窓の向こうの炎


 シュン、と音をたててドアがひらく。

 真っ白い部屋に置かれたベッドには真っ白い毛布がかけられており、その上に真っ白い顔をした少女が横たわっている。

 シュガーは、そっと中に入った。

 猫科の怪人ノワールの特性とは大したもので、靴を履いていてもまったく足音をたてずに歩くことができる。

 はて。肉球の意味とは?

 浮かんだ疑問についてはあとでボガートに質すとして、いまはミルシュの様子見だった。

 定位置にある椅子に腰かけ、顔を近づける。

 きれいだ、とシュガーは思った。

 月並みな表現だが、おそろしいくらいに。

 ここにくるたび眺めているのに、見飽きるということがない。

 染みひとつない白い肌は、薄く研がれた刃物のような輪郭と相まって、雪に覆われた岩山を思わせる。

 ゆるやかに上下する胸に合わせ、くちびるがかすかに動いている。

 あまりと言えばあまりにも繊細。ふれればたちまち壊れてしまいそうなほど。

 だから、思わず守ってしまったのかもしれない。

 実力でははるかに劣る自分が、逆転を期して放った秘策のさなかに。

 唐突に、視界に紅が飛び込んできた。

 ミルシュが目をあけたのだ。


「はわ」


 ばっちり視線が合ってしまい、シュガーは狼狽えた。


「お、起きた?」

「……ここは医務室ですね。運び込まれるのは久しぶりです」


 眉ひとつ動かさないまま、ミルシュは淡々と言った。


「だ、大丈夫? 痛いところとかない? そのはずだよね、ぐるぐる巻きにしてガードしたから。たぶん……それとも、あたしが気づいてないだけで、どこかやっちゃったりしてる?」

「ご心配なく。どこも問題ありません」

「よかったぁ」


 シュガーは浮かせていた尻を、すとん、と椅子に落とした。

 ミルシュは、まばたきすらせずに天井を睨み続けている。まるで、かたくなにこちらを見るのを拒否しているかのうようだった。

 沈黙に耐えかね、シュガーが口をひらこうとすると、機先を制するようにミルシュが声を発した。


「ぼんやりとですが憶えています。何度もここにきていますね?」

「起きてたの?」

「夢うつつの状態を保っていた、と表現すべきでしょうか。たぶん億劫だったのでしょうね。あなたと話すのが」

「ひっど! 要するに寝たふりしてたんだ」

「寝たふりとは違いますが、結果的に似たようなものですね」

「そんなにあたしに負けたのが悔しかったの?」

「負けた? まさか、あんなまぐれを勝ちにカウントしてるんですか?」

「ぐっ……た、たしかにまぐれかもしれないけど、勝ちは勝ちじゃん。それに、次やるときはもっと強くなってるんだから!」


 なぜ勝ったはずの自分が負け惜しみみたいなセリフを口にしているのだろう?

 理不尽を感じ、シュガーはうにゅにゅと唸った。

 顔を上げると、ミルシュがくちびるの片端をかすかに歪めた。


「そう願いたいものですね」

「馬鹿にして……」

「いいえ、本心です。私は心から、あなたが元の強さを取り戻して欲しいと思っているのです」

「え?」


 シュガーが訊き返すと、しゃべりすぎたとでも言いたげに、ミルシュは顔を反対側に向けた。


「な、なんかワッケわかんないんだけど……さっきはあんた、引退しろっつってたじゃん」

「復帰したいという、あなたの意思を尊重して意見を変えたんです」

「そりゃどーも! 他にも色々と訊きたいんですけど?」

「まったく……起き抜けに勘弁してほしいですね」

「つれなくすんなし。とりあえず、あたしとどういう関係だったの?」

「話したところでどうなりますか。どうせ憶えてもいないのに」

「思い出すかもしれないじゃん」

「思い出したって、あなたは――!」


 ミルシュは出かかった言葉を呑み込み、すぐに平静を装ったが、その手が一瞬、きつくシーツをにぎりしめたのを、シュガーは見逃さなかった。


「あたしが目を覚ましたとき、会いにきてくれなかったよね?」

「…………」

「なんで? なんか気まずくなるような事件でもあった?」


 ミルシュが頑なにこちらを向こうとしないので、シュガーは身を乗り出し、上から強引に覗き込んだ。

 答えを聞くまでてこでも動かないぞ、と無言の訴えを続けると、根負けしたようにミルシュはため息をついた。


「怖かったんです」

「怖かった?」

「ええ。変わってしまったあなたを見ることが」


 ふいに紅い瞳がこちらを向き、シュガーの心臓は跳ねた。

 燃えるような、切ないような。

 作り物めいた貌の中で、そこだけが異質で。

 まるで――そう、まるでそこだけが、開け放たれた窓のように、彼女の心を覗かせている気がした。


「あ、あんたとあたしは……」

「同じラボで作られた、ただの兵器。せいぜいが姉妹。それだけです」

「それだけってことないでしょ」

「いいえ。すくなくとも、ただの一度だって、あなたは私を見てくれなかった」


 抑えた声だったが、薄皮一枚を隔てて炎が渦を巻いているようだった。

 ふれればたちまち壊れてしまう。

 繕った鎧は氷の堅牢さではなく、雪の脆弱さを露呈しつつあった。


「あなたは強かった。あなたは美しかった。誰よりも疾く、誰よりも優雅で――自他ともに最強と認められていたのはヘルラのほうだったけど……彼女の傍らに立つ存在として、この上もなく相応しいと誰もが思っていた。私は――私は、そんなあなたに憧れていたの」

「そっか……だから怖かったって……」


 かつて見上げていたものが、いまは無様に地の底を這いずっている。

 親しい人のことも、戦うすべも、なにもかもを忘れ、それでもなお――

 きっと彼女の目には、もう取り戻せない輝きを求めて足掻いているように映ったのだろう。

 だから怒りもわくし、そんな姿を晒し続けるくらいなら、いっそ引退してくれとも願うだろう。


「ご理解いただけましたか?」

「うん。でも――」

「わかっています。復帰の意思が固いのなら、私はそれを止めはしません。もとより止める権利もありませんし……ですから、これからはあなたを応援することにします」

「ミルシュ!」


 思わず握った彼女の手は、想像どおりすべすべでひんやりしていた。


「ありがとね! あたし、頑張るから! 見ててね、ちょー強くなるから!」

「え、ええ。そうですね」


 ヘルラのこと。

 彼女を殺した英雄ブランのこと。

 現場への復帰と、そのためのトレーニング。

 いままでどこか漠然としていたそれらのものが、ようやく明確な線で繋がった気がした。

 ミルシュへの感謝を伝えるため、手にいっそうの力を込めて上下に振ると、なぜか彼女はそれにひっぱられて上体を揺らし、ついにはベッドに倒れこんでしまった。


「え、なに? どうしたのミルシュ!」

「なんでもありません……」


 ミルシュは両手で顔を覆った。

 耳から首まで、彼女の瞳に負けないほど真っ赤になっていた。

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