レイヤー2 【8/10】

 気の抜けた声があたりにひびいた。

 むろ身体からだがふっと持ち上がる。細い腰に、白い腕がまきついていた。

「な……! か、カモメ!?」

 室見がきようがくに目を見開いた。いつの間に現れたのか、カモメが室見の後ろに立っている。彼女は両腕で室見を抱え上げ、にこりとこうへいに笑いかけた。

「遅くまでご苦労様。そろそろオフィスのかぎめるから呼びに来たの」

「締める!? じようだんでしょ、まだ仕事が──」

 足をばたばたさせてあばれる室見に、カモメは「だーめ」とやさしく告げた。

りつちゃん、昨日きのうも泊まりでしょ。たまには家で休まないと。あんまり無理すると大きくなれないわよー」

「大きくなんかなれなくったって……、って、ちょ、どこ触ってるの! ひゃ!? や、いやっ、やめてっ」

 カモメは「肌荒れチェックー」と言いながら、室見の身体を触りまくっている。シャツのすそまくれ上がり、とんでもない眺めになっていた。不用意に暴れるためかえりもとがはだけ細いこつあらわになっている。柔肌の上を白い手がね回り、指の間から小さなへそがちらちらとのぞいていた。

 工兵はあわててせんらした。しんぞうがどくどくと高鳴っている。室見の白くき通るような肌、細くすっきりしたくびれが目に焼きついていた。

「──工兵君も、そろそろ終電でしょ? 早く出ないと間に合わないんじゃない?」

 カモメの言葉に顔を上げる。

 終電? たしかにそうだ。だが室見の仕事はどうなるのか。今日きよう中と言われていた作業の締切りは──

 工兵のしゆんじゆんに気づいたのか、カモメはふっと目元をゆるめた。

「立華ちゃんの仕事なら大丈夫。この子、いつも余裕をもって締切り設定しているから。終わってない部分は明日あしたに回しても平気なはずよ。それより一日中作業して疲れたでしょ? 工兵君も今日は家でゆっくり休んで」

「………、はい」

 きつねにつままれたような思いでうなずく。カモメは「うん」とうなずいた。

「じゃあ私はこの子送っていくから。こうへい君はラボの電気だけ消して引き上げてね」

 そう言うとカモメはむろを抱え直した。あばれる彼女をなだめ廊下を去っていく。通路の向こうでとびらの閉まる音がした。

 工兵はきょとんとその場に立ち尽くしていた。

 ややあって、はっとけいを見る。時刻は零時十分前、終電まであといくばくもない。

 あわてて荷物をまとめ上着を取り上げる。扉横のスイッチを押して消灯し工兵はラボルームを出た。


 なんとか終電に間に合った。

 地下鉄の出口を抜けると町はすっかり静まりかえっていた。坂に面した商店街はのきみシャッターを下ろし、駅前のマクドナルドだけがこうこうと光を放っている。

 ──そうだ、夕飯まだだっけ。

 ぼんやりと考えながら店に入る。クォーターパウンダーのセットを注文、ついでにナゲットもこうにゆうした。商品を受け取り、そういえば昼もサンドイッチ──ジャンクフードだったっけと思う。健康に悪いだろうな、ああでもいいや。たい調ちようを崩せば少なくとも今の苦境からはのがれられる。

 後ろ向きな考えにとらわれながら店を出る。持ち帰りの袋が妙に重く感じられた。狭い路地を進み自宅にたどりつく。に入りあかりをつけたしゆんかんきんちようの糸が切れた。ネクタイと上着、荷物を投げ出しベッドに倒れ込む。

 ──まったく、なんて会社だろう。

 もやのかかった頭でそう思う。

 無名のベンチャー企業。楽しいことばかりじゃないと覚悟はしていた。やりづらい上司もいるだろう、残業だってあるだろう。飲み会に連れていかれ、限界まで飲まされることだってあるかもしれない。それら全部ひっくるめて、しばらくはまんするつもりでいた。

 だが、まさかここまでちやちやとは思わなかった。

 業界がおかしいのか、スルガシステムという会社がおかしいのか。ここ二日の出来事は工兵の社会人生活に対するイメージをことごとく裏切っていた。この状況が続けば遠からず自分はたんする。身体からだが先か心が先か、どこかのタイミングでぽっきり折れてしまうに違いない。

 ごろりと寝返りを打つ。

 辞める……か。

 かべひたいを押しつけつぶやく。どのみちこのままいけば、工兵はSEの資格なしと判断されるはずだ。そうすれば試用期間で首を切られることもありえる。そんなくつじよくてきな扱いを受けるなら、不名誉ならくいんを押されるくらいなら。いっそ自分から辞表を出す、こんな会社はねがい下げですと言い放つ。

 当座の生活費はバイトでかせぎ、並行して第二新卒のしゆうを探す。今なら来年度の採用も動いているはずだ。去年のけいけんかし今度こそきちんとしゆうしよく活動をすれば──


『逃げるつもり?』


 とうとつむろの言葉がよみがえった。まなじりり上げ、真剣な表情でこうへいにらむ少女の顔。

ちやな納期も経験のない業務を振られるのも、この業界じゃ日常茶飯事。そういうものが出た時に、やれ終電だ、やれ教育を受けてないってわけする人間を、仕事仲間と認められないって言ってるのよ。一事が万事。今日きよう逃げた人間は明日あしたも逃げると思われる。そんなことも分からないの?』

 ぎりっと歯を食いしばる。

 違う。

 自分は逃げるわけじゃない。

 この会社が、せんぱいがあまりにもひどいから見限るのだ。

 だが、今もし工兵が辞意を告げたらどうなる? 室見はふじさきさんに言うだろう。『自分はきちんとOJTをしてました。あいつが逃げただけです』。そして内心でほくそえむのだ。よしよし、めんどうくさいOJTを辞められてせいせいした。最近の新人は、ちょっとめつけただけですぐを上げるからやりやすい。──

(──それは……、いやだ)

 胸の奥から、じわりとくやしさがこみ上げてくる。あんな中学生みたいな人にやられっぱなしでたまるか。鹿にされたままでたまるか。何が検証ざいとバーターだ。人をにしやがって。辞めるにしても一度は見返してやらないと気がすまない。

 ごろりと、もう一度寝返りを打つ。窓の外を眺めながら工兵は考えをめぐらした。

 室見を見返す手段。

 悩むまでもない、方法は一つだ。

 二週間かんぺきにOJTをこなし、室見のOKをもらったあと、辞表をたたきつける。──これだ。

 室見のおどろく顔が目に浮かぶ。彼女は怒るだろうか、それとも悔しさを必死で押し殺すだろうか。いずれにしろ、あのこうまんちきなてつめんが崩れるのは見物だった。

 大きく深呼吸。

 こんだくした感情が一つの方向にしゆうそくしていく。打倒室見りつ。不安や絶望、悲しみがすっと引き潮のように収まる。しきからもやが引き、冷静な思考が蘇ってきた。

 ──じゃあ、どうやってOJTをこなす。

 ちよつきんのタスク、あのコンフィグ作成をどうやってやりとげるのか。

 しばらく考えたあと、こうへいはベッドから身を起こした。ハンバーガーの袋を取り上げPCのデスクに向かう。マウスをそうしブラウザを立ち上げた。検索画面で「ルータ」「仕組み」と打ち込み、表示された結果から順にアクセス。の基礎から解説していそうなサイトを探していく。

 自分には──基礎となるしきがない。

 それはもういやと言う程思い知らされている。ならば基礎知識がなくてもできるやり方──サンプルコンフィグの使用や、ぞんコンフィグのりでやるしかないと思っていた。だがそれではいつまでたってもむろのOKをもらえない。であればどうする? ……いや、もう考えるまでもない。そう。


 


 明日あしたの始業まで九時間、普通の勤務時間分くらいはある。ネットワーク技術全体を覚えることは無理でも今回の仕事──インターネットゲートウェイにかかわるところだけならなんとかなるかもしれない。どうせコンフィグは数十行しかないのだ。そのはんもうすることに集中すれば。──よし。

 クォーターパウンダーにかぶりつき工兵はノートと鉛筆を取り出した。何かを理解しようとする時はとにかく実際に書いてみる。書いて頭の中身を整理する。ただまんぜんと読んでいても絶対に理解できない。じゆけん勉強の鉄則だ。

 クリックをり返し解説サイトを読み進めていく。要点をノートに書きつけ、また別のサイトにアクセス。──一時間を過ぎるころにはおぼろながらかんどころが分かってきた。

 きもはとにかくIPアドレスだった。

 このドットで区切られた数字がインターネット上の住所を示している。それ自体は昼の段階で分かっていた。だがいまいち理解が進まなかったのは、ネットマスクのがいねんあくできていないからだった。

 たとえば『192・168・24・3/24』というIPアドレスについて、スラッシュの前と後ろが何を示しているのか? 192・168・24・3というコンピュータがいて、それを24で割る? いやいや。割ってどうする。パソコンを24個にたたき割るのか。どんだけぶつそうなコンフィグだよ。クラッシャーすぎる。

 違うのだ。IPアドレスは一つの数字の並びで、ネットワーク部とホスト部、二つのがいねんを表現している。住所のたとえを続けるならネットワーク部はマンションの棟番号、ホスト部は部屋番号みたいなものだ。3棟の415号室、みたいな。

 先程のアドレスだと、192・168・24までがネットワーク部で最後の3がホスト部になる。192・168・24ネットワークに所属する3番目のコンピュータということだ。で、どこからどこまでをネットワーク部にするか示すのがネットマスク、すなわち「/24」ということになる。なぜ24で192・168・24を表せるのかと言うと、この24が二進数のけた数だからだ。先頭から二進数で24桁目までがネットワーク部、でその24桁分の二進数アドレスを十進数に直すと192・168・24、単純な話だった。

 ではなぜ、こんなしちめんどうくさい分類をする必要があるのか? ぶっちゃけ全桁ホスト部でよいじゃないか。1アドレスに対し1コンピュータなのだから、理屈上それで十分用は足りる。

(うーん……)

 ああでもない、こうでもないと悩み続けたのち、ふっと気づく。──待てよ。もし仮にホスト部だけでIPアドレスができあがっていたらルータでのあてさき指定はどうなる? IPアドレスの総数は43億個。それをコンフィグで全部記述する? アドレスA向きの通信はこっち、B向きはこっち、Cは……。

 ナンセンスだ。ありえない。

 だからこそ、ネットワーク部を使いアドレスを「集約」する。そして集約されたアドレスに対し宛先を設定する。このネットワークはルータAに、こちらのネットワークはルータBに。そして、それ以外──デフォルトルートと呼ぶらしいが──はまとめてこちらに。

 以上で43億個のアドレスをわずか数行の宛先指定で表現できる。理解したしゆんかんこうへいうめいた。なんてよくできてるのか。出来の良い数学の証明を目にした気分だった。

 ……すごい……ていうか、なにこれ、おもしろい。

 一つ切り口ができるとコンフィグの意味が、設定者の意図が次々にひもとけてくる。もちろん本番のコンフィグは会社に置きっぱなしだからかくにんできないが、一日中コピーアンドペーストをり返したおかげで内容が頭に残っていた。それを片端からテキストファイルに書きつけ意味を確認していく。

 ───。

 鳥の鳴き声が聞こえた。

 一体どのくらい作業していたのか、窓の外がうっすらと白んでいる。時刻は午前五時半、夢中になるあまり、時間の経過を忘れていた。

 気づくと、手元のノートもデスクトップのメモ帳も書き込みで真っ黒になっている。

 どんだけねつちゆうしてたんだ、自分。

「は……ははは」

 に座ったまま身体からだを背もたれに預ける。調しらべられるところは調べ尽くした。あとは本番のコンフィグを確認するだけだ。ここよい疲労感が身体を満たしている。じわじわと、どろのようなすいがこみ上げてきた。

 大丈夫かな。今寝ちゃったら。

 こうへいひたいを押えた。

 八時半には家を出なくちゃいけないのに。起きられるのか? 二時間しか寝れないのなら、いっそ今日きようてつでよいかもしれない。

 いや──。

 わずかに考え込んで、思い直す。

 少しは休んでおいた方がいい。どうせ今日もなんだいを言われるのだ。休める時に休んでおこう。大丈夫、目覚ましを二つかけておけば。

 ゆめうつつな気分でまし時計どけいとオーディオのリモコンを引き寄せる。アラーム二つをオンにして、工兵は眠りに落ちた。


    〓


 目が覚めると出社五分前だった。


「うわあああああ………!?」

 悲鳴とともにね起きる。目覚まし時計を探すと、オーディオのリモコンともどもすみに放り投げられていた。ごていねいにも上から消音用のまくらがかぶせられている。自分の意思の弱さに歯ぎしりしながら工兵はハンガーのスーツをひったくった。みがきとひげそりを同時に行い乱れた髪をぐしでつける。

 ネクタイをめる余裕もなく部屋を飛び出す。掃除中の管理人に頭を下げながら、工兵は階段をけ下りた。

 会社の始業時間は午前九時半、ちやみず駅からのきよを考えると九時ジャストの電車でギリギリだった。今の時間は──午前八時五十八分。だんなら自宅のえきまで四分はかかる。しんぞうが裂けんばかりに走り続け、地下鉄の階段を駆け下り、かいさつを飛び越えるようにしてホームにたどりつく。間一髪、上りホームに九時ちようの電車がすべり込んできた。

 発車メロディーに背中を押され電車に乗り込む。

 心臓がばくばくと高鳴っていた。

 肩で息をつきながら、工兵は手近なバーにすがりついた。危ない。あやうく乗り遅れるところだった。せっかく作業が進みそうなのにここでこくしたら台無しだ。今の目標はとにかくむろに自分を認めさせること。そのためにはいつさいの失敗・弱みを見せられない。ここ二週間ははんてきな社員を演じねばならなかった。

 そこまで考えて、だがふっと昨日きのうのやりとりを思い出す。カモメの仲介で収まったものの、室見とは半ばけん別れした格好になっていた。いまさらどんな顔をして会えばよいのだろう。気にしない? 何事もなかったように仕事を続ける? だが事実として工兵は彼女の決めたしめきりを破っている。ひょっとするとむろはもう仕事を引き取る気かもしれなかった。

 ──あやまる……か。

 しやくだった。

 昨日きのうの会話を思い出すだけでけんしわが寄ってくる。

 自分は何も悪いことをしていない。ちやな仕事を押しつけられ、やれるはんふんとうし、事実として限界であることを訴えただけだ。だがむろこうへいの訴えにきようはくまがいの言葉を投げつけてきた。正直、人間としてどうかとさえ思う。

 だが、どうしようもない。今の自分は無力な新入社員でせいさつだつの権限を室見に握られている。不満も不平も押し殺し大人おとなの対応をするしかなかった。

『昨日はすみませんでした。力不足で仕事を終えられずごめんなさい。できればもう一度、今日きよう一日作業を続けさせてもらえませんか』

 しやざいの文句を考えながら、気分がどんどんってくる。室見のことだ。「いまさら何言ってるの?」と鼻を鳴らすかもしれない。あるいはせんさえ合わさず無視してくるかも。その場合はもう強引に作業を進めてしまうか。作業用のPCを占有してしまえば、いくら室見でも素知らぬ顔を続けられまい。

 理屈ではその通り。

 今の自分にできるベストの対応。

 だが、だがしかし。

(いやだなぁ)

 心は正直だった。電車が乗換駅に到着する。ゆううつな気分を抱えたまま工兵はホームに吐き出された。

 ああ、くそ。

 分かってる、分かってるよ。

 謝る、謝るさ。どうせあと二週間のしんぼうだ。自分の頭くらいいくらでも下げてやる。だから──

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