不格好


雨―――起きる頃にこの部屋に差し込む光に力がない時点でなんとなくは把握していたものの実際にカーテンを開けて外を眺めれば降りしきる雨に嫌気がさす、それに何となく胃に酒が残っているかのようなじりじりと焼け付く感覚、首や肩のコリも私の身体に居ついてしまった。外に出たくない、この布団が私を引き寄せる感覚はどうしても修士の学生だったころを思い出す。Undergraduateの頃っていうのは意外にも何も知らないガキンチョな訳でどの研究室に入ればどんな研究ができるのか、と言う事に具体的なイメージを持つことが出来ない。これは間違いなく、科目としては実験も好きではあったがどちらかというと理論的な側面から物質の事を知ることの方が好きだったように思う。ただそれを専門とするような研究室は無く―――実際にはあったのだが、後に私の指導教員となるそのセンセ、K先生とでも呼ぼうか、その研究室は実験にも精力的に取り組んでおり、そういう研究室であるように見えた、実際に研究室巡りの時は唯ひたすら条件を変えながらその場でX線回折像を取るという事を経験させられたわけで。そんなこともあり私は右も左も分からず何だか面白そうと言う事で大きな実験室を持つ別の教授、Tさんの所に所属する事になった、彼の講義で良い成績を残せたと言う事も大きかったのだろうか。初めのうちは軽く実験をしながら論文を読む、という比較的軽いルーチンワークをこなすことになる。何故かは分からないがそれなりにスラスラと英語を読むことが出来て、論文紹介も比較的まともにこなすことが出来た、その中でその実験というものにどうも希望が持てなくなっていたように思う―――それは現代の実験で有ればこの目で何となく原子というものの実態をつかむことが出来るのではないのだろうかと夢想していた訳だが、この研究室は非常に極端な条件の中で性質を調べるといったものが専門であって、そこはどこか古ぼけた感じがした、それは多分その界隈全体に関してもそんなイメージを持ったという事にもなる。理想との乖離、とでもいうのだろうか、ラボは真新しく白さが目に刺さるような場所とでも思っていたが実際にはイサノールや有機溶媒の匂いがする工作室といった感じで、実験に至っては旋盤を用いて加工をしたり顕微鏡下で精密な作業をするという「職人」といった感じの作業だった―――ただ西播磨で実験を、先輩の実験を手伝うときは何だか楽しい気分で隔離空間にある如何にも秘密基地然としたそこで昼夜問わず作業をするのは自分が特別な何かであると勘違いさせるには十分だった。夏ごろに母方の祖母が死んだ、少し前から癌で寝たきりになっていたのだが結局のところ院試の合格と同時に母から電話がかかってきて知った。「ノーベル賞を取るまで死ねない」というような事を言っていたのを思い出す、お世辞と実際の願望が混ざったような言葉、こだましか止まらない新幹線の駅のホーム、何故か脳裏に焼き付いている。そんなことがあったから、という訳では無いが全く就職活動もせずに大学院に進むことを決める、周りも多分九割は進むんじゃないんだろうか。その後、遠くの附置研で実験させられたり、その内容で論文を投稿したりと実験家としての道になし崩し的に進むようになってくると少しずつこの身体に倦怠感が染み込み始める。「あり得ないくらい不器用」、実際に私は職人芸を習得することが出来ず、実験自体がうまくいかないことが多かった。「近くに居ると周りの実験が失敗する」とかPauliのような扱いもされた、まぁ実際仕方ないし、もっとかっこよさとか、憧憬、いわば物理学科に行きたかったけど行けなかったなりに理論系になりたいと思い始めていた、それが修士の四月の頃だっただろうか。サブミリの旋盤操作もできず、粉塵も嫌で、そして結局うまくいかないこともある実験が嫌で前期は単位を取る事だけに集中して全く実験室に入らなかったらお呼び出しを食らうことになる。「理論計算がやってみたい」、後にこれもある種土方のようなものだと知ることになるのだけどその時直接Tさんに言った、やりたい対象も決まっていた、Tさんが東大の時の研究室のボス、ある種長老のような人の話、変な挙動を見せる物質があることをセミナーで聞いて挑戦してみたいと思ったから。そこでは何故そうなのかは結局分からないと言う事だったと思う、ただ面白いので様々な組成でその現象が起こりそうなものをいっぱい実験してみたと。自分の意思でこれがやりたいと言ってきた学生を止めるような教員は見たことがない、工学部では居るらしいが理学部は少なくともそういう人間が少ないように思う、そんな文化なんだ。ただ「(自称)友人であるK先生に習いながらも、実験はするように」と言われた、これがやっぱり嫌だった。K先生のことがいかに好きかは置いておいて、理論計算を習いながらそれをサポートするような実験ができないかと色々と始めることになる。件の附置研での実験はまぁ良かった、比較的手先が不器用でもできる実験で、失敗することもなくそれなりの結果が得られた。ただ西播磨のビームタイムをどうしても使わなくてはいけないということで、絶対にうまくいかないことを知っている―――できてもまともなことが分からないことが光学系で予想がついていたものをやらされ始めた、いや実際「それをやってもうまくいかないと思いますし、いいデータ取れてもScientificにあまり価値がないと思います」と言ったものだけどやらなくてはいけなくなった。先輩から実験のパーツの出来の悪さを笑われたりするのが嫌だったので深夜に一人で作るようになり昼夜逆転、出来上がるパーツの不格好さを隠すように、自分自身の存在すら隠すように時間を無駄に使った。実験はうまくいかないし、いろいろと改良してデータ自体はまともに取れるようになったが施設の光学系の問題であまり意味のない結果が出る、まともに解析する気力すらも湧かない、その頃からタバコを吸うようになったと思う。ただ、計算の方はいい結果が得られていたし、修士論文では附置研での実験、数値計算、そして申し訳程度の放射光実験の話をまとめることになるのだがこれがどうも評価が良かったらしく学位授与式をサボることが許されない立場になった―――まぁ何となく私がいやいや実験をしている事には気づいていたらしくTさんは「博士課程はボクのところでは君は無理だから、別の所行きなさい」と色々紹介されるようにはなっていて、私は気が触れて―――これは博士号を取ってから真相を知ることになるのだけれども、そんな感じで定年も近いのに地方大に行ったK先生の後を追うことになる。今思うとTさんはとても人格の優れた教員だったと思う、学生を自分の手下にはせず積極的にやりたいことをやらせる。やりたいことがない学生は適当に達成感のあるテーマを与える。その先生は東大の時に進んでこの分野のできる学科に入ったらしいのだが、物理学演習で物理学科のTAの博士に「やっぱこの学科のやつは出来ないな」と言われた経験があるらしいのだけど、自由にのびのびとやりたいことの知識を集める学生が自分の範囲より外に出てしまったら素直に認めることが出来る人だった―――身支度をしよう、傘じゃ袖やブーツが濡れることを防ぐことが出来ないと言う事を知っていても一応は出勤しないといけない、研究室に誰もいない、Supervisorのいない独立研究室だとはいえ、裁量労働制だとはいえ、何となく家を出無ければいけない気がしたから、実際にやるべきこと事が待っているから家のドアを開けなくてはならない。


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