‟現在”・1

 白と、赤と、あとは見渡す限りのクリーム色。半ば崩れたレンガの塀に、羽虫が一匹張りついていた。

 指でつまんでみると、乾いた音をたてて砕けた。どうやら、塀にとまったまま干からびてしまったらしい。

 指の腹をこすりあわせ、ふっと息を吹きかけてから、女は再び歩き出した。

 熱い。

 中天から降り注ぐ日差しが、容赦なく地上を灼いている。そこに舗装された道と建物の壁からの照り返しまで加わり、殺人的な暑さとなっていた。

 にもかかわらず、パーカー姿の女に、まるで苦にするようすはなかった。フードの下から覗く肌にも汗ひとつ浮かべておらず、軽やかな歩調に乗せて鼻歌をうたうほどに余裕綽々だった。


「今日もどこかで人が死ぬ♪」


 物騒なセリフが、愉しげな声音で飛び出した。

 よく見れば、一帯の建物にはどれも破壊の跡があり、道も地面もあちこち陥没していた。

 そこここで煙が燻り、女の他に人の気配とてもない。

 砂漠のただなかに、生まれたての廃墟の町。

 トライドン国政府軍と、武装組織マドファとの遭遇戦が起きたのは、つい三十時間前のことだ。

 結果は政府軍の圧勝だった。ここ、タンガの町を拠点としていたマドファは、国境により近い辺境の町、ボーラまで落ち延びていった。


「タマラおばさんのお店、美味しかったんだけどなー」


 残念そうに呟いた女の爪先は、そのボーラに向いていた。





 ボーラのバザーは、平時同様の賑わいを見せていた。

 威勢のいい呼び込みの声と子供らの笑い声。時折響き渡る、喧嘩と思しきどなり声。

 常に多少の緊張感を漂わせてはいるが、それは戦時下であることさえも日常の一部とする、人々の逞しさとも言えよう。

 まったくたいしたものだ、と人ならざる者である女は素直に思う。この先、どれだけ過酷な状況が続いても、そう簡単に滅びはすまい。たとえ一人ひとりが、どれほど脆くか弱い生き物であったとしても。


「やあ、キラ」

「ん、おばちゃん」


 声をかけてきたのは、フルーツの屋台を出している老婆だった。

 キラと呼ばれた女は、フードをおろしてにこりと笑顔を向けた。ポニーテールにした黒髪の先が、跳ねるように揺れる。


「ここんとこ見なかったけど、どうしてたんだい?」

「ちょっとヤボ用」


 キラは、赤ん坊の頭ほどもあるオレンジを手に取った。そのようすを眺めながら、老婆は心得顔でうなずいた。


「ほんとは、もうちょっと早く帰って来たかったんだけどねー。そうすりゃ、タンガの街だって」

「ぜんぶがうまくはいかないさ。それにほら、マドファの連中が流れてきたおかげで、ここもちょっとは潤うってもんさね」

「いまんとこはね」


 タンガは住民のほとんどが少数民族ヤルトラで構成されており、ヤルトラ族の若者が中心となって創りあげたマドファとは友好的な関係にある。とはいえ敗残兵というものは、常に鬱憤を燻らせ続けている集団だ。なにかにつけて余裕がなく、いつ、どんなきっかけで導火線に火が付くとも限らない。


「大丈夫。みんなまだ、オムツが取れたばかりのガキんちょさ。アタシらの目の黒いうちは……」

「あはっ。頼もしいね」


 女が白い歯を見せて笑う。それから、辺りをはばかるように声を落とした。


「政府軍の司令官をブチ殺した。これでマドファの立て直しまで時間が稼げる」

「……有難いね」

「その代わり、報復はより苛烈になると思うけど」

「それでも、虫ケラ同然にしか思われてなかったアタシらへの見方が変わるなら安いモンさね」


 互いに不敵な笑みを交わし、キラが立ち去ろうとしたそのとき。

 殺気が辺りに満ち、通行人が数名、ふたりを取り囲むように立った。


「キラさん……ですね? シザ――」


 相手の言葉が終わらぬうちに、キラが首をひと振りした。

 彼女のポニーテールがひとりでにほどけ、ふたつに分かれたかと思うと、凄まじい速度で別々に円を描いた。独立した生き物のように翻り、凄まじい速度で一回転した。


「ヒッ」


 老婆が悲鳴をあげて尻もちをつく。キラの髪は老婆の頭頂部ぎりぎりをかすめ、被っていた帽子のてっぺんを寸断していた。


「な――ッ!」


 キラに向かって訊ねた男の喉が、ぱっくりと横に裂けた。

 噴きあがる鮮血。喉を押さえてよろめき、それでも男はなんとか踏みとどまったが、他の者たちは無事では済まなかった。

 ある者は頭部を、別の者は頸部を完全に断たれ、声を発するいとますらなく現世を旅立っていた。

 よく見ると、髪と見えたものは、頭頂部から生えた一対の長い耳だった。


「驚いたかい? 私の耳は地獄耳。ただし地獄へ落とすほうのね」


 舌なめずりするような口調でキラが言った。

 狼狽える男の左右で、絶命した彼の仲間たちが爆発した。

 文字通り木っ端微塵。

 まるで冗談のように、派手な音と煙をあげて、そこに人のかたちをしたモノがあったという痕跡を一切残すことなく、それらは四散した。


「あらら。再生怪人か。どうりで脆い」

「おのれ!」


 男は、空いているほうの腕を振りあげた。その指先は、いつの間にか肥大した刃物のように変じていた。

 同時に、周囲の建物の陰や屋根の上から、新たな人影が現れる。

 増援――!

 キラは小さく舌打ちすると、ノーモーションで地面を蹴った。弾丸じみた横っ飛びで、包囲の薄い箇所を突破する。


「ちくしょうっ、待ちやがれ!」


 たちまち、疾風が疾風を追うが如き、人外の追走劇が開幕した。


「ひゃああ!」

「なんだ!?」


 目にもとまらぬスピードで彼女らが駆け抜ければ、まさしく嵐の通りすぎたあとのような有り様となる。

 倒れた屋台。道に散乱した売り物。宙を舞う洗濯物。ふっとばされた人々のうめき声――人外同士の争いに、普通の人々は基本的になすすべがない。

 それがわかっているキラは、なるべく人気のない場所へと追っ手を誘導した。それが敵にとっても好都合であると理解した上で。

 街はずれの空き地。おびただしい数のがらくたや廃材が投棄され、いくつも山を成している。いつ崩れるかわからないため、ふつうの人間ならまず近づかない一画である。

 ゴミ山を前にしてキラは振り返り、追っ手の数を確認した。


「いち、にぃ、さん……ぜんぶで六体かぁ」


 最初に倒したのが四体。

 怪人(ノワール)による小隊を編成する場合、耐久性に問題のある再生怪人は、一度も倒されたことのない、いわゆる“ヴァージン・ノワール”の下につけられることが多い。


「あんたが隊長?」


 キラは喉を斬られた男に訊ねた。再生されたものとはいえ、怪人(ノワール)の驚異的な生命力によって、すでにほとんど傷は塞がりつつあった。


「答えたくないか。ま、どっちにしろやることは一緒だしね」


 キラは両手をだらりと垂らし、いつでも相手の動きに対応できる姿勢を取ると、肺に溜め込んだ息をゆっくりと吐き出した。

 ざわ……ざわり。

 彼女の身体を、柔らかそうな毛が覆う。同時に、身体もひと回りほど大きくなった。

 たおやかな女性の面影を保ちつつ、彼女は異形へと変貌する。

 真っ赤な眼。下向きに突き出た前歯。棍棒のような太腿――まるで直立した黒ウサギ。右腕は完全に機械化され、左腕の倍ほども太い。それはマドファに与する怪人ノワール――シザースバニーと名づけられた、冷酷なる殺戮兵器であった。

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