岩窟
ふわりと、紗枝は私の腹の上に立ち、私の体を見下ろす。
体がぞわぞわとする。
何も言わない紗枝から感じるのは、昏くおぞましいいろの『歓喜』だ。
いやな予感しかしない。
私は、自由を奪われている手に意識を向ける。まとめて両手の手首を縛り付けている縄のような物とほぼ同じ位置に、かすかに感じる、ミサンガの感触。
切らなくては、と思う。
なんとかして、ミサンガを切り離さないといけない。
私は、紗枝に目を向けたまま、動かない手首に力を入れ、こすり合わせたり、ひねったりする作業を始める。
彼女は、私の『努力』を嘲笑うかのように、ニィッと口の端をあげたままだ。言葉はない。ないが、その眼は昏く、ぞっとする光に満ちている。
どれくらいたったであろうか。
水音だけがしていた暗い空間に、何者かの足音が響き、近づいてきた。
自由にならぬ首を苦労して、そちらに目をやれば、懐中電灯と思しき光が揺れて見えた。
光が近づいてくるにつれ、誰とも知れない人影が、大きくなる。
背中が凍るように冷たい。気温は決して、低くはないはずだ。しかし、冷ややかな冷気が私の身体を包み込んでいく。
人影は、どうやら、抜き身の刃を持っているようだった。
光が揺れるたび、白刃が鈍く反射する。
私は必至で手を動かす。ひもが食い込み、ひりひりと痛んだ。
やがて、人影は、私のそばまでやってくると、かがみこんで、マッチを擦った。
ぼぅっと灯った明かりで、浮かび上がったのは、磯田隼人だった。
隼人は、ろうそくに明かりを灯した。ゆらゆらとゆれる明かりで照らし出された隼人は、狩衣を着ている。
ひっ
私は、小さな悲鳴を思わず漏らす。
真っ白な狩衣は、真っ赤なシミが大きく飛び散っている。
古くない。新しい緋色の液体でできたもの。
鼻孔から感じる、匂いは、それが血潮であるということを裏付けしている。
よく見れば、手にした刃も、赤い血糊が付いていた。
何の血なのか。聞かなくても、それが、『ひと』の血であるということを、私の中の『神』は理解した。
ぼんやりと照らし出された天井は、岩でかなり高いようだ。きっと、海蝕による天然窟であろう。
天井から落ちる雫が塩味なことから考えると、ここは、満潮時には海に浸かるのかもしれない。
先ほどの光の見えた感覚からみて、それなりに広いようだ。
おそらく、正規の儀式の場所ではないけれど、干宮の神域だと、私は確信した。
隼人が、私の周りにろうそくで陣を描くように火を灯すたびに、大気の質が変化していく。
「何を――」
するのかと、問おうとしたが、声が震えた。隼人は、私のことなど、気に留めていないかのように作業を続ける。
ろうそくの明かりをともし終わると、隼人は朗々と祝詞をとなえた。
そして、パシンと、柏手を大きく打ち、いきなり、私の身体の上にまたがった。
その眼が常軌を逸したいろを宿していて、私の身体から血の気が引いた。
隼人は、無造作に手を伸ばして、私の着衣の襟を乱暴に開き、濡れた素肌を露出させた。
「ほおぅ」
隼人は、私のあらわになった上半身を見て、満足そうに声を漏らし、自らの唇を舌で舐めまわす。
全身が泡立った。
「いやあっ!」
私は、悲鳴を上げたが、声がかすれた。
逃げようと試みたが、隼人に抑えられているのと、身体が縛り付けられているので、まったく自由にならない。
「満ち足る神よ」
隼人は、そう耳元でささやいた。
低い大地を這うような声だ。
隼人は、先ほどの刀剣を手にした。
ギラリと、刃が光る。
私は思わず息をのんだ。
冷たい刃が、つうっと胸にあてられ、冷ややかな金属の感触の次に、左の乳房に痛みが走った。
「我に力を」
じわじわと、あたたかなものが、痛みとともににじみ始める。
にやりと笑うその顔は、空に似てはいたけれど、ずっと酷薄なものだ。
血が凍りそうな状況なのに、私の中の『神』が、その言葉に大きく反応しているのか、体全体にどくどくと血潮が渦巻く。
『神』は私の痛みに、明らかに『高揚』を感じはじめ、私自身が私の中から追いやられていく。
にぶくなる感覚の中で、私は、自分の意思を振り絞りながら、必死で手を動かした。
少しでも。少しだけでも、ミサンガを切り離すことが出来さえすれば――。
「そのようにおびえずとも、殺しはせぬ。そなたの身体は紗枝が使うのだから」
隼人は、面白そうにそう言った。
何を言っているのか、全然わからない。
そもそも、彼は何をしようとしているのだろうか。
『こういうもの定番的には、神卸しをした巫女と交わるか、生き血をすするっていう感じかなあ』
不意に、田野倉の言葉がよみがえる。
この状況からみて、その言葉は的外れではなかったのだと理解する。
隼人の顔が近づいて、さきほどつけた傷口に舌を這わせ始めた。
端正な顔は、血に濡れながら、恍惚な表情を浮かべている。
痛みの中で、ねっとりとした肌を伝う生暖かな感触が吐き気を感じさせた。
静けさの中で、ぴちゃぴちゃという小さな音と、隼人の荒い息づかいが響く。
全身が、震え、痺れる。もはやその感覚が、自分のものか、神のものなのか判別がつかない。
「鬼頭さん!」
涙がにじむ。
このまま、血をすすられ、凌辱されてしまうのだろうか。
私はおぞましさと吐き気をこられ、懸命に手を動かした。
手首の皮膚がほんのすこしだけ擦れたその時――。
――呪言を。
かすかに、鬼頭の声が頭に響く。
「我は龍」
私はかすれる声を絞り出した。
「いかになくとも妖魔はいぬ。龍の逆鱗、おそれざらめや」
次の瞬間、私の中の何かが大きくはじけた。
視野が真っ白にスパークして、身体を拘束していたものもろとも、隼人が吹き飛んだのがみえた。
――見つけた!
鬼頭の声が頭に響く。
私の身体を守るように、銀鱗をまとった龍が発光しながら、そこにいた。
「おのれ」
隼人は、刃を手にして、龍を睨む。
私は痛みに耐えながら、身を起こした。
足かせは外れていたが、力が足に入らず、立つことはできなかった。
上半身は、ほぼ半裸にされていて、着衣は両方の腕に引っかかっているだけになっている。
はだけた左の乳房の刀傷からは、血が滲み続けていた。ひりひりとした痛みと、生暖かな感触だ。
それよりも体全体から、力が抜け落ちたようになっていて、思ったように体が動かない。
私は自由になったものの、痺れたような感覚のままの手で、乱れた襟を必死で閉じた。
「大いなる海潮(うしお)よ」
隼人の手が宙に振り上げられた。
ごーっという音が巻き起こり、どこからともなく大きな波が押し寄せた。
龍が大きく方向を上げ、身体をうねらせると、波は龍の前で、大きくはじけ、大きなシャワーのように大地に海水が降り注ぐ。
「そこまでだ、隼人!」
大きな声が洞窟内に響いた。
ぼんやりとした明かりの中でも、私には、誰だかはっきりわかる。
胸が、熱くなり、思わず涙がにじんだ。
「うるさい!」
隼人の手が伸びて、大波が鬼頭に向かっていくが、それは途中で砕け散った。
「諦めろ、隼人。ひとに刃を向け傷つけた以上、お前は既に『犯罪者』だ。防魔調査室だけではなく、警察もお前を追う――逃げ切れはしない」
「神の力を得て我ら兄妹は、この理不尽な世を変える」
隼人の力が洞窟の中に渦巻き、大気がゆがむ。
「理不尽?」
「そうだ。この世は理不尽だ。妹の紗枝をひき殺した男は、代議士の息子だったはずなのに、別の人間が身代わりにされた」
「証拠は?」
「紗枝が見ている」
隼人の言葉に、鬼頭は顔を曇らせる。
「死人の証言では、人を裁くことはできない。それが真実であれば、ほかに証拠を……」
「なぜ? 死したものは、間違いなくそこにいるじゃないか。なぜ、我らが聞いた言葉は、真とならない?」
隼人は私のほうを見る。
「おぬしが、死ぬ気で巫女姫(このおんな)を助けたとしても、彼女は『記憶』を消され覚えていないような世が正しいというのか?」
記憶を消される?
「……どういうことですか?」
かすれて、声が震える。
「防魔調査室っていうのは、関わりあった一般人の記憶は、基本、消去するというとんでもないお役所なんだよ」
憎々しい感情を隠しもしないで、隼人はそう言った。
「すべてじゃないし、例外だってある。それに、この世の秩序を守るために闇を秘すことは必要なことだ」
鬼頭は隼人の力をはねのける。
「そんな……」
私は、隼人の言葉が真実であると確信した。
仕事だから優しいというのは理解もできたし、納得もできた。
でも。確かに、怖い思いもしたけれど、鬼頭と過ごした日々のすべては、『なかったこと』にされてしまうのだろうか。
私は、何事もなかったように、電車に乗り――知らない人である鬼頭を妄想彼氏として眺めて過ごす、そんな日々に戻ってしまうのだろうか。
「私、鬼頭さんを忘れてしまうの?」
えもいわれぬ寂しさで胸が膨れ上がった、その時――。
私の身体に、神以外の何かがするりと入り込んできた。
それは、私と隼人をずっと傍らで見ていたモノ――紗枝だ。
「ふふふ」
私は笑う――私以外の意思で。
私は、私とは思えない妖艶なしぐさで立ち上がった。
鬼頭と、隼人が私に目を向ける。
「兄さん、大丈夫ですわ」
くすくすと、私は、笑い、襟を大きく開いて、男たちの前で、乳房を露出させた。
そして、傷から流れ出る血を指につけて、ぺろりと舐める。
すると、私の中の『神』が震え、さらに私は私から遠ざかった。
「紗枝?」
隼人が私を見る。私は、にこりと隼人に微笑む。
「神は、私とともにあるわ」
「中島さん?」
鬼頭が、私のほうを驚愕に満ちた目で見ている。
私の手がゆっくりと鬼頭のほうを指さす。
――ダメ!
私は叫ぶ。
――やめて!
私は、必死に抗う。
『よいではないか』
紗枝が私に話しかける。
『簡単におのれを記憶から抹消できる程度の男に心奪われていても、つらかろう?』
――そんなこと……。
「優樹菜!」
鬼頭が叫んだ。
「しっかりしろ、優樹菜!」
鬼頭の声が私を私につなぎとめる。
大気がゆがむ。私から大きな力が流れ出て、龍があえぐようにのたうち始めた。
『神は……力を使いたいと欲している』
紗枝はそう言った。
確かに。私でも、紗枝でもないものが、膨れていく力を放出しようとしているのがわかる。
――神よ。満つる神よ! 止めて! やめてください!
『氏子もいない宮に祀られ、長い年月放置される現状は、神としても不服であろう。干宮におる神は、この者たちを片付けたのち、兄が解放しよう』
紗枝は、『神』に話しかける。四肢に力が入らず、自分以外のもので体が満たされていく。
「優樹菜!」
夢の中のセイと同じように、鬼頭が叫ぶ。妄想なのか、予知なのか、現実なのか。
どれなのかわからないけど、その声で名を呼ばれるのは心地よくて――だから。
「我は龍」
私は声を絞り出す。
「いかになくとも妖魔はいぬ。龍の逆鱗、おそれざらめや」
私の身体中が銀色につつまれて――私は意識を失った。
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