第2話 犬

 10年以上前の雪の降る日、私は家の庭で1人佇んでいた。身を切るような寒さの中、幼い私が途方にくれていたのには当然理由がある。


 その日の午後、学校から帰ってきた私はいつも通り愛犬のペロに声をかけていた。しかしいくら呼びかけても私の声は届かず、ペロからの返事は返ってこない。物心ついた時から傍にいたペロ。毎日のように近所の空き地で級友の由里と一緒に遊んだペロ。在りし日のペロの姿を思い浮かべながら、私は声をかけ続ける。

「ペロ、どうしたの? もうお昼だしそろそろ起きる時間でしょ?」

 何度同じような問いかけをしたかわからない。思い返せば最近ペロがなかなか起きなかったり、遊んでいても動きが遅いと感じることはあった。しかし、その日のように全く反応がなかったのは始めてだった。幼い私は何故ペロが起きてくれないのかを理解出来ず、ただただペロに呼びかけ続け、体をゆすり続けるしかなかったのである。からからに渇いた空気の中、体に合わせるようにして震えた私の声が空しく響きわたる。


 いつまでも空き地に現れない私を呼びに由里が家にやってきたのと、母が勤め先から帰ってきたのはほぼ同じタイミングだったと思う。母は庭でペロの体を揺らし続ける私の姿を見て、事態を即座に把握した。何事か聞き取れないような声で由里に家に帰るように促した後、私の元へ足音を少し立てながら駆け寄ってきた。

「雪ちゃん、寒いからお家へ入ろう」

「でも、ペロが起きてこないの」

「ペロはね、今日はとってもお寝坊さんなの。雪ちゃんもとっても眠い日ってあるでしょ」

「でも、でも……」

「良いから今はお家に帰るの。わかったわね?」

 そう突き放すように母から言われた私であったが、内心全然納得してなかったと思う。ペロが返事を返さない焦りと寂しさ、そして結果的に由里と遊べなくて申し訳ない気持ち。様々な感情がぐるぐると私の中をうごめき、目に熱い涙が浮かび始める。それでも母の言うことは絶対なので、私はおとなしく家に入ることにした。家に入って迎えてくれた暖かい空気に、私の震える体は息を吹き返したが、結局ペロのことは何も解決していない。その後夕飯までの間何度も庭に出てはペロの様子を見に行き、そのたび母に見つかって家に連れ戻されることになった。


 その日の夕食はやけに静かで、そして味の薄い料理だったことを覚えている。心なしかリビングの電球も薄暗く感じられ、その光に照らされる私たちの表情も自然と暗くなる。そんな食卓の中、職業柄夜遅くに帰ってくることの多い医者の父が、その日に限っては私と母と夕飯を共にしていた。そして厳しいような、悲しいような、困ったような、そんな良くわからない表情を浮かべ、一通りテーブルの上の料理を平らげた私に声をかけた。

「雪子、今日はペロは全然目を覚まさなかったんだってな」

「うん、明日こそ目を覚まして、ペロとまた遊べると良いな」

 良く状況が飲み込めていない私は能天気な返事を返す。その言葉を聞き、父は深くため息を落とす。

「あのな、ペロはちょっと疲れてしばらく起きてこれそうにないんだ。だからペロはいないけど、そうだな……ママやパパ、それに学校だと由里ちゃんと遊ぶんじゃ駄目か?」

「なんで? なんでペロは起きてこれないの? 昨日まで起きて一緒に遊んでたじゃん」

「ペロは雪子が生まれた時からずっと一緒にいただろう? だから雪子より長く生きている訳だ。そうするとな、ペロも疲れちゃうんだよ。だからしばらく寝かせてあげような」

「うう……ペロが起きてこないの嫌だよう……ペロと一緒にまた遊びたいよう……」

 それきり会話は止んでしまい、私は重い足取りとともに自室へと引き上げた。なかなか足が進まず、上手く考えもまとまらないのは疲れからか、はたまたペロを思う気持ちからか。寒さがより際立つような暗闇の中、私は自然と眠りに落ちていった。薄れ行く意識の中、ぼんやりと光の灯るリビングで両親がなにやら話し合っていたような気もするが、意味のわからない音の塊が耳に届くばかりで、内容については全く頭に入っては来なかった。



 翌日の午後、雪が止んでカラッと晴れた冬空の下、私はペロの姿を探して庭を駆けずり回った。昨晩よほど疲れていたのか、私はどうもいつも学校に行く時間に起きられなかったらしい。最初はそれでも学校へ行こうと慌てて支度をしたが、そんな私を見て母が今日は学校を休んでも良いと告げた。どうやら母も私に付き合って仕事を休んでくれていたようだ。普段授業を受けている時間に病気でもないのに家に居るというのは何とも居心地の悪いもので、それならばと気分を紛らわす意味も込めて私はペロを探し続けていた。しかし、足が棒になり喉が枯れるまで探してもペロの姿をとうとう見つけ出すことは出来なかった。そして途方に暮れる私に、寂しげな、しかしどこか優しそうな笑みを浮かべた母が話しかける。

「ペロ、昨日の夜中に雪ちゃんが寝てる時に目を覚ましたのよ」

「なんで!? なんでその時私のこと起こしてくれなかったの!?」

 何故そんな大事な時に私は悠長に寝ていたのだろうか。悔しさで胸がいっぱいになる。

「ペロはね、起きてすぐ遠い所にいかなくちゃいけなくなったの。だから雪ちゃんと遊ぶ時間はなかったの」

「うう……ペロ、ペロぉ……」

「ペロはね、雪ちゃんのこととっても心配してたよ。だから雪ちゃんを無理に起こして風邪でも引かせちゃったら大変だって思ってくれたんじゃないかな」

「風邪なんて……風邪なんて引かないもん……」

 足はガクガクと震え、半分泣きながら答える私に母はこれまでと違った表情を浮かべながら提案をしてくる。

「そうねえ、ペロは遠い所に行っちゃったけど、代わりにこの子が来てくれたから、ね」

 そして私は初めて犬のぬいぐるみを受け取った。丸く、白く、ふかふかしている私の新しいお友達。勿論、ペロが居なくなった心の穴はそう簡単に埋まる訳ではない。ガラスが割れたような心の隙間に少し入ってきたぬいぐるみ。悲しさで塞ぎこみそうになるが、それでもぬいぐるみを抱きしめ微笑みかけると、それに応えるように微笑み返してくれている気がした。



 私が初めて生き物の死に触れた経験であった。澄んだ青空に、どこか間の抜けた風の音が響いていた。

 ――この日から、私のぬいぐるみ遊びが始まった。

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