タイトルのない詩(うた)
体育館で行事があった
私は当時内科小児科クリニックで事務と薬剤の仕事をしていた
患者さんの多い朝の仕事を終え早退して行事に参加した
行事にあたり、お茶の用意をしなければいけなかった
バスケットを一時間半してから大縄跳びだ
「何だか疲れたな」
大縄跳びはあと一巡で終わろうとしていた
跳んだ瞬間にバットで殴られたような感じがした
そのまま床に崩れ落ちた
立ち上がろうとしたが左脚がグラグラで立てない
土曜日の午後、殆どの病院は休診だった
行事に参加していた体の大きな人におぶられて何とか車に乗り込んだ
オートマチック車だ、右脚は動く
近くの消火器外科の門を叩いた
「うちは整形外科ではないので紹介します」
連絡した家人も到着した
医師が紹介してくれた病院へ着く前に発熱と痛みが襲ってきた
紹介された病院で医師は脚の指先を出した所から膝の上までギブスをした
真っ青な顔をした医師が言った
「必ず歩けるようになるからね」
ギブスをしたら、痛みはおさまった
「とりあえず元の病院に行って1ヶ月したらギブスを取ってリハビリをして下さい」とその医師は言った
初めに行った消火器外科の医師は紹介先の医師の指示に従い、1ヶ月後、ギブスを取った
まったく歩けない
勤務先のクリニックの医師から
「○○君、そろそろ仕事に出て来てくれないか」との電話があった
まったく歩けないのですと説明した
「大きな病院に行きなさい、うちで紹介状を書くから」
大きな病院で診察を受けた
「完全に腱と腱が離れて固まっているので35センチ切って1番硬い筋膜を引っ張りクロスさせて足首にとめるという、腱を作り直す手術が必要ですが、手術を受けるかこのままビッコでいるかはあなたが決めて下さい」
私は念のため別の大きな病院の診察を受けた
診断は先ほどの病院の医師と同じだった
私は手術をしようと思った
一生ビッコで歩くのはイヤだ
「どっちで手術する?」
家から近い病院で手術したい旨を伝えた
「そうか、では○○先生に手術してもらいなさい」と優しく言って下さった
入院して手術のための血液検査をして、いよいよ手術となった
医師は「なぜ最初に行った○○病院ですぐに手術しなかったのかな、部分断裂ではなく完全に切れていたのに」と手術の朝まで担当医は首を傾げていた
そんなこと言われたって私にわかるはずはないのである…
手術は自身が全身麻酔で盲腸の手術をした時に呼吸困難になった事を伝えたので局部麻酔(下半身麻酔)で行われた
手術が始まった
担当医は【黄金の腕】と言われる名医である
手術が始まって3時間無言のまま手術は進む
手術室の看護師さんが3人、途中で顔をしかめているのが見えた
気持ち悪いくらいなんだろうと予想はついた
研修医は1人
それまで無言だった医師は「これが今1番良いと言われる手術だよ」と研修医に一言だけ話した
手術を終えて病室に戻った
何かスポンジのようなやわらかな物を脚に感じた
何かあるから取って下さいと言った
それは自分の脚だったのに…
手術後、完全に意識がはっきりすると足の指だけが出た状態で膝の上までギブスがされていた
その日から抗生物質の点滴が始まった
病院食は普通のお米のご飯が出された
何日も経たないうちにお米を食べると砂を食べているようだった
それは何日か続いた点滴のために自分の舌が荒れて普通のお米がそのように感じたのだ
看護師さんに言ってお粥に変更してもらった
移動は車椅子だった
朝夕に清拭をするのだが、ギブスをしているためにお風呂やシャワーは出来なかった
髪だけを看護師さんは洗ってくれる
病室では若く同じ歳くらいの女性と友達になった
毎朝6時に車椅子同士ということもあり、その人は私と共に自販機コーナーで珈琲を買って飲むのが楽しみだったらしい。私自身は当時コーヒーを飲まない人だったのだが…
やがて入院生活が3ヶ月過ぎようとしていた
ようやく外泊許可が出て家に帰った
夜寝るとギブスをした脚の踵が堪えきれないくらいムズムズして私は布団に寝た状態でガンガンと脚を床に叩きつけた
一晩だけの外泊だった
ギブスがいつ取れるのか医師にしつこく聞いた、医師はギブスを外すことを渋っていたからだ
いよいよギブスを取る日が来た
3ヶ月も使わなかった脚は筋肉がおちて細い棒のようになっていた
しかもそれだけではなく…短い
医師は抜糸をした時に手術前と同じく「手術痕が気にならないか?」そして「肌色のテープがあるから気になるようならそれを使うといい」と言った
松葉杖で廊下を歩く練習をしていた時のこと
手術室の看護師さんの3人の中で知り合いの看護師さん1人に会った
私の姿を見て少し会話した
「歩けるようになるといいね、難しいけど」
同情に満ちた顔でそう言った
ただ私が入学した高校に体操部がなかったために陸上部に入り400メートル・800メートルの選手として3年間続けた
そのため脚力が残っていた…幸いなことに
回診に医師が来る度に退院はいつですか?と聞く日々が続いた
「いや、まだだね」
3ヶ月が過ぎて、ほとほと入院生活が苦痛になっていた
「お願いします、退院させて下さい」と何度も言うと医師は「いやまだなんだがね」と言ったがしぶしぶ退院許可を出して下さった
松葉杖での退院となったのだ
その後は適したリハビリというものがないとのことだった
退院して勤務先に電話をかけた
状況を伝えると
「○○君、いつまでも待ってるからね」と優しく言って下さったが、それどころではないことは自分が1番わかっていた
松葉杖、脚も短い、後ろから人が歩いてくるだけで恐怖になる、ナースシューズを履く自信もなかったからだ
歩くこととお風呂で脚を動かすことが私にとってのリハビリだった
それでも何とか脚の長さも少しずつ揃ってきた
何をしたら社会復帰(仕事)が出来るだろうか
「そうだ、掃除の仕事が出来れば何でも出来る」
母に紹介してもらい、銀行と大手建設会社の清掃の仕事に就いた
事務所の涼しいクーラーの部屋で仕事をしている方々の横で汗だくで掃除をした
仕事を兼ねたリハビリは効をそうした
約1年半後、私は元のクリニックではないが、元々の職業に戻ることになった
しかし出来ないことがやはり残った
全てのスポーツ、自転車に乗る、ジャンプをする、急な坂を降りる、ハイヒールを履く、足首にあたる硬い靴を履く等々である
それまで好きだったスキーも出来なくなった
今、言わない限り誰も脚が悪いことに気がつかないまでになった
右脚の膝にグルグル巻きに包帯を巻いて歩こうとした時に左脚が前に出ないことに気がついた時はショックだった
だから滑る雪道で歩いた時に咄嗟の行動が出来なかったのだと
もともとのアキレス腱ではない事が脳の運動反射と繋がっていないからではないかと
しかしこれは多分研究がされていない分野であり、症例も少ないから想像の範囲だ
左脚でよかったのはACの車の運転が出来ることであった
クラッチを踏み込むことは左脚には出来なかった
一人暮らしになって車を手放した
自転車に挑戦してみようと思った
1ヶ月サドルを1番下にして少しずつ練習
乗れた!奇跡だと
それは条件付きではある
咄嗟の事に対応できない左脚、人や車が急に出てくると支えられないので自転車ごと倒れるしかないということを忘れてはならないのだ
力が入らない脚をかばうために腰や右脚に負担がかかる
違う病院のリハビリテーションセンターに毎週土曜日通うことにした
プールで歩く、脚を温める、筋力の強化というメニューをこなした
長い時間歩けないこともありディズニーランドに行った時は最終的に車椅子だった
見た目で脚が悪い事が分かるように杖を持って歩きなさいとリハビリの医師から指導された
ここまでが陳旧姓アキレス腱形成術を受ける前と後の記録である
なぜ最初に紹介された整形外科が直ぐにつなぐ手術をしなかったのは不明である
ただ私は誤診を訴えることはしなかった
そして、このようなアキレス腱断裂(部分断裂ではない)基礎的な最初の症状に整形外科医師が正しく治療対処していただくことを希望している
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なお、陳旧性アキレス腱断裂で正直な記事を読んだ。若手整形外科医とある。
陳旧性アキレス腱断裂はその原因の半数は初診時の見逃しであり、足の外傷の診療にあたる者、特に整形外科医としては必ず頭に中に入れておかねばならない外傷の1つです(本文抜粋)
そして記事に感謝してリンクを貼っておきます
https://sports-doctor93.com/achilles-tendon-chronic-rupture/
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