レイヤー2 【3/10】

 JRと地下鉄を乗り継ぎ三十分、満員電車に揺られ自宅のえきにたどりつく。地下鉄の出口を抜けると駅前商店街のけんそうが工兵を迎えた。夕飯時ということもあるのだろう、坂沿いのファーストフード店やレストラン、立ち飲み居酒屋はどこも帰宅途中の客でにぎわっている。はなやかなショーウィンドウのあかりを横目に工兵は坂を下り中華料理店の角を右に曲がった。入り組んだ路地を進むこと数分、ちくうん十年のボロアパートにたどりつく。

 かぎを開け家に入ったしゆんかん、どっと疲れがこみ上げてきた。ネクタイをゆるかばんをフローリングの廊下に置く。れいぞうからミネラルウォーターを取り出し、渇いたのどに流し込んだ。

 ……ふぅ。

 なんとかひと心地ごこちついた。

 口元をぬぐい居室に。テレビのリモコンを取り上げ電源をオンにする。たんそうぞうしい音楽と笑い声が室内を満たした。

 ぼんやりとテレビを眺めながらに着替える。れた部屋でいつも通りのチャンネルをつけていると、今日一日のことがまるで夢だったように思えてくる。同期がゼロだったこともYさんがいなかったことも、子供にしか見えないせんぱいがトレーナーになったことも。全部全部何かの間違いだったんじゃないか。今晩寝て起きれば何事もなかったようにもう一度四月一日が訪れ、自分の思い描いた通りの社会人生活が始まるんじゃないか。──

 ……なんて、そんなこと、あるわけないよな。

 妄想に浸ろうとしても今日きようおくはあまりにせんめいで、安易な現実とうくだいてくれる。目を閉じれば浮かんでくる。むろの柔らかそうなほお、すべすべの二の腕、つややかな髪、するどくも美しいとびいろひとみ

 ……いや待て、待て待て。

 なんで室見さんが浮かんでくるんだ。違うだろう。今思い出すべきはスルガシステムという会社のじんさ、今後の社会人生活に対する不安だろう。そりゃまぁ彼女はちょっと可愛かわいいけど……でもあの性格だぞ? 安易に色目など使ったらドライバでつぶしされかねない。だいたい自分が好きなのはもうちょっと大人おとなっぽい感じで。そう、たとえて言うならカモメさんみたいな──

 ぐぅと腹が鳴る。

 そうだ、食事しなきゃ。

 足取りも重くキッチンに向かう。できればこのまま眠り込んでしまいたかった。だがさすがに昼と晩の二食抜きはまずい。明日あしたが今日のように定時帰りできるとも限らないし、体力はなるべく温存しておきたかった。

 だがれいぞうにまともな食材はなかった。そういえば会社の飲み会があることを考えて、買い出しを控えていたのだ。残っているのは缶ビールとチーズ、サラミ、バナナが何本か。

 仕方なくあり物をかき集め寝室に戻る。サラミをつまみ缶ビール片手にテレビを見ていると何とも言えないせきりようかんがこみ上げてきた。

 ゼミの同期とか……いまごろ、新人かんげいかいに出てるんだろうな……。

 考えまいとしても、独り身のさびしさはいやおうなく染みいってくる。せめて実家なら今日きようのことをれたりもしたのだろうが。あるいは彼女でもいたら。

「ふわぁ……あふ」

 アルコールの回りが早い。強烈なすいが脳をおかしてくる。バラエティ番組のたいセットをぶたに焼きつけながら、こうへいはベッドの上でしきを失った。


 夢の中で、工兵はコピーかくとうしていた。

 へいせんの果てまで続くコピー機は常にどこかでけいこくおんひびかせ、工兵をてんてこいさせていた。少しでも手順を間違えるとミスプリントが山のように排出されてくる。それを見た社長がふんの表情で『何をしてるんだ、君。給料からさっぴいておくからな!』とっていた。

 ジャンジャンと鳴る電話に囲まれながら、むろゆうゆうとノートPCをそうしている。たまりかねて工兵はたずねた。

『どうしたらいいんですか、室見さん』

 室見はちらと工兵をいちべつし、すぐまたディスプレイにせんを戻した。きようなさげに『ググったら』とつぶやく。

『朝四時の作業に間に合わせなくっちゃ!』

 だれのものとも分からぬ声が響いた。ああまずい、まずい。このままいくと作業に間に合わない。4アップで両面印刷、パンチは上側。あとどれだけこなせばいいんだろう? 千枚? 二千枚?

 しきがパニックに満たされていく。だまする警告音、電話の呼び出し、社長の怒鳴り声。

 ああくそっ、どれから片づければいいんだ。誰か、誰か教えてくれ!

『ググったら』

 室見が興味なさげに言った。


 ひどい夢を見た……。

 四月二日もくよう、朝九時二十分。

 頭痛と軽い胸焼けを感じながら、こうへいは会社への道を歩いている。

 飲みかけのビールをまくらもとに置いていたのがまずかった。夜通しアルコール臭をがされ、すっかり二日酔いのような状態になっている。

 こんなことならいっそ何も食べずに寝ていた方が良かったかもしれない。きっぱらにビールを流し込むとか、われながら自殺行為だった。起きたしゆんかん後悔したがあとの祭りだ。できればもう少し横になっていたかったが、二日目からこくするわけにもいかない。

 まぁ……どうせまた自習かコピー取りだろうし。

 午前中は適当に気を抜きながらこなしていればいいか。午後になれば少しはたい調ちようもよくなるはずだ。

 エレベータを降り受付を抜ける。廊下の突き当たりにたどりついてカードキーをかざした。

 そうそう、昨日きのうはここで倒れているふじさきさんを発見したんだっけ。あのときは本気で腰を抜かしそうになった。でも今日きよう流石さすがに二度目だから心の準備もできている。昨日のようだと多分またてつだろう。うん、どんな格好で倒れていても大丈夫。受け入れられる。気をたしかに持って。とびらを開けて。


 オフィスのゆかに人が五人倒れていた。


 ………!?

 ………!

 ショックのあまりとびらを閉めていた。

 ふ、ふ、ふじさきさんがいっぱい……いっぱい倒れている!

 意味不明な思考が脳を満たす。落ち着け、落ち着け、深呼吸だ。息を吸って、吐いて、吸って、吸って。

 冷静に考えろ。藤崎さんが何人もいるわけないだろう。今のは幻覚だ。二日酔いでものが二重、いや五重に見えているだけ。ぶたこすってもう一度扉を開ければ。

 ───。

 やっぱり人が五人倒れていた。何度見ても同じだ。ブラインドのめ切られたに動くものの姿はない。散乱したカップめんうつわばし、寝袋がゆかおおっている。

 なんてことだ。自分がいない間に何があったのか。

 藤崎さんやむろさんが倒れているのは想定内として、残りの三人はだれだ? まさかカモメさん? あと外に出ているとかいうほかのメンバー? いや、ちょっと待て。それシステムエンジニアリング部の全員じゃないか。入社二日目に部署全滅とか。どんなサプライズだよ。超展開すぎる。

 頭がくらくらする。ふらふらとよろめきかけてかべにすがりついた。あ、いや、やばい。こっちに倒れるとコピーが。

 ………。

 あれ。

 かべぎわには何もなかった。クリーム色のパネルに小振りなホワイトボードがちょこんと引っかけられている。よく見ればミーティングスペースも、デスクを覆うパーティションも見あたらない。

 目をしばたたき扉のパネルを見る。そこには『ソフトウェア開発部』と書かれていた。

 ……違う部署なのか。

 混乱しながら振り向くと、廊下の途中にぶんが見える。ああそうか、あそこを曲がるんだっけ。

 ほっとしていると、とうとつに背後で悲鳴がひびいた。

「エンバグ! またエンバグしてる!」

 男の一人ひとりが片手を伸ばしている。両の目はぴったりと閉じ合わされているからまだ眠っているのだろう。一体どんな夢を見ているのか、男の顔ははげしいもんゆがんでいた。

 ………。

 こうへいは無言で扉を閉めた。彼らがどんな状況にいるのか、想像するのさえ恐ろしかった。そう、自分はコピーさえ取っていればいいのだ。目指せコピーエキスパート。もう二度といやがったりしない。どんなコピーもかんぺきにやりとげてみせる。

 彼は逃げるようにソフトウェア開発部をあとにした。

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