海、満ちて
「まず、俺が『隼人』から『神』を出す。そしたら、すかさず、九字だ」
「わかりました」
頷く私を確認してから、ついっと、鬼頭が前に出る。体を前に進めようとすると、大気が壁のように立ちふさがるかのように感じられた。呼吸が苦しく感じられるほど、圧迫感を感じる。
龍が大きく咆哮を上げ、さらに発光した。銀鱗があたりを照らす。
荒ぶる神の力を抑え込みながら、龍は天へと頭を向けている。
不意に、ツンと、潮の香りが濃くなった。空の力だろう。吹き荒れる大気のゆがみが若干、柔らかくなったようだ。
「はじめる」
田野倉の声がして。
私の後方で、しゃりん、と、錫杖の音が鳴った。
『ゆるくとも、よもや許さず縛り縄、不動の心あるに限らん』
田野倉の声とともに、隼人の身体にさらに銀の光の糸がのび、拘束が強まった。
光の糸でぐるぐると縛られながらも、隼人は小刻みにふるえながら、力を放出し続けている。
逆立つ鉄色の髪が鈍い光を放つたび、大地がきしむように揺れた。
鬼頭の狩衣が、吹き荒れる力ではためき、私は揺れる不安定な大地に、思わず倒れそうになるのを必死で踏ん張り続ける。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・行
鬼頭は、呪を唱えながら、足を進めていく。銀糸の光で縛られた隼人から、鬼頭に向かって大きな力が奔流となって流れだしたが、彼の歩みは、急流の中に浮かぶ飛び石をとんでいるかのように、流れを苦にしていない。
その姿は、まるで、舟を飛び越えていく義経のようである。
『この息は我が息にあらず。入るも神の息吹、出るも神の息吹』
隼人のそばにたどり着いた鬼頭は、呪言とともに隼人に向かって、息を吹きかけた。
ぐわっぁぁ
獣のようなうなり声をあげ、隼人は頭を掻きむしりながら、ひざをついた。
鉄色の髪がごっそり抜け落ちるかのように、隼人から『力』がぬけていく。
鈍く光る鉄色の塊はどろどろとして、アメーバのように、隼人の身体から流れ出した。
すべての力が抜け出た時、隼人の髪色は黒色に戻り、バタンと大地に倒れ落ちた。
「優樹菜!」
鬼頭の声に、私は教えられたとおり、刀印を結び、アメーバのように這いまわる塊を見る。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
私の中の神の力が、強い力が濁流となって体中を脈打って刀印から流れ出ていく。
描いた格子が、まばゆい光となって輝き、あたりは昼間のように明るくなった。
ぎゃああああああ
天をつんざく叫びがとどろいた。
目を焼くほどの光がおさまるにつれ、周囲を取り巻いていた『荒らぶる力』が収束していき、黒みを帯びた深い緑が、青白い――あの、夜光虫のような色合いに変わっていく。
いろを変え、力の放出をやめた、どろりとしたアメーバのようなそれは仔牛ほどの大きさに盛り上がり、ふるふると小刻みに振動しながら――私を見た。
目がどこにあるかもわからないのに、間違いなく私は『見られている』のを感じる。
悪意も善意もないが、ただ、その存在の意思が、私に向けられている。
その身のうちに膨大な力が蓄えられているのは間違いなく、私はその事実に震えた。
「ご神体を!」
鬼頭の声に弾かれて。
私は、胸に抱いていた桐箱から玉を取り出した。
無色透明なその水晶玉のようなそれに手を触れた途端、全身に感電したような痺れが走った。
私の中の『神』が脈打って、力がみなぎってくるのがわかる。
「干する神よ」
私は、その玉を額に当て、私の中の神へと願う。
「満ち足る神を御身体にお戻しする力を、この手に」
祈りとともに、私の全身に『神』が広がっていく。かつてないほどの『渇き』を私は覚える。まごうことなき、『干宮』の神の力だ。
神を感じながら、私は足を進める。
不思議とどうしたらよいか、私にはわかっていた。
理屈ではなく、おそらく潮田の家の『血』に刻まれた『記憶』なのかもしれない。
「満ちたる神よ」
私は青白い光を放つ塊に向かって、球を手にしたまま手を伸ばす。
満ち足る神は、そこに確かにいる。
しかし、触れることはかなわず、ひんやりとした感覚だけが手にふれる。神はただ、私を見ていた。ツンと潮の香。懐かしい香りだ。
「御身は、こちらへ。二百年の満宮のお務めに感謝を。ご苦労でございました。これより、干宮へ、お連れいたします」
神は、その言葉に満足をしたのか。
するすると私の持つ玉に入り込んでいく。球は、最初に見たのと同じように、淡く青白い光を放ち始めた。
力がすべて、神体に戻ると、あたりに暗闇が戻ってきた。
満天の星が降るように輝いている。
さざ波の音が遠くで続いていた。
「さすが、巫女姫」
田野倉が呟き。
「行こう――時間がない」
私は鬼頭に促され、干宮へと戻った。
干宮に神体をおいて、私たちは、急いで海へと向かった。
海は満ち始めていて、途中、ひざ下まで海に浸かることにはなったが、田野倉と空が魔物を払い、私は鬼頭に支えられて、海を渡り切った。
満宮につき、最後の祝詞が終わると、私は生も根もつきはて倒れこんだ。
そして。気が付くと、目の前に、心配そうな鬼頭の顔があった。
「大丈夫か」
「えっと、ここは?」
体を起こすと、節々が痛んだ。
心電図の音がしている。違和感を感じた指には 医療器具がついていて。私の手首には、点滴の管が伸びている。
そこは白い見慣れない小部屋で、鬼頭のほかに、空と華さん、そして田野倉もいた。どうやら、病院の個室のようである。
「神をその体に宿したからな、かなり無理が出たのだろう。念のため入院になった」
病室の外は、すでに傾きかけた日が見える。丸半日近く眠っていたようだ。
医者の見立てでは、二、三日で回復する見込みらしい。
「中島さんのおかげで、無事、潮神社の儀式は終わったわ」
華さんが頭を下げる。
「やっぱりオレがみこんだ巫女姫だ」
ニヤリと、空が笑う。空は私と同じ病衣を着ていた。
顔色は悪くないが、私と一緒で入院になったのだろう。
「……空さんの、お怪我は?」
「大事ない」
何か言いたげだった空より先に、鬼頭がそう言った。
「隼人はまだ、意識はないが、一命はとりとめた……もっとも、たとえ意識が戻ったとしても、ふつうの生活ができる保証はないが」
神を身体に宿すというのは、『巫女』の力を持っていない人間にはかなりの負担なのらしい。
私の身体のダメージがこの程度で済んでいるのは、私が間違いなく『潮田』の巫女の血をひいているおかげなのだそうだ。
「隼人さんは、なぜ、あんなことをしてしまったのでしょう?」
「あいつは、結構、複雑でね」
空が首を振った。
「あいつの親父は、昔、国の呪術系の役人だった。隼人は、ある事件で、女の子を魔物から庇って、大けがをしたことがあったんだ。だけど、当の女の子は、かけらも隼人を覚えてなくて――まあ、親父さんの立場上、記憶を消しちまったわけなのだが。あいつはそれが納得できなくてね」
「防魔調査室が組織される前の話だがな」
田野倉が横から口をはさむ。
今は、被害者の記憶操作するというのは、規則や規定が厳しく、隼人の事件のケースでは、記憶操作は許可されにくいらしい。
「隼人は、それ以来、呪術と縁を切ったようにみえた。実際、切っていたのだと思う――紗枝が亡くなる時までは」
空はそういって、肩をすくめた。
「親戚とはいえ、あまり付き合いがなかったから、はっきりわからないけど、紗枝さんが亡くなってからどうも、『裏稼業』に手を出し始めたようなの」
華さんは、ふーっとため息をついた。隼人は、単純に霊的な仕事を受けるのではなく、ことさらに闇の仕事を請け負った。
隼人がした仕事のせいで、同じ『渦潮使い』である空に、ダークなイメージがついたらしい。
もっとも、空は、まったく気にしてはいなかったようだが。
「そういえば……記憶のこととか、紗枝さんをひき殺した相手のこととか、言っていました」
私は岩窟での隼人の言葉を思い出す。
「紗枝の事件のことは、もう一度調べなおすつもりではあるが、紗枝自身の霊を無理やりこの世に留めようとしたせいで、霊そのものが悪いものに変化した。それがさらに隼人を闇に引き込んだといえるかもしれない」
鬼頭が厳しい顔でそう言った。
岩窟の中での紗枝は、怖い印象しかないが、生前はきっと、ふつうの女性だったに違いない。
死者は本来、留まらないものだ。ことわりを変えるということは、元のものそのものも変わってしまうのかもしれない。
「隼人は、世直しをしたかったんだと思う」
空がぽつりと呟く。
「世直し?」
「……オレたち、呪術者ってさ、表に出ないことが正しいとされているわけ。ま、オレみたいな民間の人間は、そっちのお役人みたいに『なかったこと』にまではしないけどね」
「まあ、それについては、気持ちはわからなくもないけど」
田野倉はそう言って首をすくめた。
「そのせいで、かなり私生活が荒れたやつもいるから」
感謝はされないにしろ。やったことを無かったことにされるのは、きっと悲しい。
隼人が助けたという女の子は……きっと、隼人の好きだった子なのかもしれない。感謝をして欲しかったというより、自分を覚えていないことがショックだったのだろうと思う。
「もっとも。紗枝が死んだとき、納得のいく調べが行われなかったというのが、一番の原因だとは思うけどね」
空はそう言って、華さんを伴って立ち上がった。
「オレ、病室に戻るわ。ま、元気でな」
「お大事にね、中島さん」
二コリ、と笑って、華さんと空が部屋を出ていく。
同じ病院に入院しているように見えるのに、さりげなく、別れを告げられたような気分になった。
「私も……記憶、消されちゃうのですか?」
不安に襲われ、私は残った二人に質問する。鬼頭は何も答えない。
私の不安はさらに大きくなった。
「巫女の力に目覚めた優樹菜ちゃんは、このままなら、今後、バケモノに狙われる日々が待っている――身を守るには、しかるべき場所で、きちんとした修行をすべきだ」
田野倉はにこりと笑った。
「防魔調査室は、いつでも君を歓迎する――望むならね」
複雑な言い回しをして、田野倉はポンと鬼頭の肩をたたいた。
「じゃあ、おれ、先に帰るわ。坊主が病院にいると、嫌がられるしね――考えすぎるなよ、鬼頭」
心配そうに、鬼頭に声をかけ、傍らに置いていた数珠を手にすると、田野倉もドアの外へと消えていった。
「今の……どういう意味ですか?」
鬼頭の目に陰りがある。
何か、暗い決意を感じさせる目だ。いやな感じしかしない。
息苦しい。
「君が、予知夢を見始めたのは――たぶん、俺のせいだ」
苦しげに鬼頭はそう言って、私の手にそっと触れた。
「俺は昔から、無意識に夢渡りする能力があって」
「夢渡り?」
鬼頭は視線を落とす。いけないことでも告白するかのような、苦しい顔だ。
「人の夢に入り込んでしまう……普段は、そうならないように自分で結界を張ることにしている」
「鬼頭さんが……私の夢に?」
「ああ」
私は目を見開く。そういえば、鬼頭は私の家で、道具の場所を迷うことなくお茶を入れていた。
『お互いの家を行き来する』夢を見ていたのだから、私の家の間取りを知っていても不思議ではない。
「半年前――たまたま、体調を崩して結界を張り忘れて、君の夢に迷い込んだ。それから半年、俺は、意識して君の夢に入り込むようになった」
「なぜ?」
「君に惹かれていたから」
鬼頭はそういって、淡く微笑む。
「もともと電車で、ずっと気になっていたんだ。よく、目が合うような気がしたから。そんなときに、迷い込んだ夢で君とデートした」
きっと。
私が、必要以上に視線を向けていたからかもしれない。半年前と言えば、すでに私は妄想の中で彼と付き合い始めていたのだから。
「退魔士なんて職業でも、君は受け入れてくれた。普通のカップルのように、隠しごとをせずにすべてが話せた――でも、現実に君に声をかける勇気は、俺にはどうしてもなかった……」
鬼頭はきっと、過去に好きだった女性には、職業を言えなかったのだろう。それはそうだ。国家公務員とはいえ、その存在がシークレットなのだから。いや、話したところで信じてもらえないのかもしれない。
おそらくそれが苦しくて仕方なかったのだろうな、と思った。
「しかし、俺の霊気に触れ、親和性の高かった君の眠っていた霊力は、そのせいで完全に跳ね上がった。俺が夢に入り込んだりしなければ、今回の儀式をするだけの能力は開花しなかっただろう」
愛を告白されたはずなのに、私の心の不安は消えない。鬼頭は何を言おうとしているのだろう?
「これから先、俺のせいで、君は俺たちと同じ闇の世界で生きていかないといけない。仕事はともかく、日常的にバケモノにつけ狙われる人生が待っている――それを回避するには、一つだけ方法がある」
「待って。私、そんな方法、聞きたく……」
言いかけた私の唇を、鬼頭がふさいだ。息ができないほどの激しさで求められ、私はクラクラする。
夢にまで見た鬼頭との口づけなのに胸に広がるのは、悪い予感だけだ。甘さはそこにはなくて、私は、すがるように鬼頭の胸にしがみついた。
ようやく鬼頭の唇が離れ、私は彼の胸からゆっくりと引き離された。
「この半年の夢の俺の記憶ごと、君の能力を封じる」
「いや……私は」
抗おうとした私の額に、鬼頭の手がのせられる――。
「忘れない。だって私は、それより前から、あなたを……」
言葉は紡げず、鬼頭の顔がぼやけて、消えた。
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