レイヤー2 【7/10】

 とりあえず訳してみるか。

 工兵はゆるゆると手をキーボードにのせた。

 一単語、一単語。

 すべて日本語にすれば何か見えてくるかもしれない。分かる言葉に直し、省略された言葉を足し、普通の文章にさえすれば──

 だが理性はらつかんを否定する。

 何も見えてなんかこない。意味不明な英文を訳しても意味不明な日本語が現れるだけだ。だいたいこれはコンピュータの設定ファイルだ。まともな英文でさえない。がんって訳したところで無意味なテキストを量産するだけだ。

 ……だからって、……じゃあどうすればいいんだ。

 こうへいはぎりっと歯を食いしばる。

 このまま液晶と見つめ合っていてもらちが明かない。時間はようしやなく過ぎていく。今のままではあっという間に定時を迎え残業に突入するだけだろう。

 思考がぐるぐるとめぐっている。

 考えがまとまらないまま、指先はかいてきほんやく作業を続ける。メモ帳の単語をコピーして翻訳サイトにペースト。和訳ボタンを押し結果を別のテキストファイルに書き写す。

 ───。

 どのくらい時間が過ぎただろう。

 最終コンフィグをりつけるメモ帳はあいかわらず真っ白のままだった。

 窓の外はすっかり暗くなっている。ブラインドのすきからぼくじゆうのようなやみのぞいていた。時刻は午後十一時。定時などとうの昔に過ぎ去っている。何度かそれらしい設定を作り上げ提出してみたが、結果は常にNG。ヒントも、どこが悪いかの指摘もなく単純に「やりなおし」──

 テキストを書いては消し、消しては書き直し、コピーとペーストを数え切れない回数り返した。

 その結果がこれだ。

 まばゆいばかりの白、空白ブランクからテキスト。

 もう一度、最初から──

 かんまんな動作でCisco機器の初期コンフィグをコピーする。メモ帳に貼りつけようとして、ふっと指がすべった。タッチパッドに親指が触れアクティブなウィンドウが切り替わる。クリップボードのデータは全く無関係なファイル──ぞん機器のコンフィグにペーストされ、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまった。

(………)

 くらりとまいがした。

 だめだ、これはだめだ。

 全身の気力が抜け落ちていく。今のミスを修正し、もう一度最初から作業する気にはなれなかった。考えてみれば夕食も食べていない。電車だってそろそろ終電のはずだ。

 むろは──どうするつもりなのか。

 せんを向けると彼女はあいかわらず作業を続けていた。もくもくと、たんたんと、疲れをしらない機械のように。

 ひょっとして今日きようも泊まるつもりなのか。

 ぞくりとおぞが走る。じようだんじゃない。とても付き合っていられなかった。こんな調ちようで仕事を続けていたら三日もたたずに倒れてしまう。あるいは神経をやられノイローゼになるか。いずれにしろロクな結末を迎えられそうになかった。

「すいません」

 立ち上がりながら呼びかける。久しぶりに出した声はかすれていた。むろは「ん」と声だけで応じた。

 こちらは見ない。こうへいはぎりっと奥歯を食いしばった。半日飲まず食わずで働かせた挙げ句、この態度はどうなんだ。結果を出せていないとはいえ、ねぎらいの言葉くらいあってもよいだろうに。

 いらちを押し殺しながらつぶやく。

「そろそろ──終電です」

「できたの?」

 室見は感情を含まない声でたずねた。

「……まだです」

「じゃあ続けたら」

「……電車がなくなるんですけど」

「だから?」

「だからって」

 ギィときしませて室見は工兵を見た。けんに深いしわが刻まれている。

「仕事のしめきり今日きよう中って言ったでしょ? あんたの終電なんてお客さんには関係ない。スキル不足で仕事ができ上がらないなら、その分、かける時間でカバーするだけよ」

 工兵はあつにとられた。

 なんだ、それ。

 じゃあ、自分はこの仕事が終わるまで帰れないのか? 眠ることもできず、先行きの見えない作業を続けるのか? 延々と、連綿と。ひたすらに、終わることなく。

 じようだんじゃ──ない。

 ぷつりと何かの切れる音がした。やり場のない不満が波頭となって理性を押し流す。限界だった。

「無理──です」

 ぴくりと室見のまゆが動いた。

「無理? 何が?」

「こんな作業、僕にはこなせません」

「こなせない?」

 室見は心底そうに小首をかしげた。

「なんで?」

「なんで……って」

 こうへいは口ごもった。

「できるわけないじゃないですか、ルータのことなんて何も知らないのに。こんな──いきなり専門的な作業──」

「できない仕事を渡したつもりはないわ」

 むろの声が硬さを増した。

「ルータの基本的な挙動とIPアドレスの考え方、NATについてのしきさえあれば普通にこなせるはずよ」

「だから、……その基本的な部分が分からないって言ってるんです」

 工兵は語気を強めた。

「いくらなんでもちやりすぎですよ。そりゃ室見さんのようなベテランなら、このくらいの作業かんたんにこなせるのかもしれませんけど。僕みたいな素人しろうとは一つ一つ調しらべていかないと先に進めないんです。言われてしめりが今日きよう中だとか。ちやちやです」

「へぇ」

 言うじゃない、と室見は笑った。つんとりようを持ち上げあざけるような表情になる。

「じゃあくけど、今日一日かかって、あんたどこまで調べ終わったの? 一つ一つみ重ねて、さぞかし知識が増えたんでしょうね」

「それは……」

「まさか一日かけて分かったことが、昼ご飯の場所とノートPCの使い方って言うんじゃないわよね?」

 するように言われて、かちんとくる。

 ぎりっと奥歯を食いしばりせんらす。だ、もうついていけない。

 きびすを返したしゆんかん、「どこ行くの」と問いかけられた。

「作業、まだ終わってないでしょ」

 室見の言葉に工兵は振り向いた。

ふじさきさんと話をしてきます」

「藤崎さんと?」

 室見は鼻の両わきにわずかなしわを寄せた。

「藤崎さんと何を話すつもり」

「今日一日のOJT内容と、今の状況についてです」

 ついでに言えば室見のおうぼうと放置っぷりについても。

 正面に向き直りを出ようとする。だが入り口にたどりついた瞬間、室見の声がひびいた。

「逃げるつもり?」

 逃げる?

 こうへいは室見をかえりみた。むろの眼光はするどかった。

「そうでしょ、やりかけの仕事を放り投げて上司に泣きつこうとしてるんだもの」

「逃げるつもりなんてないです。無理なものは無理って言うだけですよ」

「それが逃げるってことじゃない」

「報告や連絡、そうだんが逃げるってことですか」

「この場合、同じようなものよ」

 ──だめだ。

 絶望的な気分になる。この人とは何時間しやべっても分かり合えそうにない。というか理解する気さえないのだろう。彼女は工兵がどうなろうと、ひたすら同じことを言い続けるだけだ。わけなんて知らない、今日きよう中に仕上げろと。

 背中を向ける。もはや何を言われてもとどまるつもりはなかった。

 その時だった。

 背後で風が動いた。タン──とゆかる音がして、がらなシルエットが視界をよぎる。まばたきしたせつ、目の前に室見が立ちはだかっていた。両の手足を広げラボルームの出口をふさいでいる。

「な──」

 あわてて振り返る。室見の座っていたからここまで五メートル以上はあった。その間をいつしゆんけ抜けてきたのか。しかも机や椅子、障害物だらけの床を乗り越えて。なんて運動神経だ。エンジニアの身体能力じゃない。野生動物並みのびんしようさだった。

 室見はにらみ上げるように工兵を見た。

「一つ、はっきりさせておくわ。私を押しのけてここから出ていくつもりなら、その時点でOJTは終了。あんたにSEの適性はなかったと判断する。そこまでの覚悟があって、あんた出ていこうとしてるの? 仕事を投げ出そうとしているの?」

 工兵はまいを覚えた。なんでこう何もかも極端なんだ。

「言っている意味がよく分かりません。なんで、を出るだけでそこまで決めつけられなきゃならないんですか」

 身体からだを斜めにして室見の横をすりぬけようとする。だが室見はぐっと、工兵ととびらの間に身体を割り込ませた。

ちやな納期もけいけんのない業務を振られるのも、この業界じゃ日常茶飯事。そういうものが出た時に、やれ終電だ、やれ教育を受けてないって言い訳する人間を、仕事仲間と認められないって言ってるのよ。一事が万事。今日逃げた人間は明日あしたも逃げると思われる。そんなことも分からないの?」

「分かりませんよ。僕はこの業界について何のしきもないんです。──いいから、ちょっとどいてください。僕はふじさきさんと話が──」

「今のあんたの上長は私! 藤崎さんじゃないわ。──答えなさい、あんた、この会社でやっていく気があるの? ないの?」

 頭に血が上る。

 いつしゆん、反射的に「ありません」と答えそうになった。「こんな会社、こちらからねがい下げです。あなたみたいな人の下につくのもごめんです」と。

 だが、のどもとから出かかった言葉はとうとつに断ち切られた。


「はぁい、二人ふたりともお疲れさまー」

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