第3話 彼氏
私にもボーイフレンドが居たことがある。
「今日から一緒に勉強することになるユウキ君です。ユウキ君はイギリスの出身で、日本に来てまだ間もないので、皆さんサポートをお願いします」
話は4年前に遡る。二学期も始まり、特に大きなイベントもなく平坦な毎日を過ごしていたある日、唐突な担当の紹介でクラスがどよめいた。
「急に転校生が来るなんて本当にあるんだ」
「それもイギリスから留学?」
「何だかドラマとかアニメみたい」
皆が口々に騒ぎ出した。すらっとした長身に、彫りの深い顔立ち。十人が十人賛同するところではないと思うが、まず美男子の部類には入るだろう。退屈な日常の中のサプライズに、当然クラスが色めき立たない訳がない。教室内の空気は弾み、好奇の視線は一点に注がれることになる。私もその中の一人で驚愕と興奮の渦中にいたのだが、ふと素朴な、そして当たり前の疑問が湧いてくる。
何故、彼はわざわざ日本に来たのだろうと。
日本からアメリカや欧州諸国に留学し、本場の語学力を身につけて帰ってくるという話は良く聞くが、その逆はほとんど聞いたことが無い。純粋なアメリカ人やイギリスが、わざわざ高校の頃から日本に留学すると言ったメリットがあまりないからであろう。となると語学以外の目的があるということになると思うが、イギリス人である彼が何故遠く離れた日本に来たのか私には当初見当がつかなかった。
「俺、日本人とイギリス人のハーフなんだけどさ、父親も母親も事故でこの前死んじゃったんだよね」
私の隣の席で自己紹介を始め、あっけらかんとして語るユウキであったが、そんなに単純な話でもないだろう。よくよく考えてみるとユウキなんて名前は純イギリス人ではなく、ハーフの名前であることは一目瞭然であるが、それでも未成年の彼が生まれ故郷であるイギリスを離れてわざわざ日本に来る理由にはならない。私は驚き半分、そしてまた好奇心が半分という何ともいえない顔をしていたと思うが、そんな顔を見てユウキは少し笑ったあと話を続ける。
「あー、皆やっぱりそんな顔するんだよね。それでさ、うちの両親真面目に保険とか入ってくれてたみたいで、イギリスでこのまま暮らす分には問題はなかったんだよ」
そんな顔って一目でわかるものなのか。大体今まで何人にこの話をしてきたんだろう。そして不謹慎な話だが、自由に使えるまとまったお金がぽんと手に入るのはちょっと羨ましい。そんなことを考えているうちに彼は勝手に話を続けて行く。
「でもさあ、何となくこのまま普通に流されて生きていくの、嫌だったんだよね。両親が急に死んじゃうなんて滅多にないことだからさ、どうせだったらまた滅多にないことをやってみようと思い立った。それで色々と何やろうか考えたんだけど、どうせだったら母親が生まれ育った日本にでも行ってみるかなと」
私はあんぐりと開いた口がしばらく塞がらなかった。今思い返すと本当に間抜けな顔をしていたと思う。彼のこれまでの経験や人生のスピード感と言ったものが私とは全然違い、大きな世界の隔たりを感じさせた。彼はそんな私の姿をみて、さらに失礼なくらい大きな笑い声を立てた。声だけではなく、どうも全身を揺らしながら笑いを表現しているようだ。何がそんなにおかしいのだろうか。手を叩き、肩を揺らし、両足を鳴らしてひとしきり笑いきった後、彼は私の目を見つめて一言言い放った。
「まあまあ、人生は適当に生きるのが一番だって!」
人生とは妙なもので、最初に話した時には違う世界に生きているように思っていたユウキと私であるが、何故か半年も経たないうちに付き合うことになっていた。これまで敷かれたレールのような人生を送っていた私にとって、ユウキのある種自由奔放な生き方は、羨ましく、無意識に好意の対象になっていたんだろう。
初日にひとしきり私のことを笑い飛ばしたこともあり、どうもユウキは私のことを一目置くようになった。もちろん、慣れない日本で暮らすのに何でも相談出来る友人が欲しかったと言うのもあるのだろうが、それにしても私にやたらと話しかけてきた。最初の方はまた何かする度に笑われるのではないかと慎重に対応していた私も、いつの間にかすっかり打ち解けて今度は私から彼に話しかける。
そんな日々を過ごすうちにお互いの距離はあっという間に縮まっていき、いつしか彼氏彼女の関係になっていった。最初はあまり彼女というものの自覚がなかった私であるが、時が経つにつれユウキにどんどん惹かれていき、いつしか惚気もすれば嫉妬もするような普通の女子高生彼女になっていた。ユウキの方もまんざらではないようで、二人っきりのときは他の人には見せないような一面を見せることが多く、良く私の頭を撫でてくれていた。私はそれがたまらなく嬉しく、ことあるごとにユウキにそれをおねだりをしては彼を呆れさせ、それでも最後には根負けする彼の優しさを堪能する。そんな初めての恋の味に満足する日々を過ごしていた。
しかし、別れというものは突然やってくるものである。
「あー、そうそう。俺、来週からイギリスに帰るから」
夏休み、ユウキの家で遊んでいた私に突然の宣告がなされた。唐突な告白に、私の中で何かが凍りつく。彼の好きなバンドの音楽が部屋を流れていたが、そんなものはもはや耳に入らない。やけに明るく輝く蛍光灯の元、壁掛け時計の進む音だけを私の耳はかろうじて拾っていた。
「うちのおばさんの体調がどうも良くないみたいでさあ、俺以外に身寄りもないっぽいんだよね」
ユウキは言葉を続けるが、私の耳には意味のある単語として入ってこない。耳はきちんと仕事をしているのだが、脳が言葉として処理することを拒んでいる。Bメロが終わりサビにかかるボーカル、相変わらず耳障りな時計の音、遠くで鳴く虫の声、ちゃんと聞こえているのに彼の言葉だけ耳に入らない。まるで週末ふらっと隣の県の実家に帰るような気軽さで話を進めているが、もちろん彼の行き先は海を越えて半日ほど空を旅するイギリスである。
「それで、この部屋もすぐ引き払うから。片付けとか手伝ってよ」
私は相変わらず呆然としていたが、ユウキはそんな私には構わずせっせと片づけを進めていた。元々着のみ着のままで日本にやって来ていたので、荷物もそう多くない。片付けはスムーズに進んでいき、ちょっと時間をかければすぐにでも終わってしまいそうである。そしてそれはまるで私とユウキの思い出もすぐに片付いてしまうと言っているような気がして、私は胸が締め付けられる思いがした。
(ユウキがイギリスへ帰る。ユウキが離れていってしまう。ユウキが……)
いつしかCDの再生は止まり、虫の鳴き声も止まったが、時計の音だけはずっと鳴り響いていた。
さんさんと照りつける太陽の下、私たちは別れの時を迎えた。3年前のある夏の日の青春である。
「どうしても? ねえ、やっぱりどうしてもイギリスに帰らないといけないの?」
「イギリスに帰ったところで二度と会えなくなる訳じゃない。帰ったらすぐにエアメール出すって」
「手紙じゃ駄目。直接会いたいの。離れ離れになるのは嫌なの!」
声を張り上げる。ユウキがイギリスに帰る当日の朝、人通りがほとんどないことを良いことに、家の近所の河川敷で私は叫ぶようにして別れを惜しんでいた。遠くで電車の揺れる音が聞こえてくる。あの電車に乗ってしまったら最後、私たちはもうこれまでのように会えなくなってしまうのだ。彼の言うようにイギリスに帰ることイコール私との破局を意味するものではない。エアメールを使えば私と連絡を取ることも出来る。向こうでの生活が落ち着き、私たちも高校生という身分でなくなる頃には、お互いの国を行き来して遠距離恋愛も可能だろう。ただ、当時の私には理屈ではそうわかっていても、こみ上げてくる不安感を拭い去ることは出来なかった。
「そんなこと言ったって、現実にはどうしようもないだろう。雪子までイギリスに来る訳にはいかないし」
「やっぱり私も着いて行く。一緒について行くから! 準備するからちょっと待ってて!」
「何言ってんだよもう! この前からずっとそればっかりじゃないか。とにかく、少なくとも高校を卒業するまでは我慢して、それからどうするかまた考えよう。それまでの間、欠かさず連絡するから」
「嫌だ!! 一緒じゃなきゃ嫌!!」
「何言ってんだよ。無理だってわかってんだろ!」
「無理じゃない。何とかなるもん」
「はあ……これ以上俺を困らせないでくれよ」
ユウキはいい加減愛想を尽かしたのか、私に背を向けて駅へと歩き始める。朝露にぬれた雑草の上で私は立ちすくむ。涙で顔はぐちゃぐちゃになっており、日差しも強く視界は曖昧だ。人の声がしない代わりに、蛙の声やセミの声がうるさいくらいに響いていた。徐々に遠くなるユウキの背中に耐えられず、私はかぶりを振って大きなため息をついた。
それ以降ユウキから手紙が来ることは一切無かった。
私の初めての失恋である。
――高校生だった私の部屋に、ぬいぐるみが一つ増えていた。
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