アンチヒーローズ・ウォー

葦原青

或る挿話 前編


 それほど遠くない昔。

 とある砂漠の国の王宮に、一人の侍女がおりました。

 明るく働き者で気配り上手。誰からも好かれ、そればかりでなく国王夫妻でさえも、彼女に対しては単なる侍女以上の敬意を払っているように見えました。

 やがて待望の王子が誕生し、彼が物心つくと、彼女は王子付きの侍女となりました。

 相変わらず完璧な仕事ぶりで周囲の信頼厚く、王子にとっては本当の家族以上に親しい相手となっていきました。

 ところで彼女は、誰もが認める美人でもありました。

 王宮の華たる貴婦人たちのような派手さはありませんが、慎ましやかかつ知的で、さらにはただ立っているだけで滲み出てくる凛とした心の強さのようなものが、他にはない魅力となっておりました。

 そんな彼女に、成長した王子が異性として惹かれたとしても、なんのふしぎがありましょうか。


「ファトラ」


 彼女を呼ぶ王子の声が、かすかに苦しげな響きを帯びていることに、聡い彼女はとうに気づいておりました。


「君を僕のものにしたい」

「なにを仰いますか。わたくしはすでに殿下の下僕しもべにございます」

「そうではない。いずれ、僕が父上の跡を継いだら……その……妻にと」

「なりません。殿下とわたくしでは身分が違います」

「そ、そんなものどうとでもなる! しかるべき貴族の養女にするなりなんなり、体裁を整えれば……」

「それに、わたくしは殿下よりも、ずいぶん年上にございます」


 やんわりと、彼女はさえぎります。


「しかし――!」

「このお話はもうお終いにいたしましょう。これは一時の心の乱れ。それを、国の乱れとしてはなりませぬ」


 やわらかいけれど、有無をいわせぬ口調で、彼女は話を打ち切りました。



 そういえば――と、王子は気づきます。

 彼女の年齢は、いったい幾つなのだろう。

 女性に歳を訊ねるのは失礼だと教わっていましたし、そもそも気にしたことがありませんでした。

 でも――


(わたくしは殿下よりも、ずいぶん年上にございます)


 いったい、どのくらい上だというのでしょう。

 それとなく人に訊いてみましたが、誰も彼女の正確な年齢を知りません。

 ただ、たしかに彼女自身がいうように、かなり前から王宮に仕えているようではありました。

 人によっては王子が生まれる前とも、父王が若い頃からとも。中には先王の時代からという者さえおりました。


「ばかな。それではファトラは、三十年も侍女をやっていることになるではないか」


 彼女の見た目は、どう見ても二十歳そこそこです。

 しかし思い返してみれば王子の知る彼女の姿も、はじめて会ったときからずっと変わっていないような気もします。

 いったい彼女は何者なのか。

 こうなったら父上に訊くしかない――

 多忙を極める政務の合間を見計らって、王子は王様を訪ねました。

 王子に疑問をぶつけられた王様は、しばらく無言で何事かを考えたあと、長々とため息をつきました。


「……あれのことは気にするな」

「しかし、どう考えてもおかしいでしょう!」

「いずれわかる」


 にべもない王様の態度に、王子はひきさがらざるを得ませんでした。

 しかし、これでいよいよ彼女が只者ではないとはっきりしたようなものです。

 王子の興味はますますかきたてられ、同時に彼女への気持も強まりました。神秘性とは、より人の魅力を高めるスパイスでもあるようです。

 もっともこれ以降、王子の前にはますます大きな壁が立ちはだかるようになります。どうやら王様から家臣たちへ厳しい通達があったらしく、彼女に関する事柄について、皆固く口を閉ざすようになったのです。



 それからさらに時は流れ――

 終わりは突然やってきました。

 クーデターが勃発し、反乱軍が王宮に雪崩れ込んできたのです。

 守備兵は奮闘しましたが、勢いに乗る反乱軍を押しとどめることはできません。

 いたるところで爆発音や銃声が響き、怒号と悲鳴がそれに混じって、奥の院にいる王子の耳にまで届きました。


「これまでです……両陛下は……賊どもの手にかかり……」


 報告にやってきた武官は背中に酷い傷を負っており、まもなく息を引き取りました。

 王子がどうしたらよいかわからずに狼狽えていると、彼女がやってきました。


「ファトラ……」

「こちらです、殿下」

「しかし、父上と母上が……」

「彼らは王家に関わる者すべてを根絶やしにするつもりです。この上は、なんとしてでも生き延びることをお考え下さい。殿下さえおられれば、王家の血は絶えません」


 隠し扉を抜けた先にある長い廊下を、彼女に手を引かれながら王子は走りました。


「いたぞ! あそこだ!」


 背後から聞こえた追っ手の声に、王子は震えあがりました。


「どうして……こんなにはやく……」

「内通者がいたのでしょう」

「そんな……ここにそんな不埒者がいるなんて」

「この国を潰したいという大きな意思が動き出せば、止められるものではありません」


 彼女は謎めいた物言いをしました。

 いったい彼女はなにを知っているのだろう? 長年の疑問も相まって、王子の胸には彼女に対するふしぎな感情が渦巻きました。


「ファ……ファトラ……!」


 はじめは、家族のようなものでした。

 やがて、そうではないことを知り……心の溝が生まれはしたものの、そんなものは憧れで埋められると思っていました。

 いつか。

 待ってさえいれば。

 そんな日がくると――


「ファトラっ!」

「殿下」


 彼女は足を止めました。

 けれどもその視線は王子に向けられず、まっすぐに前を見据えておりました。

 そこは他国からの使者をもてなす部屋で、広々とした空間に、明り取りの窓から差す光が傾いた柱のように差し込んでいました。

 その光の中に。

 男が一人、立っていました。

 若く、ハンサムで、はちきれんばかりに鍛えあげられた肉体。王子の知らない制服はおそらく反乱軍のものと思われましたが、武器のようなものはなにひとつ持っていません。


「殿下」


 彼女は前を向いたまま、そっと王子の背中を押しました。


「お別れです」

「なにを――」

「ここは、わたくしが食い止めます」


 彼女はもう一度、今度は強く、背中を押してきました。


「いってください。振り返らずに、いってください」


 彼女の身体が、一瞬大きく震えたかと思うと、両方の袖が音を立てて裂け、異様に変形した長い腕が露わになりました。

 スカートの裾の下からは巨大な豆の鞘にも似た物体が現れ、背中からは半透明で無数のはねが四枚、生えてきました。

 呆気に取られる王子に向かって、彼女は哀し気な声でいいました。


「殿下……わたくしは、幸せでした。本当なら、とうの昔に死んでいたはずだったのものを救っていただき……そればかりか、これまで慈しみ、大切にしてくださいました……ですから……」



 ――いって!



 流れる涙を振り払い、王子は走りました。

 背後では激しい戦いの音が響いています。

 これが最後の――彼女にとって、最後のつとめと理解して、王子は走りました。


(ファトラ! ファトラ!)


 声にならない声で叫びながら、彼女の願いをかなえるために走ったのでした。


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