レイヤー2 【2/10】

 ようやくさわぎが落ち着き、むろに依頼された作業もなんとか終わらせて、工兵はラボルームの机に突っ伏した。

 あしもとには分厚いチューブファイルがみ上げられている。まったく、コピーがこれほど重労働だとは思ってもみなかった。電話の応対も予想以上に神経がり減る。相手の要件を聞き漏らすまいとしきを張り詰めるし、自分の話し方にも気をつかう。専門的なことなど何一つやっていないのに、これほど疲れ果てるとは。先が思いやられた。

「一時間十八分と四十五秒。……話にならないわね。時間かかりすぎ。これじゃあ急ぎの書類とか頼めないじゃない」

 室見が冷ややかな調ちようで言う。工兵は暗いまなしで室見を見た。くそっ、言いたい放題言いやがって。たしかに自分のぎわは悪かった。無知なせいで紙やトナーをにしてしまったのも確かだ。でもドタバタしていたのは最初だけで、やり方を覚えたあとは普通にコピーできていた。にもかかわらず時間を浪費したのは電話の取り次ぎまで行っていたためだ。あれだけ周囲がおおさわぎしていたのに、むろは結局一度も電話を取ってくれなかった。彼女が協力してくれたらもう少し早くこっちの作業も終わっていただろう。だがカモメもふじさきも室見が電話を取らないことに何の疑問も持っていないようだった。

 ──ったく、なんなんだ。……この特別扱いっぷりは。

 じんな思いでいると室見は髪をかき混ぜた。

「ま、いいわ。ちょっとこっちもいろいろ立て込み始めちゃってるから、しばらく自習しといて。新しい仕事教えてる余裕もないし」

「自習……ですか?」

 って、またいきなりだな……この人は。一体何を?

「ビジネスマナーとか業界しきとか、色々あるでしょ。技術的なことはまだいいから、最低限社会人の常識くらいおさえといてもらわないと。危なっかしくて外に連れてけないし」

「はぁ……」

 まぁそれはそうだろうけど。具体的にどうすれば良いのか。自習という以上、室見が教えてくれるわけじゃないのだろう。

「何かテキストでもあるんですか?」

「テキスト?」

「ビジネスマナーの入門書とか……そういうのです」

「ないわよ。適当にググって。ネットにいっぱい転がってるはずだから」

 教材の調ちようたつから自前かよ!

 きようがくの放置っぷりだった。

 ていうかこの人、本当は教育する気なんかないんじゃないのか? 作業のじやにならないよう遠ざけておきたいだけだろ、実は!

「PCはそこにあるやつ使っていいから、パスワードは×××で」

 それだけ言うと室見は作業に戻っていった。ケーブルを取り上げ手元の書類をのぞき込む。こうへいは仕方なくじようのノートPCを立ち上げた。パスワードを入力してログオン、ブラウザを起動し検索窓に『ビジネスマナー』と打ち込む。

 ……検索結果、八百七十七万件。

 なるほど、確かにいっぱい転がっている。

 迷った末『ビジネスマナーの基本』と題されたページをクリックする。

 何々、社会人マナーの原則。──『時間げんしゆ、始業五分前には自席でたい』『身の回りは整理せいとん。クリアデスク、クリーンオフィス』『どうりようにはあいさつ、明るく声掛け』

 ほうほう。

 ……目の前のトレーナーは一つもできてないんですが。

 ………。

 まぁいいや。えーっと、『えんかつな業務はホウレンソウから』? なんだこれ。ああ……報告・連絡・そうだんの頭文字か。『業務のかんどころが分かるまでは、さいなことでも上司に報告・連絡・相談して判断をあおぐこと。自分で勝手に動くと事故のもと!』

 ──なるほど。

 二十分程かけて読み進んだ後、彼はうなった。

 当たり前のことだがなかなか勉強になる。何せ自分は右も左も分からない新人なのだ。こういう基本的な情報はありがたい。えーっと、じゃあ次は……。今日きようまさに苦労したことを調しらべてみるか。電話の取り方とか受け答えの仕方とか──


「んっふぅ」


 ………。

 なんか、今、変な声が聞こえなかったか?

 周囲を見渡すが特に異常はない。気のせいか、首をかしげPCに向き直る。

 えー何々、電話を取るときはまずメモを準備して──


「うっふふーふぅー」


 ………。


 むろだった。

 PCをそうしながらくそな鼻歌を歌っている。彼女は小鼻をひくつかせ、ネットワークのケーブルを取り上げた。

「よしよし、ちゃーんと接続したげるからね。……うりゃ。……来い」

 ……うわ、パソコンと話してるよ……この人。

 どん引きだった。

 いやまぁ仕事の仕方は人それぞれだし。結果を出していればなんでもいいんだろうけど──

「キター!!」

 ……うるさい。

 こうへいは頭を抱えた。

 気が散ってしょうがない。

 首を横に振りディスプレイに集中する。いかんいかん、今はビジネスマナーを勉強する時間だ。むろのことなどどうでもいい。ブラウザのページをスクロール、ええっと電話メモのポイントは──

「んっふふ、ふふふん、ふーふーうふふふっふー。ふふふん、ふふふ、うふーうふーふー」

(………)

 結局、その後も室見の妙な鼻歌や独白は続いた。そう言えばゼミでもPCの作業を始めたしゆんかん、やたら独り言の多くなる人がいたっけ。どうやら室見も同じ手合らしい。こうへいも自宅で作業が行き詰まった時とかPCに向かって毒づくことはある。だからまぁ分からないことはない。ないのだが。……にしても彼女は

 歌うだけならまだいい。たまに疲れたのか大きく伸びをして机に足を投げ出す。とうとつに立ち上がりその場をぐるぐる回り始める。「ねむい!」と叫んだ挙げ句、本当にゆかで眠り込む。……いやまぁ寝ている間は静かでよかったのだが。いずれにせよめいわくきわまりなかった。ひょっとして彼女がラボルームにひきこもっているのって、単純にかくされているだけじゃないのか? そんな疑問を持ちたくなるくらい彼女は自由ほんぽうだった。

 だが工兵は一応といえ室見からOJTを受けている立場で、勝手にはなれるわけにもいかない。結果彼は終始雑音に悩まされながら調しらべものを続けるになった。あれだ、予備校の自習室で予習していたら横にやたらとうるさい学生が来た気分。

 明日あしたからみみせんを持ってこよう──

 切実な思いでいるとむろが彼の名を呼んだ。

さくらざか

 ………?

「はい?」

 会話のない時間が続いたためか、いつしゆん反応が遅れた。室見は画面をのぞき込んだまま手だけをこうへいに伸ばしていた。

「CD─R」

「……は?」

からメディア、取ってきて」

「取ってきてって──」

 どこからだよ。

 だが室見は工兵の存在など忘れたように作業を再開している。細い指がはげしくキーボードをたたいていた。とても質問できそうな雰囲気ではない。

 仕方なく工兵は席を立った。まぁいいや。カモメさんにいてみればいいか。

 廊下に出ると外はすっかり暗くなっていた。けいたいを覗き込むと時間は午後六時を回っている。

 うわ、いつの間に。

 いや、ちょっと待てよ。ここの定時ってたしか五時半だから、それを過ぎてるってことは──

 悪い予感は的中した。ひっそりとしたオフィスにカモメの姿はない。すでに引き上げたあとだった。ふじさきのパーティションをのぞき込むと、こちらもせき中らしく銀色の携帯電話が卓上に残されていた。

 あちゃー。

 頭をきオフィスを見渡す。弱ったな、これじゃどこを探せばいいかも分からない。それらしいキャビネを全部開けていく? いや……でも自分みたいな新入りが勝手にあちこちあさるのもまずそうだし。──

「どうしたの? 桜坂君」

 困り果てていると後ろから声をかけられた。ぎんぶち眼鏡めがねの男性がノートPCをわきに挟み立っている。

「藤崎さん」

 救われた思いで向き直る。よかった、助かった。彼はほっと息を吐いた。

「CD─Rのメディア探してるんですけど、……どこにあるか分からなくって」

「CD─R? それならこっちじゃなくて。入り口脇のキャビネだよ」

 荷物を抱え直し、ミーティングスペースに歩いていく。キャビネのとびらを開け棚を探りながら藤崎は首を傾けた。

「CD─Rなんて何に使うの? 何か納品物でも作ってるの?」

「さぁ……よく分からないんですけど、むろさんがとにかく持ってこいって」

「室見さんの仕事……? ならキャビネの場所も教えてもらえばよかったのに」

けるような雰囲気じゃなかったんです」

 事情を察したのかふじさきは苦笑した。

「まぁ、彼女、仕事にねつちゆうすると他人のことなんかどうでもよくなっちゃうからね。悪気はないはずだからかんべんしてあげて」

 ………。

 そんな人に教育を任せて良いのか?

 つっこみたくなる気持ちを抑え、代わりにこうへいは気になっていたことをたずねた。

「……あの、室見さんてどういう人なんですか」

「? どういうって?」

「仕事はずいぶんベテランみたいですけど……その、見た目とか性格とか」

 ひどく──子供っぽい。

 というより外見だけなら本物の子供にしか思えない。

 藤崎はせんらしほおを掻いた。

「彼女は……うん、まぁなんていうか、いろいろ複雑でね」

「複雑?」

「まぁおいおい分かるよ。ひょっとしたら彼女が自分から言うかもしれないし」

 ………?

 なんだろう、奥歯に物が挟まったような言い方だった。首をかしげていると藤崎は工兵に向き直った。CD─Rを顔の横にかざしてみせる。

「これは僕から渡しておくよ。室見さんがそんな状態じゃ今日きようはもうまともに話もできないだろうし。さくらざか君は引き上げてもらって構わないよ」

「……え、でも」

「彼女につきあっているといつまでたっても帰れないよ。まぁ残りたいなら止めないけど、桜坂君、たしか昼ご飯もまだでしょ?」

 言われたしゆんかん、思い出したように腹の虫が鳴った。そう言えばいろいろあって昼休みもまともに取れていない。とうとつに空腹がしきされてきた。

「……じゃあ、あの、おねがいします」

 ぺこりと頭を下げ工兵は気づいた。

「そういえば藤崎さんは帰らないんですか? 昨日きのうてつ作業とか言ってませんでしたっけ」

 藤崎は「ああ」とうつろなみを浮かべた。

「あと二時間後に作業があってね。そのあと、深夜一時に作業があって、朝の四時にもう一つ作業があるんだ」

 ケタケタと乾いた笑い声がひびいた。どうやらいてはいけないことをたずねてしまったらしい。こうへいあわてて退散した。

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