第4話 親友
小学校の級友だった由里とは、つい去年まで交流が続いていた。同性との交流が少なかった私であるが、由里とだけは妙に気が合い、親友と呼べる存在になっていたことに自分でも驚いている。お互い高校を卒業してからフリーターを続けていたが、遊びや買物に行くときは大抵由里が一緒だった。そうして卒業から一年ほど経ち、桜が咲くかどうかという頃の春の日の夕方、玄関からノックの音が聞こえた。
「雪、ちょっと話があるの」
「どうしたの急に。由里がうちに来るなんてホントに久しぶりじゃない」
「うん、でもどうしても一言伝えておきたかったから」
「ちょっと待って。何、急ぎの話? とにかく上がっていったら?」
突然の由里の来訪。嫌な予感がする。
「いや、ここで良い。時間もあんまり無いから」
「時間がないってどういうこと? この後何か予定でもあるの?」
「予定って言うかその…… 私、東京に行くことにしたんだ。もう諸々の準備も終わって、家も片付けてきた」
「えっ……」
私は絶句した。目の前の由里の顔には上手く視点が合わせられず、ドアの向かいにある植え込みの辺りに視線がさ迷う。そんな私の衝撃をどこまで把握しているのだろうか、間髪なく由里は言葉を繋ぐ。
「私、やっぱり画家になりたい。色々考えたけど、どうしても夢、諦めきれない」
「そう、なんだ……」
私と由里は卒業後ぶらぶらしていたことについては同類だが、持って生まれた才能が違う。ただ無為に日々を重ねていた平凡な私と違い、彼女には昔から絵の才能があった。
「今年のコンクールでもまた賞取ったの? すごーい!」
「ねえねえ、絵の描き方、教えてよ」
「うちの部展も結局由里の絵が一番人気だな」
学生時代を振り返ると、絵の話題になればいつも由里が中心にいた。私にはない才能を羨ましいと思う時期もあったが、ひたむきに絵と向き合う由里の姿を見ているうちに、そんな気持ちはすっと消えていった。私は由里といると楽しい、由里も私といると楽しい。理由なんて良くわからないけどきっとどうでも良くて、純粋に一緒にいる時間を大切にしていたい。そして絵を描く由里を応援していたかった。
しかし、そんな才能とは裏腹に、由里は中学卒業後は思うように絵を描き続けることが出来ない事情があった。由里は元々母子家庭だったが、高校に入ってそうそう母親が事故により他界し、他に身寄りもない彼女は一人で生計を立てなければならなかったのである。
「うーん、眠い……いつの間にか授業終わってた」
「今日の夜はバイトだから、ごめんね。また来週学校で」
「もっと自由な時間が欲しいなあ」
母親の死後、由里の口からはそんな呟きを聞くことが多くなった。昼は学業、夜はアルバイト、家に帰ったら家事をこなし、翌日の為に就寝。そんな生活をしていては絵を満足に描くことなど出来るはずもなく、高校に入って依頼、以来彼女の作品を見ることはなくなった。
「高校卒業してからは卒業前と比べて時間が出来た。でも私、絵描くのずっと怖かった」
ハッとして我に返る。目の前の由里の唇は震えていて、それでも決意を私に伝えようと懸命に語りかけてくる。由里の真剣さが伝わってきて、私もだんだんと全身が震えてきた。この時期はまだ夕日が落ちるのが早いのか、辺りはどんどん暗くなっていき、由里の顔にもそれにあわせるように少し陰りが差してきたような気がする。
「うん……そうだね、全然描かなくなっちゃったね」
確かに高校を卒業してからは昼間自由な時間があり、絵を描こうと思えば描く時間などいくらでもあったはずだ。それでも由里が筆を取らなかったのは、もしかしたら私のせいかもしれない。私がだらだらあてもなくフリーターなんかを続けていたせいで、彼女もそれに付き合ってくれていたのだろう。私がフリーターをしていたのは、どこか社会と繋がっていたかったというだけであり、由里のようにお金が必要だった訳ではない。必然的に私は自由な時間が多く、由里の都合なんて考慮せず彼女に声をかけることも多かった。そんな生活が結果的には彼女の生活を制限し、また筆を取る意欲も奪っていたのだろう。
「雪と遊んでる時間、凄く楽しかった。とってもとっても楽しかった。私、お友達って言えるのなんて雪くらいしかいなかったから」「私も楽しかったよ、由里と過ごす時間。私だって全然友達居なかったもん」
「でも、それじゃ駄目だなって。私、今までずっと逃げてた。絵をちゃんと描こうと思ったら、画材もいっぱい要るし、ちゃんとした学校にも通わなきゃ駄目だ。でも私には道具を揃えたり学校に通ったりするお金もないし、良い先生が居る学校も近くにはない。今のまま暮らしても絵なんてかけるはずがない。」
「そんなこと……」
口をつぐむ。由里の言うとおりである。この町でだらだらとフリーターを続け、私と能天気に遊んでいたらまとまったお金も出来ないし、彼女の才能を伸ばすことも出来ない。わかりきっていることではないか。
「だから私、行くね。東京に行っていっぱい働いてお金稼いで、いっぱい絵の勉強する。どこまでいけるかわからないけど、チャレンジしてみたい」
「うん……でもなんで急に。一言相談してくれても良かったじゃん」
かろうじて納得したように見せかけて相槌は打つが、全身の震えは更に大きくなっていた。由里が居なくなってしまう。いつでも私の傍にいてくれて、いつでも一緒に遊んでいた由里。子供の頃からずっと一緒だった由里。そんな由里がこの町を出て行ってしまうと言うのだ。
「雪に相談したら決心が鈍るの、わかってたから。私、弱いもん。雪と話しちゃうとまたずるずると今の生活続けちゃう。だから家も片付けて、後戻りも出来ないようになってから話に来た」
「そんな……」
「勘違いしないで。弱いのは私で雪は悪くない。ホントは黙って出て行くつもりだったんだ。でもどうしても最後に雪の顔、見たかった」
こういうときに親友になんて言葉を送れば良いのだろう。急な話で混乱していたのも事実だが、私はあまりにも人生経験が乏しすぎた。由里の絵は確かに素晴らしく、彼女の決心は立派だということは理屈では理解していた。今後由里がこの町でだらだらと生きて行くよりも、画家を目指した方がよほどいきいきとした人生になるだろう。そんなことはわかっている。ただ、同時にそれは私の10年来の親友を失うことも意味していた。私はそれに耐えられるのだろうか。全身の震えは止まらない。
「雪と過ごした時間、とっても楽しかった。これからはほとんど連絡が取れなくなると思う。でもいつの日かこの町にも噂が届くくらいの凄い作品、作るから。そこまで有名になったら私の作品を見に東京まで会いに来て欲しい」
彼女は泣きながら笑っていた。春の始まりの空はすっかり暗くなり、目を凝らさなければほとんど何も見えないほどであったが、心なしか彼女の顔は光り輝いているように感じられた。そんな顔をされたらしょうがないじゃないか。ぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見た途端、モヤモヤと渦巻いていたものがすーっと晴れ、私の心は決まった。
「うん、わかった。私、応援してる」
私は親友の門出を祝った。まだまだ肌寒さを感じる夜であったが、私たちの周りだけは暖かい気がした。
一年以上経つが、彼女の作品の噂は私の耳には届かない。
最初で最後の親友を失った経験だ。
――私の寝室にぬいぐるみが増えた。私の、新しい親友。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます