満宮
灼熱の太陽が照り付けている。
満ちた潮が押し寄せ、満宮と渚の距離は随分と縮まっていた。
私は、巫女装束の定番の緋袴のすそを気にしながら、素足で波打ち際に立つ。
砂浜と呼ぶのには砂利が多めのため、若干、足が痛い。
海側に作られた鳥居の向こうは、石段になっていて、その奥に木造の本殿がある。
この神社の鳥居は、海側と、陸側の両方にあるのだが、本殿は海側に作られていて、拝殿は陸側にあるという構造になっている。そして、本殿は、拝殿側と海側の両方に大きな開き戸がつけられていて、今は両方の扉が開け放たれている状態である。
私は、教えられたとおりに、波打ち際で本殿に祈りを捧げると、持ってきた木桶にひしゃくで海水をすくい入れた。
そして、その桶を持ったまま、石段を上がる。
石段のそばには、大きなたらいに水がはってあり、そこで足を洗い草履をはく。
本殿は小さなものだ。
開け放たれた扉の前に木桶を置いて、桐箱に納められていたご神体と言われている透明な水晶玉のようなものを取り出す。
ひんやりとした肌触りのそれは、陽の光をあびてキラキラと輝いた。
それをそのまま木桶にいれて、海水に浸したのち、用意されていた手ぬぐいで磨き上げた。
光を放つその玉を桐箱におさめ、今度は、その箱を持って、拝殿へと向かう。
本殿をくるりとまわり本殿と拝殿の間にある石の間にある入り口で、狩衣を着た華さんが待っていた。
とても暑いはずなのに、華さんの顔は涼しげだ。美人の体感温度は一般人とは違うのかもしれない。
華さんは、私が石の間に入ると、私を拝殿の中へと導いた。
「こちらへ」
華さんが、板敷きの床に緋色の毛氈をひいて、私の服に手をかける。
「緊張しなくて大丈夫です。背中以外はご自身でやってもらえばいいので」
「は、はい」
いくら相手が女性といっても、全裸になって、塩をすり込まれるのは、何だか変で恥ずかしい。
背を華さんに向けると、温かい手が私の背をなぞった。塩のざりざりとした感触がする。
「きゅうりになった気分ですね」
前側を自分で刷り込みながら、私がそういうと、華さんがくすりと笑った。
「中島さんをいたずりきゅうりにしたい人間、いっぱいいそうですね」
「……何ですか、それ」
「電車で、ちかんとか、されません?」
ちらりと、華さんが横から私の胸元を覗き込んだ。
「私、あまり満員電車とか、乗らないから」
人の身体が触れるほどの混み具合でなければ、ちかんには、そうそうあうものではない。
幸い、朝はともかく、帰りの場合、そこまで、すし詰め状態の電車に乗らなくて済んでいる。
「朝のラッシュ時は、たまーに触られたりしたけど、そういえば、ここ一年くらいは全然ないかも。まあ、ちかんされたいわけじゃないから、気にしてなかったですが」
やっぱり、ちかんも、三十路が近くなってくるとあわなくなるものなのだろうか。
「セクハラとかは?」
「うーん。職場、小さい会社ですし、そういうの、ないですよ」
既婚者の多い職場であるし、私は非モテ女子代表みたいな女だ。
「良い環境にいるのですねー。私みたいな貧乳女子でも、結構あるのに」
男性のお客さんとかがどさくさに紛れて、胸に触ったりすることがあるそうだ。
それはたぶん、美人税というやつだろうなあと、私は思う。華さんは、胸こそやや控えめでも、他はスタイル抜群の美人さんなのだ。男性だって、胸だけ大きい地味娘より、美人さんのほうがいいに違いない。
「そろそろ、入浴しましょうか?」
華さんは立ち上がり、すぅっと拝殿の表側の引き戸を開いた。
私はタオルを身体に巻き、彼女のあとに続く。
拝殿の前には、外から見えぬように、天幕がめぐらされた玉砂利の中央まで、すのこがひかれ、場にものすごく不似合いなドラム缶風呂が用意されていた。このドラム缶風呂、急きょ、この近所にあるキャンプ場から借りてきたものなのだそうだ。たぶん、二百年前はヒノキとかの風呂だったのだろうとは思う。情緒に差があるけど、仕方がない。
ドラム缶風呂の横には、小さな手桶が一つ置かれている。
ひらひらと天幕が風に揺れた。青い空はどこまでも広がっていて、ものすごい解放感で恥ずかしい。
不意に、華さんが屈んで、玉砂利をいくつかつかみ、天幕に向かって投げつけた。
ザリッと砂利を踏む音と、人影が見える。
「ちょっと……シメてきます。先に入っていてください」
「華さん?」
ポキポキと指を鳴らしながら、華さんが天幕を出て行く。
「さっさと、粥をつくらんかっ!」
華さんの怒号とともに、なんか男性の呻き声が聞こえた。華さん、何をしたのだろうか。
少し気になるケド、この格好で外を覗くのはためらっているうちに、ザリザリと玉砂利の音が遠ざかっていった。
「まあ、いいか」
たぶん、シャレで、誰かがのぞいたふりをしたか何かなのだろう。そんな漫画みたいなことしなくていいのになあ、と思う。少なくとも、ここにいるはずの三人の男性は、その気になれば、モテる人間ばかりだ。中学生みたいなマネをする必要は、皆無のはずだ。
私は、手桶で湯をくみ、塩を洗い流してドラム缶風呂に入った。ドラム缶の底にはすのこが敷いてあって、いわゆる五右衛門風呂のような感じになっている。ちなみに、ドラム缶の側面は熱くない。
湯加減はぬるめにしてあった。さすがに、この炎天下に熱湯風呂はゆだってしまうから、ありがたかった。
しばらくのんびりと湯につかっているという今が、とても不思議だ。
昼間のうちの儀式の間は、隼人は邪魔をしてこないだろう。満宮の神を降ろすまでは、私をどうこうしても、得策ではない。
魑魅魍魎も、日没までは騒がない。
問題は、日が暮れてからだ。
もちろん、この満宮周辺は結界を張るし、あらかじめ干宮に舟でわたり、準備をするとも聞いている。
ただし、干宮までの道は、現在、海の中で、札などで強固に結界を張ることが出来ない。
狙われるとしたら、どう考えても、移動の時だろう。
私は、腕についているミサンガに手を当てる。
怖くないと言ったら、嘘になる。でも、きっと鬼頭が守ってくれるだろう。
たとえ、彼にとっては「仕事」でも、今だけは、私のナイトだ。
「ごめんなさい。お待たせして」
華さんが出て行ったところとは違う場所から、着替えを手にして、戻ってきた。
「どうかしましたか?」
私の問いに、華は無言で微笑した。
聞くな、ということなのだろう。
私は濡れた体をふき、再び、巫女の衣装を身にまとう。
そうすると、なんだか体がすっきりとしてきた。神気を感じているのか、それとも単純に風呂に入ってさっぱりしたのか判別に迷うくらいの程度のことではあるが。
「では、拝殿のほうに、お戻りを」
華さんに導かれるまま、私は拝殿にのぼり、本殿へと続く石の間の前に座る。
私の目の前には、先ほど本殿から持ってきた霧箱、その手前に、膳にのった漆器に、粥がよそって置いてあった。
「これを口にすると、少し熱っぽく感じるかもしれません」
「はい」
私は木さじで粥をすくった。
どうってことのない、ほのかに甘いコメの味だ。
ゆっくりと咀嚼して、ごくんと流し込んだ。
とたんに、体中に電流が走ったような痺れを感じ、私は意識を失った。
その日は、いつもより電車の中は、混雑していた。
電車に乗りなれていない誰かが、カクンとよろめいたせいで、私もバランスを崩し、知らない男性の腕に抱き着くような形でぶつかってしまう。
「ご、ごめんなさい」
小さな声で謝罪して見上げると、すぐそばに、やや顔を赤らめ視線を逸らす男性の顔があった。
長いマツゲ。涼やかな目元で、端正な顔立ち。背がすらりと高い。
ドキンと胸が高鳴る。
電車の混み具合が増して、体を立て直したものの、私の体は彼の腕にくっついたままだ。
ファンデーションが、男性のシャツをよごしてしまいそうで、非常にも申し訳ないけれど、身動きが取れない。
そして、自分のものでない体温と息がかかるほどの距離に、不可抗力なのだから、意識してはいけないと思いながらも、戸惑いを感じる。見ず知らずの他人で、ありえない距離――時間にすれば五分程度だったが、私には時が止まったかのように感じた瞬間だった。
「……気が付いたわ!」
安堵の声をあげたのは華だった。
私はどうやら拝殿に敷かれた布団の上に寝かされていたようだ。
「脈はまだ、やや速いが……うん。大丈夫だろう」
私の手を取っていたのは、鬼頭。私が視線を向けると、彼は柔らかく微笑んでから、私の手をそっと下におろす。
そして、私は気がつく――さっき見ていたのは、自分の記憶であることに。
たった数分のあの出来事で、私は男性に心を奪われた。
その後、何度か勝手に目が合う錯覚を繰り返すうちに、私は、彼の夢をたびたび見るようになり、しだいに彼を、妄想彼氏にしてしまったのだ。
男性に免疫がないこともあるけど、こうやってみても、やっぱりかっこいい。
「神気に打たれたちゃったね。違和感はない?」
田野倉に言われて、私は四肢を伸ばしてみる。
水泳の後のようなけだるさと、若干の浮遊感を感じた。
少しだけ体温が高い気がしなくもない。
「私?」
身を起こしながら、周りを見回す。
拝殿には電灯がともっている。開け放たれた扉の向こうは、すでに暗く、波の音も遠くなっている気がする。
随分と長い時間、私は眠っていたようだ。
「ずいぶん眠っていたが、何か、見えたか?」
鬼頭に問いかけられ、私はドキリとした。
「……予知夢ではないです」
「そうか」
鬼頭は頷いて、それ以上は聞かなかった。
「神おろしは成功した。今、お前の中に、満宮の神の力がある」
空は、そう告げると、私のそばに桐箱を持ってきた。
「神の力……」
神が降りたというわりには、ずいぶん個人的な記憶の夢をみたものだ。
私にとっては印象深い記憶ではあるけれど、たぶん、鬼頭は覚えてもいない出来事に違いない、本当に個人的な記憶だ。
「さて、そろそろ行くとするかね。おれは先に島に行くわ」
田野倉がそう言って、立ち上がった。
「待て」
出ていこうとする田野倉を空が止めた。
「先行は、オレと華だ。干宮側儀式の準備と、結界を強化しておく。巫女のガードは役人二人でなんとかしてくれ」
「兄貴、私は中島さんと」
華さんが不服そうに、空を見る。
「お前の実力じゃ、巫女側についたら圧倒的に足手まといだ。儀式の介添えは、お前がすべきだが」
「磯田の人間が、ガード側につかなくていいのか?」
面白そうに、田野倉が言う。
「新月の闇のものが、巫女を襲ってくる――オレは、一匹狼でね。チームを組むのは向いていない。オレひとりで、巫女を守るより、あんたら二人が組んだほうが良さそうだ」
空はそう言って、首をすくめた。
「闇が騒ぐ。隼人も気になるが、一筋縄ではいきそうもないな」
鬼頭がぽつりとつぶやいた。
海から吹く風が潮の香を運んでくる――どこかねっとりとしていて、肌にねばりつく気がした。
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