招かれて
干潮まであと一時間程度となった。
体が熱を持っているかのように重く、歩くとややふらつく。神の力が宿っているといっても、強くなったというような感触は全くなく、むしろ高熱で動いている感覚に近い。
空と華さんは、先に宮を出ていて、今は私と鬼頭、そして田野倉だけである。
ふたりも、正装に着替え、これからは儀式に挑む。鬼頭は狩衣を着ているが、田野倉は例によって法衣に錫杖だ。非常に違和感てんこ盛りである。
「明治までは、結構、ちゃんぽんだったンだからこれで構わないって」
と、田野倉はのたまっている。うん。きっと日本の神様って、寛容なのだ。
私は胸にご神体の入った桐箱を抱えている。
体がふらふらしているのに、慣れない草履のため、どうにも歩きにくい。
鬼頭と田野倉は普通の懐中電灯をもっているが、ヘッドライトなども用意はしているらしい。いわゆる霊力による呪術というのは、西洋のファンタジー魔法のように、明かりをともしたりするようなことは不可能なのだそうだ。
法衣や狩衣でヘットライトをつけた姿を想像すると、なんか笑える――いや、それどころじゃないのだけど。
外に出ると、海から潮風が吹き上げていた。
湿気をはらんだその風は、肌に張り付く感じだ。生暖かく、粘りついている。
二人に先導され、本殿の前の石段に立った私は、思わず息をのんだ。
本来なら、夜の闇で見えないはずである波が青白く発光しており、島までの海が二つに割れ始めている。暗く沈んでいるようにみえるのは、潮が引いてできた中洲だ。
トンボロ現象、というものらしい。
大潮の時だけ、干潮が近くなると、完全に島とつながる道ができるそうだ。
暗い夜空には、満天の星。海と空の境目は闇の彼方に溶けている。
目の前の島には、石段の見えていた場所に、小さな明かりがいくつも灯されて、中腹あたりにある干宮への道を示していた。
「綺麗」
島までの道を示すように、闇の中にきらめく青い光。
明るいというほど明るいわけではない。ぼんやりとにじむような光だ。
「夜光虫だ」
鬼頭がポツリと呟いた。
「夜光虫……」
話には聞いたことはあるけれど、実際に見たのは初めてだ。
心奪われる、青いきらめき。
静かなさざ波の音。
「海が……招いているみたい」
ゆっくりと引いては寄せる波が、道を作っていく。まるで、夜光虫が道を開き、干宮へと導いているかのようだ。
「幻想的な光景だね」
田野倉はそういって、私の前に立つ。
「ただし、結界を出たら、そうも言っていられない感じだ。おれが先導する」
田野倉がゆっくりと、石段を下りていき、手招きをするのを見て、私は足元を照らしながら降りていく。鬼頭は私の後ろだ。
「痛いっ」
皮膚に刺すような痛みが走った。
神社の神域を出たせいだろう。石段を下りたとたん、大気がとげとげしいものに変化した。
気温は下がっていない。しかし、ぞわぞわと肌が泡立つ。濃度の濃い潮の香がまとわりつく。
ざくりと踏みしめる砂浜のむこうにある闇がぐにゃりと立ち上がり、ずるずるとこちらに近寄ってくる。とても大きな塊だ。田野倉は懐中電灯を下においた。
「暗霧だ――昨日の奴らとはずいぶん『力』が違うが」
鬼頭が私の横で小さく囁く。
昨晩、私が『練習』で滅したものとは、まるで違う。質感が大きく、重い感じだ。
ピリピリとしたプレッシャーが大気を震わせる。
「俺から離れるな」
鬼頭は私の腕を引き、私を自らの傍らに寄せる。
ジャリン と、錫杖が音を立てた。
田野倉だ。
ずりずりと遠い海から這うように近寄ってきた黒塊は、急速におおきくなり私たちを飲み込むかのようにうねった。
ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン
銀色の光が錫杖から生まれ、黒塊にぐるぐると巻き付いていく。
黒塊が大きく震えると、ざわざわと闇のかなたが呼応するように吸い込まれて、そいつがでかくなっていき、赤銅色の鈍い光を僅かににじませ始めた。
――喰ワセロ 喰ワセロ。
そいつは、明らかに私を見て、そう訴える。
熱を出した時のような私の肌が、そいつの飢えをヒシヒシと感じ取った。
そして、ねっとりと肌を舐めるようなおぞましい感覚に、私は吐き気を感じる。
「……結構、多いな」
ポツリ、と田野倉が呟く。
「細かいのは、こっちでやろう」
私の横に立っていた鬼頭が、小さな刀を懐から取り出した。
暗い海の向こうから、『気配』だけがやってくる。
――満チ足ル神ジャ 満チ足ル神ジャ
声にならぬ声があちらこちらから起こる。
それらは、海面を水音一つたてずに走ってきた。
虫のようなもの。さかなのようなもの。人のような体を持つもの。
いずれも、それらは激しい執着で、私だけを目指して近寄ってくるのを、私は全身で感じていた。
体がけだるいせいだろうか。
私は鋭敏にそいつらを感じながらも、不思議と恐怖を感じていない。
私の中に彼奴等の欲求がどんどんと流れ込んでくるだけで、私の心はそれをただ、受け入れるだけ。
私の中の『神』は喰われることを厭うてはいない。『神』にとって、『満たす』ことは、『力』なのだと、ぼんやりと感じる。
彼奴等は、飢餓と、執着の念を滴らせ、どんどんこちらへ集まってくる。密度が濃くなってきて、息苦しい。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
鬼頭の指が格子を描き、海面を白銀の光が走った。
光が、気配を薙ぎ払う。
一瞬の凪。しかし、再び押し寄せる彼奴等の気配。
「きりがないな」
光が消えると、また沖からぞわぞわと何かがどんどん押し寄せてくるのがはっきりと認識できた。
「鬼頭、お前はいちいち相手をするな! 神域へ行け」
田野倉が叫ぶ。
「わかった」
私は鬼頭とともに、島への道を歩く。
急がなくては、と思うのに、頭がふらふらして、ゆっくりとしか歩けない。
不意に。
肌がピリリとした。近くはない。かなり、沖だ。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
鬼頭が九字を斬る。光が沖に向かって走った。
が。
「まずいっ」
鬼頭が叫んだ。
ザザァという音ともに突然、暗い海面が沖からせり上がってきて、人の高さをはるかに超える波が、私たちの正面に現れた。
逃げ場がない。妖魔ではない。ただの波だ。術もきかない。私は桐箱を抱きしめたまま立ち尽くす。
「中島さんっ」
鬼頭の鋭い声が飛ぶ。
伸ばされた手は、触れ合う直前で水に阻まれた。
泳ぐことも敵わない強烈な潮に飲まれて……私は水中へと押し込められる。
最後に見たのは、鬼頭の綺麗な指先だった。
そこは知らない町だった。
街路樹として植えられている銀杏が黄色に色づいている。風が冷たい。
私は、着たこともない色のコートを着ていた。息が白い。日は、まだ昇り始めたばかりのようだ。
辺りには人影はなく、信号が青なのを確かめて、道路を渡り始める。
突然、視界に現れたのは、赤いスポーツカー。若い男性の顔が見えた次の瞬間、私の身体は吹き飛んだ。
走り去る車。そして、ねっとりと広がる血潮。遠くで鳴っているサイレンの音……。
私のさげていたカバンから荷物が散らばっている。
見たことのない女性の免許証――名前は磯田紗枝(いそださえ)と、書いてあった。
手が痛い。 そして、寒い。
全身が濡れていて、べっとりと布が肌に張り付いている。
滴る水が目に染みた。
ゆっくりと目を開けると、そこは暗い闇の中だった。
ピチャンという音が響く。
背中に当たる感触がとても硬くて、痛い。
私はどうやら岩の上のようなところに寝かされているようだ。
両手を頭の上の方でまとめて縛り上げられて、両足も縛り上げられているらしく、縄が食い込んでとても痛い。
首はどうやら、首枷がはめられているようで、金属の硬くてひやりとした感触がしている。
体は相変わらず重いままだったが、あれほど流れ込んできていた飢餓の欲求はパタリと消えていた。
あたりを覆う大気は、どちらかといえば、神域の澄んだものに近い。
潮の香りが濃くて、ひんやりとしている。
首の動かせる範囲で、目を凝らすと、わずかな明かりが二か所、あった。ひとつは、どうやら桐箱に入っていたご神体だ。私の足元に置かれている。
淡く青白い光を発していた。まるで、波間にゆれていた夜光虫のようだ。
そして、もうひとつ。
消えそうな淡い光が闇の中に浮かんでいる。
人の形をしている。闇なのに、くっきりと顔立ちがわかる。
先ほど、夢で見たのと同じ女性だ。
彼女は、じっと私を見ていた。
彼女の体は燐光のようなものでかたどられていて、向こうの岩が透けて見える。
「……磯田紗枝さん?」
私の問いに、彼女は頷き……そして、にやりと口の端を上げたのだった。
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