レイヤー2 【5/10】

「ちょ、ちょっと待ってください。ちやですよ、そんなの。今の話、半分も理解できませんでしたし。何やったらいいかのイメージも──」

「最初から全部分かったら勉強の意味ないでしょ。分からないところは調べながらやる。エンジニアの基本よ。あと何やったらいいかって、……私言ったでしょ? コンフィグを作れって」

 だから──、そのコンフィグってなんだ。

「とにかく、四の五の言う前にまずは資料を読んで。話はそれから。ちなみにしめきり今日きよう中だから。できあがったら持ってきて」

 を言わさぬ調ちようでノートPCを押しつけられる。そのまま室見はから立ち上がり机の向こうに歩いていった。検証機材の正面の丸椅子に腰掛け、何事もなかったように作業を始める。

 工兵はPCを抱えたままぼうぜんとしていた。頭がついていかない。意味不明な単語のひびきだけが脳裏でだましている。できればもう一度、メモを取りながら室見の話を聞き直したかった。だが今質問しても室見は同じ答えを返すだけだろう。資料を読んでコンフィグを作れと。

 悩んだのち、PCを長机に置く。ゆかを片づけ室見とはすかいに腰掛けた。鼻の頭をきながら液晶ディスプレイを見る。エクスプローラーにいくつものファイルが表示されていた。上から『おもり.xls』『お打ち合わせろく.doc』『移行イメージ図.ppt』

 さきほどむろが見せてくれたパワーポイントは……最後の移行イメージ図か。とりあえず一つ一つファイルを開きかくにんしていく。

 ───。

 ……分からない。

 ざっと流し読んでみたが、さっぱり意味がつかめなかった。たしかに室見の言う通り、この案件のがいようらしき記述はある。だが以下のような文章を読んで一体何が分かるというのか。

『貴社ぞんルータのEoSLにともなう故障リスク、及びトラフィックのふくそう状況をかんがみ、パフォーマンス・コスト両面で最適なだいたいをサイジングしどうにゆうする。なお代替機器についてはへいしやじつせき、及びおんしやスタンダードのご要件からCisco社機器をせんたくする(現行機器はA社製)』

 室見は「日本語くらい読めるでしょ」と言ったが、これを日本語と呼ぶのはどうかと思う。今まで普通に暮らしてきて、一度も耳にしたことのない単語ばかりだった。

 さんざん悩んだのち、とりあえず分からない言葉を抜き出してみた。Excelを立ち上げて一列目に単語、二列目に意味を書き込んでいく。確かに、だいたいの言葉はネットで検索すればヒットする。だが同じ単語が別の意味で使われている場合もありこうへいは混乱した。

 三十分ほどかくとうして、ようやくさっきの文章を訳し終える。

 まず、ルータというのはインターネットの通信をあてさきごとに振り分ける装置らしかった。IPアドレスというインターネットの住所? みたいなものがあり、ルータはそのアドレスを見て通信先を決める。なるほど、電話でいう交換機のようなものか。室見の例えがようやくに落ちる。

 で、それが古くなってメーカーの保守も切れるので、新しいものに入れ替えましょうという話らしかった。だったら最初からそう書けよ──と言いたかったが、工兵はぐっと不満を飲み込んだ。

 今回交換するルータはM情報のインターネット接続に使われていた。台数は一台。現在はAというメーカーの機械が使われているが、それをCisco社の機械に変更する。メーカーが変わるので機械の設定ファイルも作り直しになり、それがコンフィグを作るということらしかった。コンフィグ──Configuration、設定。なるほどそのまんまだった。

 だが比較的じゆん調ちようなのはそこまでだった。

 既存機器のコンフィグを見て工兵はうめいた。ぼうだいな文字列はすべて英語だった。しかも普通の文章ではない。「ADD IP INT」や「ENABLE FIREWALL」など意味不明なセンテンスが並んでいる。室見の張りつけたコンフィグも同様。しかも両者はまったくといっていいほど書式が異なっていた。

 日本語じゃないじゃん……。

 こうへいてんじようあおいだ。

 一体これをどうすればいいのか。日本語に訳して、……それから? ほんやくしたものをどうやって新しいコンフィグに移し替える? まったく検討もつかない。

 とりあえずいくつかの単語でググってみる。「ip cef」──『CEFのうを有効化します』。「interface FastEthernet0」──『FE0インタフェースを設定します』。……だからなんだ。「ip subnet─zero」──『サブネット0の使用が安全であると考えた場合に、制限を解除します』……わはは、さっぱり分からん。

 ───。

 ───。

 ………。

 二時間ほどはつした挙げ句、工兵はさじを投げた。何度読み直してもまったくイメージがかない。どうするべきか、考えていると不意に腹の虫が鳴った。そう言えば二日酔いのせいでもまともに食事をとれていない。気づいたしゆんかんきゆうげきに空腹がしきされてくる。けいを見るとちよう昼前だった。

「……あの」

 工兵はから腰を浮かせた。検証機材越しにむろを見下ろす。室見はディスプレイをのぞき込んだまま、「んー」と顔を上げた。

「何、もうできたの?」

「……いえ、あの、まだなんですけど、ちょっとお昼ご飯買ってきてもいいですか」

「昼……?」

 室見はそうにせんを浮かせた。まばたきを一回、かべ時計をかくにんし「あー」とつぶやく。

「もうこんな時間か。……午前中に一台設定終わらすつもりだったのに」

 舌打ちしながら、またディスプレイを覗き込む。キータッチの音が速度を上げた。

「あ……あの、だからお昼ご飯は」

「適当に食べてきていいわよ。私はここですますから」

「ここで?」

 いつの間に食料を調ちようたつしてきたんだ? 弁当? いや、でもカモメの話によれば室見は昨日きのうの夜もまともに帰ってないんじゃ──

 しんに思っていると室見がごそごそとあしもとを探った。細い腕が白い缶詰を取り上げる。ラベルに大きくマグロのイラストがプリントされていた。って、ツナ缶……?

 室見はばしを取り出しツナ缶のふたを開けた。小鼻をひくつかせながら、期待に満ちたようで中身をつまむ。口に運んだたん、ふわりとじりゆるみ表情がとろけた。

 ──まさか、これが昼飯?

 あつにとられていると室見が顔を上げた。まゆを寄せけいかいするような表情になる。

「あげないわよ」

「………、いりませんよ」

 むろはぎゅっと両腕でツナ缶を抱え込んだ。なんと言うか、卵を守る親鳥のようだった。

 ──そんなに好きなのか。

 刺すようなせんを浴びながらこうへいはラボルームを出た。


 ビルの外に出たしゆんかん、空気が清浄さを増したように思えた。

 陽光を浴び身体からだ中のきんちようゆるんでいく。やはりオフィスではかなり気をつかっているのか、どっと疲れがこみ上げてくる。灰色のビル群、しつなアスファルト、せかせかと行き交う人達。どうということはないしきなのに、まるで自然のただなかに出たような開放感を覚えた。

「んー……」

 大きく伸びをして首を回す。

 まぁ幸いにも今日きようもくようだ。二日耐えれば土日がやってくる。そこでえいも回復できるだろう。

 ……もっともそのあと、また昨日きのう今日と同じようなさわぎがり返されるのかもしれないが。

「………」

 き上がる不安を振り払い工兵は空を仰いだ。

 いかんいかん、またうつになるところだった。

 とりあえず腹ごしらえだ。空腹さえ収まれば少しは気もまぎれるだろう。コンフィグの作成についても何かよいアイディアが出てくるかもしれない。

 工兵は強引に気持ちを切替えた。

 さて、何を食べよう。作業がとどこおっているから席をけすぎるのはまずい。コンビニでサンドイッチでも買うか。そういえば駅前の交差点にファミマがあったっけ。

 うん、とうなずいて歩きだす。

 駅前まで徒歩二分、まだ昼休み前のためか人通りは多くない。横断歩道を渡り店にたどりつく。両開きの自動とびらを抜け弁当コーナーに。ミックスサンドとペットボトルのお茶を持ってレジに向かった。

 会計をすまし外に出ようとした瞬間、雑誌売り場の一角に視線を引かれた。まどぎわの目立つところにしい表紙が見える。誌名の下には大きく『壮絶! IT土方のさんな実態』の見出し。

 うわ、やば、読みたくない。そう思いながらも工兵は雑誌を手に取っていた。

 ──なになに、『消える残業時間、百時間超えでもしんせいは二十時間まで!』『経費節減でくう調ちようもオフ? しやくねつ・極寒ごくがエンジニアをおそう!』『一週間ぶりに帰宅したら妻が子供を連れて里帰り! ごとではない、急増する家庭ほうかい!』

 ………。

 見るも恐ろしい見出しが並んでいる。……いやこれ、さすがにオーバーだろう。スポーツ新聞のあおり記事みたいなものだよね? きっと。

 顔を引きつらせ読み進んでいくと指先が特集ページにたどりついた。タイトルは『あなたの会社は大丈夫? そううけおい、多重けんおんしよう、人材ブローカー』。

 ……人材ブローカー?

 なんだそれ。げんに思い本文を追いかける。記事にはこう書かれていた。


 ──安値で素人しろうとを仕入れ他社の案件に横流しする。基本、教育も管理もしないためコストがかからず、給料と売値の差益だけでばくだいな利益を生む。まさに現在の人身売買、れい商人だ。


『採用時は、プロジェクトマネージャーやコンサルタントへのキャリアパスなど、景気のよい話でおうしやを集める。だが実際は月間のどうりつをどれだけ上げるかのノルマ商売だ。社員はにんという単価で管理され、目標稼働に届かなければ給料でカバーさせられたりたい調ちようを崩すこと覚悟で炎上案件に売られたりする。当然しよくりつは高い。ぼう大手ブローカーなどは平均在職期間三ヶ月といううわさもある。それでも問題にならないのは、こうした人材が基本的に使い捨てだからだ。甘い話にだまされて入社する求職者がなくならない限り、このようなビジネスモデルは今後も存在し続けるだろう』──


 ぱたん、と雑誌を閉じた。

 回れ右して、ぎこちない足取りでコンビニを出る。なんだろう、聞き覚えのある単語をいくつか目にした気もするが、おそらく気のせいだ。昨日きのうの社長の言葉──ニンクが四本で稼働率八割とか──まさかね。あは、あはははは。

 見てない、自分は何も見なかった、読まなかった。

 必死で自分に言い聞かせてサンドイッチにかぶりつく。乾いたパンは、まったくと言っていいほど味がしなかった。

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