レイヤー1 【1/7】

 四月一日、すいようの東京は雲一つない快晴だった。

 日差しがまぶしい。太陽の光が質量を持ち肌をたたいているようだった。こうへいはJRちやみず駅のかいさつを抜けひたいに手をかざした。右手にはかんがわ、左手にスクランブル交差点が見える。こぢんまりとしたビルが多いせいか都心にもかかわらず空は広く感じられた。

 いよいよだ。

 工兵は背筋を伸ばす。

 今日きようこの時から自分の社会人生活は始まる。学生時代とは異なる未知の世界、勉学ではなく労働が役割となる社会。

 同期はどんな人達だろう。入社式は、研修では何をやるのか。配属はまだ先だろうけどしよくようくらいなら見せてもらえるかもしれない。せんぱい社員に会ったらなんと言ってあいさつしよう。ああそうだ。自己紹介の台詞せりふ。忘れないうちにもう一度復唱しておかなきゃ。

さくらざか工兵です。しゆはスノボ(一度しかやったことないが)と古本屋めぐり(ブックオフで漫画をあさること)。お酒はそんなに強くありませんが誘われれば喜んでいきます。精一杯がんりますので、皆様どうぞよろしくおねがいいたします』

 時刻表わきかがみに向き直りしかつめらしい顔でささやく。

 よし、大丈夫覚えている。

 満足げにうなずき工兵は自分の立ち姿をチェックした。

 ネクタイ良し、髪型良し。くつひもも──うん、ほどけてない。時間は始業の十五分前、すべて予定通りだった。

 スルガシステムのビルはここから西に数分、めい大学の裏手にある。今から向かえば余裕で入社式に間に合うはずだった。

 工兵はかばんを開け、中からコピーのたばを取り出した。タイトルらんには太文字で『先輩社員の言葉』とある。自分にこの業界を志させたYさんの記事だった。何度も読み返すうち、紙の端は折れ曲がり印刷もにじんでいる。だが工兵にとっては何にもまさるお守りだった。

 Yさんの写真に向かってもくれい、入社式の無事を祈る。気合じゆうてん完了。工兵はコピーをしまいスクランブル交差点に向かった。

 ───。

 朝の駅前交差点は戦場のようだった。信号が青に変わったしゆんかんざつとうほんりゆうと化し横断歩道にれ込む。工兵は半ば押し出されるようにして対岸にたどりついた。額の汗をぬぐいながらファストフード店の前を通過、コーヒーショップ奥のさんを左に折れる。そのまま何分か歩いていくと、飲み屋のかんばんれ一転ビジネス街のしきが現れた。

 地図をかくにんし細い道をすいどうばし方面に向かう。予備校の校舎を通り過ぎた先に目的地はあった。ガラスとタイル張りのかべを組み合わせたシックな建物。今日から彼の働く職場──スルガシステムのしやおくだった。

 ごくりとのどを鳴らしエントランスに踏み込む。自動ドアが外のけんそうを断ち切りせいじやくが訪れた。エレベーターに近づき入居者表示をかくにん。スルガシステムのオフィスは……七階か。面接や会社説明で何度か訪れているのになかなか覚えられない。

 エレベーターに乗り7のボタンを押した。

 軽いGとともに階数表示が2から3、4へと変わっていく。

 深呼吸を一回、気づけば背筋が伸びていた。表情をめ、だれに出くわしてもよいよう姿勢を正す。

 5。

 6。

 7──

 ポーンとチャイムの音がひびいた。身体からだこわばらせるこうへいの前でとびらが開いていく。冷たい空気が顔をでた。

「………」

 うすぐらいエレベータホールに人の姿はなかった。窓からの光がうっすらとゆかを照らしている。一階と同様、耳の痛くなるようなちんもくが通路に満ちていた。

 奇妙な違和感を覚えながら工兵はホール向こうの受付に向かった。そろそろ始業時間だというのに、誰もいないのだろうか?

 狭い待合いスペースには古びたソファーとかさたてて、かんよう植物が並んでいた。無人の受付に白いないせん電話がぽつんと置かれている。

 ───。

 なんとも言えない不安が心を満たす。人事からのメールでは四月一日本社に集合とだけ伝えられていた。てっきり受付で人事がたいしているか、入社式会場への案内があるものと思っていた。

 もしかしてメールを読み違えたのか? ──いや、そんなはずはない。一体何度読み返したと思っているのか。集合場所、時間、当日の持ち物。モニタに穴が開くほどメールの内容を確認した。

 今日きよう、朝九時半に本社を訪問すること。これは間違いない。一階に案内板もなかったから、どこかほかの場所──かいしつに集合ということもないはずだった。

 落ち着け、落ち着け、落ち着け。

 混乱しかけたしきしずめ考える。ひょっとして、ここで人事を呼び出せということか? 周囲に誰もいないのは自分が最初に到着したから。けいを確認すると集合時間のわずか五分前だったが、工兵はその事実を意識から追いやった。

「………」

 無言で内線電話に近寄り受話器を取る。

 番号案内のがみかくにんし面接の時にかけた番号──総務部のないせんをコールする。そこの代表に電話すれば人事担当にもつながるはずだった。

 祈るような気持ちで耳をそばだてる。くぐもった呼び出し音が受話器の奥でひびいた。

 一度、二度、三度。

 ──だれも出ない。

 続いて四度、五度、六度。コール音が十を超えた時点でこうへいは受話器を置いた。もう一度番号を確認しかけなおす。だが結果は同じ、何度コールしても内線は繋がらなかった。

 じわりといやな汗が背中からにじみ出してきた。

 恐ろしい想像がのうに浮かぶ。

 仮に、仮にだ。最初のメールのあと、集合場所の変更連絡が来ていたら? それに気づかず古い方のメールのみ確認していたら? 普通で考えればそんなことはありえない。だが例えばの話、新しく届いたメールがめいわくメールフォルダに入っていたら──

 全身からが引く。入社初日からこく、会社の人達はどう思うだろう。間違いなくよい印象は持つまい。『あいつはこういう時でも平気で遅刻するやつだ』そんな感想を抱くかもしれない。

(ど、どうしよう……)

 助けを求めるように工兵は周囲を見渡した。

 ───。

 こうなったらほかの部署に電話してみるか。しんがられるかもしれないが、事情を説明すればにはされないはずだ。人事に取り次いでもらい入社式の場所を確認する。──よし。

 意を決し受話器をつかんだ時だった。

「──ああ、さくらざか君」

 背後でのんびりとした声がひびいた。

 振り向くとスーツ姿の男が立っていた。線の細いにゆうな顔立ち、女性と見まごうばかりに白い肌。高いりようの上で垂れ気味の目が微笑ほほえんでいる。年のころは二十代後半、わきに書類を抱え反対の手にけいたい電話を握っていた。

「あ……」

 工兵はぱちぱちと目をしばたたいた。全身のきんちようが一気に抜け落ちる。総務の採用担当だった。

 男はちらとうで時計どけいに視線を落とした。「おっと」と肩をすくめる。

「もうこんな時間か。ごめんね、ちょっと朝一で打ち合わせ入ってたんで。──結構前に着いてた?」

「いえ……」

 何気ない調ちようで言われ混乱する。採用担当がいる以上、やはり集合場所はここで間違いないのだろう。だがだとしたらなぜ他の新人が見あたらない?

「あの……」

 躊躇ためらいがちにたずねかけて妙な違和感にとらわれる。目の前の採用担当──なんだろう、面接の時とえらく感じが違う。あの時の彼はもっとこう、銀行員のようにな雰囲気を漂わせていた。だが今は良く言えばフランクな、悪く言えばひどくだらしない格好だった。ネクタイはゆるみ、シャツの第一ボタンはぞうはずされている。ボリュームの多い茶髪が後ろに流されライオンのたてがみみたいになっていた。

ほかの人は……まだついてないんですか?」

「他の人?」

「新入社員です」

 採用担当は首をひねった。かたまゆを持ち上げ「……いや?」とつぶやく。

「いないけど」

「いない?」

としの入社はさくらざか君、一人ひとりだよ」

 こうへいは目を丸くした。

 新入社員が……自分一人?

「いや……え、でも、あれ? 面接の時、他にも内定者がいるとか言ってませんでしたっけ?」

「ん……? 言ったっけか、そんなこと」

 採用担当はもう一度、さっきと反対側に首をかしげた。おくを探るようにせん彷徨さまよわせた後、肩をすくめる。

「それはまぁほら、内々定出したからって全員入社するわけじゃないからさ。辞退する人もいるわけだし」

「で、でも──」

 まさか全員辞退したわけではあるまい。面接の時、採用予定人数は三人から五人と聞かされていた。そのわくが埋まりそうだというので工兵は急ぎ内定しようだくしよにサインしたのだ。採用枠に余裕があるなら、一度持ち帰りどうするか考えたはずだった。

 混乱する工兵の肩を、だが採用担当は気安い調ちようたたいた。

「ま、ま、こんなところで立っていてもなんだからさ。そこの──かいスペースで待っててよ、すぐ社長呼ぶから」

「社長?」

 採用担当はうなずいた。

「新しく入った人とね、うちの社長、入社時にめんだんしてるの。入社式とか特にやらないんで、そのかわりにね」

 社長と個別面談──、そう聞いて気分がわずかに上向く。会社のトップが自分一人のために時間をけてくれるのか。もしかして──期待されている? なんとも言えない感覚が身体からだを満たした。採用人数の件は気になるが自分が聞き間違えていただけかもしれない。担当の雰囲気も面接時のきんちようで違って見えたのかも。……うん、きっとそうだ。

「──ああ、社長ですか? はい……はい。例の新人です。今ミーティングスペースBにいるんで来てもらえますか。……ええ。──はい、分かりました。それでは待ってますんで。では」

 こうへいをミーティングスペースにみちびき、採用担当はけいたい電話をしまった。

 パーティションの裏に机とが置かれている。採用担当は工兵を手前に座らせ中座した。戻ってきた時には両手に紙コップのお茶を持っている。

「あ、どうも」

 紙コップを受け取り工兵は頭を下げた。口をつけてよいか迷ったのち、とりあえず机に置く。かわりに彼はたずねた。

「あの……社長ってどんな方ですか?」

「ん?」

 採用担当は工兵を見た。

「どういう人? ……どういう人ねぇ」

 つぶやきながら口元をゆがめる。

「まぁ大らかな人だよ。細かいことは気にしないし、基本現場に任せてくれるから仕事はやりやすいかな。僕に下りてくる指示も、いついつまでにこのニンクで何人そろえろってあんばいだから。スキルセットとか経歴とか細かく指示してこない分、調ちようたつは楽だね」

 へぇ……と工兵はあいまいに相づちを打った。専門的な単語はよく分からないが、社員を信頼し仕事を任せてくれるタイプということだろうか。

「ただ大ざっぱすぎて困る時もあるけどね。こないだなんて大変でさ。コールセンターの要員って言うんで二人ふたり手配したらコンサルティング要員ってオチで。頭の『コ』しかあってないっつーの。客出しのニンクは決まってるし、もうどうしようかって」

 ………。

 えーっと……。

 いまいちイメージがかないが軽い調ちようで言ってるから大した失敗じゃないのかな? 現場を信頼し、たまにそそっかしいミスをしでかす社長。……うん、憎めない人物だ。

 ところでさきほどから採用担当がつぶやいている単語、──ニンクってどういう意味なのだろう。づらを思い浮かべ意味をたずねようとした時だった。

 ドタドタとそうぞうしい足音がオフィスの奥からひびいてきた。

「お、おいでなすった」

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