或る挿話 後編
「正体を現したな、悪魔め」
憎悪のこもった声で、男はいいました。
「数十年にわたり正体を隠し、国民を欺いてきたか!」
「汚名は甘んじて受けましょう。もとより我ら〈
そんな私を、ここの人たちは受け入れてくれた。明るい世界でともに歩むことを許してくれた。
「だから私は、今日ここで死ねることを誇りに思います!」
すでに彼女は変身を終えていました。
巨大な複眼に触覚。枝のようなな四肢――腕の先は鋸歯のついた鎌。手の甲にあたる部分からは鋼鉄の銃身が突き出しており、四本に増えた脚は絶妙なバランスで身体を支えております。
痩身をエメラルドを思わせる硬質の装甲で覆い、獲物を捕食せんとするかように前傾するその姿は、恐ろしさと優美さを兼ね備え、異形でありながらもどこか心惹かれるものでありました。
これが〈
ブローガンマンティス――それが彼女の、〈
「ほざくな! 貴様のような怪物が人の真似事など反吐が出るわ!」
男のほうも、大きく様変わりしていました。
ターバンを巻き、黒鉄の鎧で全身を包んだ中世風の戦士の姿。両手に
「我は輝く太陽の使者! “灼き尽くす者”バフリーマムルーク!」
「聞いたことがあります。あなたが反乱軍を率いる
戦意旺盛な敵を前にしてなお、彼女は泰然としていました。
それは、訪れた運命を受け容れたがゆえの、諦念にも近い態度であったのかもしれません。
「勘違いするな。俺は単なる象徴。先頭に立つのは、あくまでこの国の民だ」
「旧弊な王権を打倒し、民衆の手による新政府を樹立する――そういうシナリオですか」
「なにをいっている。これは天意だ」
「そうとらえますか……まあ、そうでしょうね。私はかつての戦いですこしばかり壊れているので、正常なあなたとはちがうものが見えているのです」
「ワケのわからぬことをごちゃごちゃと! 時間稼ぎのつもりなら、その手には乗らんぞ!」
ひと声吼えたかと思うと、男は彼女に襲いかかりました。
静かに。しかし疾く。
床を蹴る音はほとんど聞こえなかったのに、あっという間に距離を詰めてきます。
すれ違う瞬間、二条の閃光が走りました。
三日月刀による斬撃。予測していた彼女は跳んでかわしましたが、避けきれず、装甲に浅く傷がつきました。
(かすっただけなのに、この衝撃……!)
彼女は翅を広げてバランスが崩れるのを防ぎつつ、銃口を男の背中に向けました。
彼女の腰から生えた豆の鞘のようなものは、カマキリの腹部です。ただし中身は
「喰らいなさい! “厄災のイペリット”!」
ふたつの銃口から、毒々しい黄色のガスが勢いよく噴き出しました。
これに包まれれば皮膚は焼け爛れ、呼吸器を通して肺までも破壊します。
ところが、男が三日月刀を頭上で交差し、打ち合わせると、澄んだ音とともにガスは四方に散ってしまいました。音波を利用した防御法、“見えざる
彼女は即座に己の不利を悟りました。毒ガスも毒液も、この技の前には男に到達する前に飛散してしまうでしょう。
密閉された空間であればまたちがったのでしょうが、この場所は客人に快適に過ごしてもらうため、屋根の下や壁などにいくつもの穴が穿たれ、とても風通しがよくなっているのです。
しかし、だからといって攻撃をやめるわけにはいきません。さもないと、男は彼女を放って王子を追いかけるでしょう。
酸。神経ガス。火炎。液体窒素。
彼女は手を休めることなく、思いつく限りの物質を合成し、男に浴びせ続けました。
「ええい、遠くからちまちまと! 正々堂々前に出て戦え!」
男は苛立ったように叫びました。
相手が嫌がることを繰り返して焦りを生じさせ、隙を作ることができれば――彼女にはそんな期待もあったのですが、男の目を見たとたん、すぐに霧散してしまいました。
セリフの激しさに見合うほど、男は動揺してなどいません。
これはあくまでポーズ。
悪役らしく姑息な手を使う彼女に対し、正義の立場から批難して見せる――英雄としてあるべき姿を、彼は示し続ける必要があるのです。
そこに男の意思はありません。誰かにそのように作られたから、誰かにそう望まれたから、そのように振舞っているだけ。
(哀しい。なんて哀しい)
もっとも、男は同情など欠片も望んでいないでしょうし、彼女にもそれを口にするつもりはありません。
彼女もまた男と同類であり、しかももっと救いがなく、惨めな存在なのですから。
何十回目かの攻撃が不発に終わったとき、ついに男が攻勢に出ました。
“見えざる岩城”を立て続けに発動。一発目は彼女の攻撃を相殺し、二発目の軌道を追走するようにして接近。迎撃は不可能です。二発目の“岩城”を相殺したところで突進は止められませんし、そもそも次の攻撃が間に合いません。
四本の肢をばねにして、空中に跳躍。最速の判断で最適の行動を選択したつもりでしたが、それでも肢の一本を斬撃に持っていかれました。
やはり、強い。
たとえ有利な場所で戦っていたとしても、勝利は覚束なかったでしょう。
それほどに、〈
翅を広げてバランスを取りつつ着地。追撃しようと身構える男に向かって右腕を伸ばし、ガスを発射。
「無駄だ! いまさらそんな攻撃――」
ところが、黒煙にも似たガスの塊は、前方に進むのではなくその場に留まり、彼女の身体を覆い隠しました。
「ちぃっ! 逃げるつもりか!?」
男が剣をひと振りすると、風圧でガスの塊はふたつに裂けました。
しかし、散っていくガスの中に、彼女の姿はありません。
「どこだ!?」
左右を見まわし、振り返った男の目が、驚愕に見ひらかれました。
男の後方約二十メートル。そこには、両腕をそろえて前に突き出し、三本の肢で身体を支え、さながら一機の砲台のようなポーズを取った彼女の姿がありました。
「ハドロン・ロア!」
祈るような気持ちで、彼女は自身の持つ最大最強の技の名を叫びました。
物質を合成するための全エネルギーを攻撃に振り向け、ひとつに融合した砲身から閃熱を放出する、捨て身の大技。
これを喰らえば、いかに〈
灼熱の白光が、清浄なる死をもたらすべく男へと驀進します。男は慌てたようすで三日月刀を打ち合わせ、“岩城”を発動させました。
こんどは彼女が「無駄なことを」と考えました。
ガスや毒液ならいざ知らず、この攻撃を音波でそらすことなどできはしません。
男の身体がぐらりと傾きました。
バランスを崩したのかと思いましたが、そうではありません。
男は自分の技を使って、自らの身体を押したのでした。
(かわされる!? いや、大丈夫、いける!)
間に合うはずがありませんでした。間合い、タイミング、技の特性――どれをとってもこれ以上ないというほど完璧な
閃光が大理石の床を深々とえぐり、反対側の壁に巨大な穴を穿ちました。柱の一本も大きく損傷し、天井からは瓦礫や細かい破片が降り注いでいます。
文字通りの必殺技――生きている者などいるはずがない、そうあってくれという願いはしかし、むなしく裏切られることになりました。
痛々しい床の傷からわずかに外れた場所で、瓦礫を押しのけ、ゆらりと立ち上がる者がありました。
むろん、それはあの男――〈
彼女は震えました。歯はカチカチと鳴り、膝の力は抜けて、いまにも崩れ落ちそうになるのを必死にこらえました。
彼女の胸に去来したのは「信じられない」ではなく、「ああ、やっぱり」という想いでした。
〈
それは、砂漠に雪が降らないように――あるいは日が沈んだのちには夜が来るように、最初からそのように定められた不変の法則なのでした。
〈
たとえそうなったとしても、かならずなんらかの要因が働き、致命傷には至らない。
幾分〈
もしかしたら、理を外れているかもしれないと。
(ちょっぴり期待したんですけど……やっぱり、ダメでしたね)
力を使い果たし、満足に動くこともできませんでしたが、やるだけのことはやったという爽快さが彼女を満たしていました。
彼女の表情が、苦悶から穏やかなそれへと変わり、口許にはうっすらと笑みが浮かびました。
そして、次の瞬間。
男の無慈悲な一撃が、袈裟懸けに彼女を斬り裂いたのでした。
噴きあがる鮮血。あまりにも簡単に壊れてしまう肉体。彼女を彼女たらしめていたものが、飛び去ってゆく感覚。
(ああ、殿下……)
彼女の力は、男に遠く及びませんでしたが、それでも王子が逃げるのに充分な時間が稼げたはず。
国が滅び、彼女が息絶えたとしても、彼が生き延びていさえすれば――
(ああ……なんだ)
唐突に訪れたその答えに、彼女の心は震えました。
(〈
そういえば、〈
彼女の肉体はもう動かないけれど、魂だけの存在になったなら、王子についていくこともできるはずです。
――そうなら、いいですね。
――あなたは寂しく思うかもしれないけれど。
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