干宮

一二三四五ひとふたみよいつ六七八九十むななやここのたり布留部由良由良ふるべゆらゆら止布留部とふるべ

 優しい声とともに力が流れてくる。

 ぼんやりと目を開けると、鬼頭の顔が間近にあった。どうやら私は彼のひざにのせられて、抱きかかえられているらしい。冷えた体に、彼の体温が心地よい。

 感覚のなくなっていた四肢にゆっくりと血が流れていくような感じだ。

 甘いまどろみに幸せな気分になる。

「……セイくん」

 うわ言のように私は呟いた。

 真剣だった鬼頭の顔が、ほっとしたように和らぐと、左胸に押し当てられていた温かい手が動き、傷口のあったあたりをすうっと撫でられた。

「血は完全に止まったな」

 言いながら鬼頭は、私を抱き起こす。

 覚醒とともに、鬼頭の手が乳房に直接触れたというその事実を自覚したが、ドキリとする前に彼の手は離れていた。

 部屋は明るく、潮の匂いは遠くなっている。

 私は板敷の床に座っていて、LEDのライトの照明はまぶしいくらいだ。

 それほど広くはない。空気はピンと澄み渡っていて、私はここが神域であると理解した。

 おそらく、干宮の拝殿であろう。

 傍らには、私の持ってきたご神体の入った桐の箱が置いてあった。

 私の着衣はまだ濡れていて、湿っている。ややゆるめられていて、少し大きく衿が開いていた。胸元の部分に血がにじんで染みになっている。たぶん、隼人につけられた傷からの出血であろう。

 緩んだ衣服の前を合わせながら、こっそり胸元を覗くとあったはずの傷口が消えていた。

 すべての痛みが消え、体が軽い。熱っぽさも消えている。

「治療は済んだ」

 鬼頭が扉の向こうに声をかけると、狩衣を着た華さんが、三方にのせた盃を持って現れた。

 疲労の色が濃い。私を見て、微笑したけれど、明るさが全くなかった。

「着替えをさせてやりたいが、ここには着替えがないし、時間もない。悪いが早急に儀式を終えよう」

 鬼頭は私にそう言って立ち上がった。

「あの……どういうことですか?」

 私は、鬼頭を見上げた。状況が全く把握できない。

「簡単に言うと、君は龍の力で、神ごと紗枝をぶっ飛ばした」

「神ごと?」

 言われてみれば、あれほどまでに感じていた『神』がいない。体が軽くなったのは、そのせいだったのだろう。

 ふわふわと酩酊したような感覚も消えている。

「それで……?」

「儀式が中途半端に始められていたせいで、紗枝ごと『神』は、隼人の中に入った」

 鬼頭の顔が厳しい。

 儀式というのは、たぶん、隼人が私の血をなめたアレのことだろう。

 一瞬、恐怖が蘇り、身体が震えそうになったが、わたしは膝をつねってこらえた。

「では、神の力が隼人に奪われたということですか?」

「違うわ。神が、勝手に隼人を取り込んだの」

 華さんが苦い顔で口をはさむ。

「あれは、もう、ただの『力』だわ。隼人の意思はない。しかも悪霊がいっしょに取り込まれているから、悪い方向を向いている。あの状態が長く続けば、『器』が壊れるのは時間の問題ね」

 それは、隼人の死を意味しているのだろう。

「もっとも、器が壊れたら、それこそ暴走がはじまって、たいへんなことになる」

 人の身体にいる間は、力の出力は『器』によって、制限される。隼人の死は、巨大な力の解放を意味するらしい。

「今、田野倉と、空が神を抑えているが、ふたりがかりで、結界でしばりつけるのがやっとだ。まして、相手は『満ち足る神』だ。滅するわけにもいかない」

 私達がしようとしていたのは、満ち足る神を宮に祀るための儀式だ。この土地の安定のため、それは必要なことだから。たとえ、可能だとしても、滅ぼしてしまっては、当初の目的が達成不可能になる。

「だから、中島さんの力で浄化して、ご神体に戻してもらうしかないのです」

 華さんはそう言って、私のほうへ三方を押し出した。赤い盃には、白い液体が入っている。どぶろく系の香りがした。

「私の力?」

「神は、神をもって制す。潮がひいている時間に儀式を終えるためにも、それしか方法がない」

 鬼頭の言葉に、私は、はっとする。

 今が何時かは知らないが、潮がひいている間に、干宮の儀式を終えて海をまた渡らなければならない。時間が過ぎても良いのかもしれないけれど、あえてそれを試す危険を冒すよりは、できる限り時間は守るべきであろう。

「どうすれば?」

「まず、干宮の神を中島さんにおろします。そして、その神の力をもって、神を清め、ご神体に戻すだけです」

 言葉で聞くと簡単なようだけど、少しも簡単でないことは、二人の顔を見ればわかる。

 私はごくりと息をのんだ。

「フォローは、俺がする。君は、命に代えても守るから」

 鬼頭の目が、強く私を見つめている。

 この儀式をしている間、彼は私のナイトだ。儀式をしている間は、私の『セイ』と同じく、私のそばにいてくれる。

 私の心は決まる。怖くないといえば、嘘だけど、彼のそばにいられるなら、否はなかった。

 すでに、たくさんのことがありすぎたこともあって、奇妙なほど肝が据わっていた。

「やってみます」

 私は、盃に手を伸ばし……神を身体に感じた。



 拝殿を出ると、大気がひりひりと肌を刺した。

 『神』のいる場所はすぐにわかった。

 つい先ほどまで、木でおおわれていたはずの島の中央付近に、闇夜でもはっきりわかる漆黒の竜巻のようなものが、柱のように、天に向かって伸びていた。

 力が吹き荒れ、木々がなぎ倒され、枝葉がまるで嵐のように吹き飛ばされてくる。

 大きな力に惹かれてざわざわと、異形のモノの気配が彼方から押し寄せてくるのがわかった。

「龍よ」

 鬼頭の言葉に応え、銀の龍が現れた。

「俺のそばを離れないで」

 私は、鬼頭に肩を抱かれた状態で、桐箱を抱いて、足場の悪い道を歩いた。

 私と鬼頭を守るように、龍がその体をくねらせて、前を行く。龍の銀鱗が淡い燐光で闇を照らす。

 神を身体に宿しているためなのか、それともお神酒で酩酊したのか定かではないが、熱っぽく、ふらふらした。体がふらつくたびに鬼頭が私を支えてくれる。

 触れている彼の手から、あたたかな力が流れてくるのは、『術』なのか、それとも、私の気持ちの問題なのか、判別がつかない。

 黒い竜巻の周りに、ぐるりと波が取り囲んでいるのが見えた。

「遅いぞ、優男」

 声からして、空だろう。やや、声が苦しそうだ。

 前方の腰の高さ位の平たい大きな岩の上に、人影があった。岩の上に転がった懐中電灯の明かりに照らされた空は、胡坐をかいて座っている。上半身裸の状態で右肩から胸にかけて包帯を巻いており、薄暗い明かりでもそうとわかるほど、顔色が悪い。

「状況は?」

 鬼頭に抱き上げられて、、私は空の座っていた岩にのせられた。

「芳しくねえ。オレも本調子じゃねえからな。坊さんへの負担がでかすぎる」

 そういえば、隼人の着衣は血の跡があった。あの血は、空のものだったのかもしれない。

「空さん、そのケガは、隼人に?」

「まあね。油断した」

 空はざまあねえな、と言って、笑った。

「正直、しんどい。あんたのでかいおっぱい揉んで癒されたい――」

「田野倉は?」

 空のセクハラトークは、鬼頭に強引に打ち切られた。

 空は、「カタブツ男は嫌だねえ」と呟いてから、竜巻のほうを指さした。

 鬼頭は私の傍らに立ち、竜巻のほうを見て、眉間にしわを寄せた。

 よく見れば、竜巻の周囲に銀色の糸のようなものが網のように絡まって発光している。

 あの光は……たぶん田野倉の力なのだろう。

「余裕はなさそうだ」

 ぼそりと鬼頭は呟いた。「ごめん」という言葉とともに、私の体がふわりと浮いた。

「え?」

 突然、鬼頭の顔が間近にあり、胸がどきりとする。突然のお姫様抱っこ状態に、こんな状況だというのに、顔が熱くなった。

「ちょっと先を急ぐから、しっかりつかまって」

「は、はい」

 どぎまぎしながら、私は鬼頭の硬い胸に体を預けその首に手を回す。

 もともと熱っぽい体でふわふわしていたのに、心臓が早く脈打って、くらくらした。

「見せつけやがって」

 空が舌打ちをした。

「行くぞ」

 鬼頭は空の言葉に答えず、私を抱いたまま、走った。

 吹き荒れる力を、龍が弾くように先導し、まさしく跳ぶように鬼頭がそれを追う。

 私というお荷物がいるにもかかわらず、道なき道を歩いているとは思えない速度だ。

 やがて。渦巻く竜巻の渦中に人のようなものがいるのが見えた。


 ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン


 田野倉の声があたりに響くたびに、銀の光が吹き荒れて大きくなろうとする『力』を縛り付けているようだ。

 龍がするすると動き、竜巻の周りをらせんを描いて、取り囲むと、薄明りの中、竜巻の中の男に錫杖を向けている田野倉が見えた。

「遅いぞ」

 銀の錫杖を手にした田野倉の表情が、ほっとしたように緩んだ。法衣が吹き荒れる力のせいで、はためいている。

「状況は」

 問いかけながら、鬼頭は私を自分の背後におろした。

 気流が激しく、私は思わず彼にしがみつく。

「悪いね。奴さん、そろそろ限界だな」

 おそらく、隼人が限界ということなのだろう。

 龍の燐光に照らし出された田野倉は、いつになく、目が鋭い。

「巫女姫の力を借りる時が来たな」

 田野倉はそう言って、私を見る。

 その責任の重さに、ぶるりと震え、ひざがガクガクとしはじめた。

 隼人の顔はすでに苦悶の表情で、薄暗い燐光の中でもはっきりとわかるほど、肌色が変色している。

 髪の色も、鉄色に染まり、すべてが逆立っていた。

「優樹菜」

 不意に名前を呼ばれ。

 私は鬼頭に引き寄せられ、唇に鬼頭の唇が重ねられた。

 どくんと、血が脈打った。

「おまじないだ」

 震えが止まる。

 どんな事情であれ、鬼頭の隣に立てるこの瞬間を、私は待っていたのだ、と思えた。

「行こう」

 鬼頭の言葉に、こくんと頷く。

 私は、一歩、足を踏み出した。

 



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