レイヤー1 【3/7】

 ………!?

 ………!

 言葉にならない声を上げてあとじさる。上体をのけぞらせたまま、工兵は顔中の筋肉をひきつらせた。

 そうしんの──男性だった。

 白シャツにこんのズボン、真ん中で分けた髪が耳を隠している。顔にはハンカチが置かれ鼻から上を隠していた。けたほおしようひげがわずかにしゆつし照明の光に照らし出されている。

 男は右半身を下に、やや猫背の姿勢で倒れていた。よく見れば呼吸にあわせ肩が小さく上下している。──生きてはいるのか。いや、だが──

 息をんでいると、社長がつかつかと男に歩み寄っていった。耳元にしゃがみこみ大きく息を吸い込む。

「おい、藤崎君! 起きろ、私だ!」

 空気がふるえるようなだいおんじようだった。男の身体からだがびくりとね上がる。ハンカチが落ち、ほそおもての気弱そうな顔があらわになった。小さな目がぱちぱちとまたたき周囲を見渡す。明らかに周囲の状況をにんしきできていないようだった。

 だが社長は男の混乱に気づいた様子もなく、陽気に彼の肩をたたいた。

「なんだ、君。またてつしたのか! いかんぞ、もう少し効率よく仕事しないと。夜間の空調もただじゃないんだからな。ビジネスタイムに片づけられる仕事はビジネスタイムにやる。だらだらやってても生産性が下がるだけだからな!」

 男は「ああ……」「ええ」「うう」と意味不明の声を上げている。きょどきょどと周囲を見渡す様子は、まるで幼児のようだった。だが社長はさっき男のことを「藤崎」と呼んでいた。それでは──この人が自分の上司?

 あつにとられていると社長が工兵を指し示した。

「ほら、増員だ。人事から新入社員が来ると聞かされていただろう。よかったなぁ、これでもっともっと仕事をこなせるぞ」

「新入──社員?」

 ふじさきひとみじよじよしようてんを取り戻していく。社長はうなずいた。

「そうだ。えーっと、彼は……さくら、桜ん──」

さくらざかこうへいです」

 あわてて工兵は名乗った。「桜ん──」って一体なんと紹介するつもりだ。

 ……サクランボ?

今日きようからこちらでお世話になります。よろしくおねがいいたします」

 工兵は一礼した。藤崎が「ああ、……はい」と平板な調ちようで礼を返す。その答えを聞いて社長が立ち上がった。これでもう用はすんだとばかりにすがすがしい表情となっている。

「じゃあ藤崎君、しっかり彼を教育して一刻も早く戦力に育ててくれよ。ニンクは──とりあえず四本でいい。来月にはどうりつを八割まで上げてくれ。いいな」

「………」

「では君、がんってくれたまえ!」

 がはははと笑って社長はを出ていった。とびらまる音とともに、なんとも言えないちんもくが訪れる。工兵は気まずい表情で藤崎とせんを合わせた。

「あの……」

「おお、そうだそうだ。忘れてた!」

 声を上げかけたしゆんかんそうぞうしい音をたてて扉が開いた。赤い禿はげあたまがぬっと室内に差し入れられる。社長はぎょろついた目で藤崎を見た。

「例のメールシステムこうちくな、あれ受注したぞ!」

 瞬間、藤崎の顔からいつさいの表情が抜け落ちた。あごががくりと落ち瞳から光が消える。社長は畳みかけるように言った。

「要件は君あてにメールするよう先方に伝えてあるから。それを見てよろしく進めてくれたまえ。ああ、ちなみに納期は来週中だ。頼んだぞ」

「……ちょ! ちょっと社長、待ってください! それは……!」

 藤崎の口から初めて言葉らしい言葉がほとばしった。だが叫び声は白いドアにさえぎられ届くことはなかった。社長は言いたいことだけ言うと、さっさと廊下に引き上げてしまっていた。

 藤崎はすがるように伸ばしていた手を、へなへなと下ろした。全身の力が抜け陸上げされたたこのようになっている。

「あ、あの……大丈夫ですか」

 事情が分からないまま工兵は藤崎に呼びかけていた。社長の言葉が藤崎の心に何か回復不能なダメージを与えたのは間違いなかった。精神に生じたひび割れは放っておけば肉体に広がり目の前の男をバラバラにくだいてしまいそうだった。

「……ああ」

 たっぷり数十秒はちんもくしたのちふじさきはうなずいた。そう漂う顔に弱々しいみを浮かべこうへいを見る。

「大丈夫、……いつものことだから」

「いつものことなんですか!?」

 しようげきだった。

 藤崎は身体からだを起こした。胸ポケットから眼鏡めがねを取り出し顔にかける。立ち上がると意外にうわぜいがあった。がたなせいか妙にひょろっとした印象を受ける。

 藤崎は工兵に向き直り頭をいた。

「……ごめんね、みっともないところ見せちゃって。昨日きのうてつ作業でね、起き抜けで頭が回ってなかったんだ。──ええっと、さくらざか君だっけか?」

 工兵はこくりとうなずいた。藤崎はにゆうな表情で頭を下げた。

「藤崎です。君の……上長ということになるのかな。いろいろ大変だと思うけど、こっちも精一杯サポートするから。よろしくね」

「……あ、こちらこそ」

 よろしくおねがいしますと言って工兵は一礼した。正直とても他人のサポートまで手が回りそうに見えなかったが、かといってこちらからえんりよするのも妙だった。そんな工兵のしゆんじゆんに気づいたようもなく藤崎はきびすめぐらした。

「とりあえず席に案内するよ。荷物持ったままじゃ落ち着かないだろうし、仕事の話はそれからってことで」

「……はい」

 藤崎についての奥に進んでいく。

 オフィススペースは意外と奥行きがあった。二十畳ほどの空間にパーティションで囲まれたデスクが並んでいる。仕切りが高いためか見通しは悪い。全部でデスクは八つほどあるだろうか。通り過ぎながらのぞき込んでみるとほとんどの机は無人だった。書類や部材が山とみ上げられ物置のようになっている。

「ここ──何人くらいの部署なんですか?」

 ふっと疑問を投げかける。藤崎はせん彷徨さまよわせた。指を折りつぶやくような声で答える。

「六人……いや、五人かな? こないだ一人ひとり辞めたから」

「辞めた──」

「結構出入りはげしくてね、うちの部署」

 悲しげに言って藤崎は工兵を振り返った。口元に乾いた笑みがある。

「桜坂君は……健康に自信ある?」

「……それなりには」

「それならよかった。いやぁ、なんかね。みんな入社してしばらくすると、いきなりたい調ちようが悪くなったとか言って。会社に来なくなっちゃうんだよね」

「………」

「目がかすんで画面が見えなくなってきたとか」

 目……?

 こうへいはぴくりとまゆふるわせた。社長の質問がのうよみがえる。

『──視力はどうだ?』

「ビールを飲んだらアレルギーが出たとか」

『酒は大丈夫か?』

「──虫歯が悪化して家から出られなくなったとか」

『虫歯はあるか?』

 ───。

 眉根を寄せる工兵に、ふじさきはやんわり微笑ほほえんでみせた。

「でもさくらざか君はそういう心配ないんだね。ならほっとしたよ」

「………」

 えっと……。

 なんだろう、この逃げ道が次々とふさがれていく気分。真綿でじわじわと首を絞められていくような感覚。

 ──気のせいだ。

 強くしきして不安を振り払う。きっとぐうぜん身体からだの弱い人達ばかりだったのだろう。間違っても仕事がつらくてびようを使ったなんて話じゃないはずだ。

 だってYさんのしよく紹介には『うちの会社は、その人のできる仕事しか振らない』と書かれていたのだから。『たしかに大変だけど、個々人の適性を見て無理のないはんで仕事を振ってもらえるから、がんろうって気になるんです(笑)』って。

 ………。

 そういえば、Yさんの席はどこだろう?

 社内にいるならいろしろいてみたいことがあった。採用担当に会って以来感じ続けている疑問、違和感。彼にかくにんすれば自分の不安などまたたひようかいするはずだった。

 だがYさんの所在をたずねるより前に藤崎が足を止めた。

 いつのまにかの一番奥、まどぎわの席にたどりついていた。ブラインド越しにあわい陽光がし込んでいる。パーティションのすきから背の高いかんよう植物がのぞいていた。

 ここが自分の席?

 いつしゆんそう思いかけるが、仕切りの向こうから軽いキータッチの音がひびいていた。中にだれかいる。

「カモメさん、ちょっといいかな」

 ふじさきの呼びかけに答えるようにキータッチの音がんだ。「はぁい」とのんびりした声、次いでを引くはいがした。

 パーティションのすきから細身のシルエットが姿を現す。

 エプロン姿の──女性だった。年のころこうへいよりわずかに上といったところか。長くれいな髪を二つにまとめ背中に流している。広くしゆつしたひたいは陶器のようになめらかでくすみ一つない。涼しげな目元に柔らかな光が宿っていた。

「カモメさん、総務から連絡来てるかもしれないけど、こちら新入社員の桜坂君。今日きようからうちの部署に配属なんで、席とか社員証とかいつものように説明おねがいできるかな」

 藤崎の紹介に女性は「あー、はいはい聞いています」とうなずいた。椅子に座ったまま工兵にしやくする。

「──カモメです。こちらの部署の──事務とかアシスタント業務を担当しています。分からないことがあったらなんでもいてくださいね」

 うすべにいろの唇がふっとほころんだ。まなじりゆるめられ、つぼみが開くようにりよくてきな微笑となる。どくりとどうが高鳴った。工兵はどぎまぎしながら会釈を返していた。

「桜坂工兵です、よろしくお願いします」

 返してから、ふっと違和感にとらわれる。

 えっと……何? なんて名前だって?

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