようになったようです」


「一か月前に、彼女の身に何があったんだろう? そのころお兄さんに聞いてみたことはありましたか? 何か変化に気付いているかもしれませんよ。」


勇人は、匠が何か話し忘れていることがあるのではないかと質問を繰り返した。


「アパートにももちろん行ってみましたよ。でもお兄さんはここには妹はいないと追い返されました。実家に帰っているといわれたんです。でも実家の住所は教えてくれませんでした。」


「お兄さんは何か聞いているのかもしれません。何か知っているんじゃないかな」


「お兄さんと話ができるといいんですが」


「彼女の友人などの知り合いはいないんですか?」


「紹介してくれた友達にも聞きましたが、何も連絡はないと言っていました。」


突然姿をくらました彼女のせいで、匠の精神がこんなに不安定になっているのだろうか。


よほど彼女のことがショックなのだろう。それにしても、症状が重すぎる。


「よく話してくれました。今日はここまでにしましょう。手掛かりになりそうなことを思い出したら、なんでもいいので教えてください」


匠の姿を見て、別れるのは心配ではあったが、家に連れていくわけにもいかず帰宅することにした。


匠が、一条菜穂の消息を訪ねてアパートに来た時のことだ。菜穂のアパートは、私鉄の沿線にあり、駅から歩いて五分ほどのところにあり、菜穂は兄とこのアパートの二階に住んでいた。岡本匠が来たとき、彼女はこの2DKのアパートの奥の部屋にいた。正樹から、奥の部屋に入っているようにと言われてしばらくじっとしていたのだ。


「匠、どんな様子だった? 私のこと恨んでない、突然別れようって言ったんだもの。恨んでるでしょうねえ」


「そんなことはない! でも今は会うわけにはいかない。絶対会うな。今はな」


「いつまで? いつまで待てばいいの?」


菜穂は、涙声になり、じっと膝に手をつきうなだれた。


「ねえ、一か月前、何があったの? 匠と、私と、それからお兄ちゃんに?」


菜穂にとっての一か月は、一年にも感じられた。しばらくの間待つって、何を待っているのかもわからない。これが永遠に続くのかもしれないと思うと、気がめいってきた。





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