青き光に招かれて

 会社帰りに突然、道で倒れた私は、一週間入院した。

 過労、と診断された。

 心当たりは全くないが、入院している間、身体の節々が傷んだ。

 不思議だったのは、会社の帰りに突然倒れたはずの私が、入院して退院できるだけの着替えを持っていたことだ。

 どこかへ旅行にでも行くかのような荷物を持っていたにもかかわらず、私に全く記憶がなかった。

 財布に、覚えのないトン汁定食のレシートが一枚入っていたのも、謎だ。

 それから。胸が裂けるような哀しい夢をみるようになった。

 それは同じ夢だとわかっているのに、目覚めると、柔らかな唇の感触以外、何一つ思い出せない。

 月のない晩は夜空を見るたび、涙がでる。

 理由は、全くわからない………そんな日々が続いた。



「中島さん、あとは来週にして帰りなさい」

「はい。わかりました」

 松本主任に声をかけられ、私は仕事を切り上げた。

 時計は八時を回っている。

 今日は金曜日だ。主任だって帰りたいだろう。

 それに、夏に『過労』でぶっ倒れて、数日入院した私は、自分の体力に自信がなくなっている。

――中島さんは、無理ばかりするから。

 入院からしばらく周囲は私に過保護になった。もっとも、秋が過ぎ、師走に入ると、そんな気遣いはとうに誰もしてくれなくなったけれど。

 私は、コートを着て、マフラーを巻き、会社を出た。

 冷たい風に耳が冷たくなる。

 暗い夜道。月のない晩だ。

 胸がドクンと音をたてた。

 理由のわからない切なさを振り払い、私は帰路を急ぐ。

 金曜日ということもあって、まだ、商店街は明るく、人通りが多い。

 街は、クリスマスに向け、イルミネーションを始めており、いつもより眩しいくらいだ。

 寒い夜の街を、腕を組んで歩くカップルがショーウインドウをのぞいている。

 寒いのに、お熱いこと……と、やっかみ半分、呟いて。

 あの人が、隣にいたら素敵だったな、と、ふと思った。

 あのひと――去年の今頃、通勤電車に素敵な男性が乗っていた……名前も知らない男性だけど。

 電車の時間が変わったのだろう、会わなくなって久しい。

「――痛っ」

 私は額をおさえた。

 その人のことを思い出そうとすると、頭が痛くなる――そして、どうしても顔が思い出せない。

 いつも、その人の顔を見ていたはずなのに。思い出そうとするだけで、張り裂けそうなくらい、胸がせつないのに。

 にぶい頭痛の中、私は、ふと足を止めた。

 駅まで伸びる街路樹に青白いLEDの光が、闇の中できらめいている。

 冷たい風に吹かれて揺らめく光は、何かに似ていた。

 暗闇に浮かぶ、青白い光が、道を作っている――そう、どこかで、確かに、私は見たはずだ。

――不意に。

 街路の片隅で、うごめくものが見えた。暗霧(あんむ)だ。

 こんなところにもいるのだ、と思ってから、どうみても異形なそれの名を、私は知っているのだろう、と思う。


「あれは?」

「低級な闇の生き物。暗霧だよ」


 頭の中に、言葉が蘇る。どこで、そんな話を聞いたのだろう。

 私は、無意識に右手で格子をえがく。


  臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 口をついて出た言葉は光となって、暗霧を焼いた。

 激しい頭痛のために、足がふらつく。

 さざ波の音が絶え間なく頭に鳴り響き、潮の香りが私を包んだように感じられた。

 私は、消えない頭痛をこらえ、タクシーを拾うと、ぼんやりと頭に浮かび上がる住所を告げる。

 たどり着いた住宅街は、知らない場所のはずなのに、なぜか暗闇でも見覚えがあった。

 私は、ここを知っている。頭痛が消え、頭の中の靄がぼんやりと薄らいだ。

 私は、タクシーを降り、その先にあるエレベータホールへ向かい、七階のボタンを押した。

 ドクリ。

 心臓が音をたてる。

 晴れきらぬ靄の中にある何かを見つけたくて、私は、705の呼び鈴を押した。

 自分が何をしているのか、はっきりとはわからなかったが、ここに来なければいけなかったことだけは、間違いないと確信できた。

 がちゃり、とドアが開き、一人の男性が現れた。

「……優樹菜?」

 目元が涼やかで、端正な顔立ち。甘いテノールの声。

 驚愕の色を映したその瞳を、私は知っている。

 ぼやけていた男性の顔が鮮明によみがえり、胸が熱くなった。

「どうして――」

 その言葉に応えるより先に、涙があふれだした。

 私は、呆然としたままの男性の胸に抱きついた。

 消えていた記憶が、潮が満ちるようにあふれ出して、元に戻っていく。

「好きです」

 私は、鬼頭の胸に顔を埋めた。

「私のこと、迷惑なら、きちんと振ってください――記憶を消さないで。消しても、忘れない……忘れられないから」

 泣きじゃくる私にぎこちなく鬼頭は腕を回す。

「なぜ、思い出した? 俺を思い出すということは、普通に生きられなくなることだ。それで、良いのか?」

 鬼頭の声が震えている。

「言っておくけど、力を封じるのは、それしか方法がない。もう一度――」

「月のない晩、理由もわからずに哀しくて、泣くのはもう嫌です」

 私は鬼頭の顔を見上げた。

「鬼頭さんは、私を忘れてしまいたいのですか?」

 見上げた鬼頭の顔は、泣き笑いを浮かべた。

「忘れてしまえたら、楽だったと思う」

 鬼頭は、私を部屋へ引き込むと、ドアに押し当てたまま、キスをした。

 夢と同じ、唇の感触だ。

「忘れた私も……楽じゃなかったですよ?」

「……そうみたいだ。俺は、間違えたんだな」

 鬼頭はそう言って、私の涙を指で拭った。

「後悔、しないか?」

「わかりません――でも、また、消されたら、絶対後悔します」

 鬼頭の手が私の後ろのドアのキーに伸びて、かちゃりとドアをロックし、次の瞬間私の身体は、鬼頭に抱きあげられた。

「え?」

 鬼頭は私の靴を脱がせ、そのまま寝室のドアを開く。

「鬼頭さん?」

 展開についていけない私を、鬼頭はそのままベッドにのせる。

「ごめん。こんな時間に、恋焦がれた女に好きだって言われたら帰せない」

 言いながら、唇を軽くついばまれる。

 胸が激しく音を立てて血が逆流しそうだ。

「どうしても嫌なら……我慢する」

 鬼頭がそう言った時。

 私のおなかが場違いにも、ぐうっと音を立てた。

「えっと」

 私は、恥ずかしさにうつむいた。

「……いやじゃないんですけど、あの……残業帰りでお腹がすいてまして」

 鬼頭がくすくすと笑い声をあげた。

 その笑顔は、とても晴れやかで、眩しくドキリとする。

「じゃあ、なんか作るよ」

「……ごめんなさい」

「いいよ。しっかり食べておいてもらわないともたないだろうから」

 台所に立ちながら、鬼頭はそう言った。

「もたない?」

 きょとんとした私に、鬼頭は意味ありげに笑った。

「俺は、朝まで食べるから」

 我慢し続けたから仕方ないだろ、とウインクする。

 言われたその意味を理解して、私の身体がカッと熱くなった。


 そして。

 翌日、夕飯に私が作ったハンバーグは、想像以上に美味しいとセイは夢と同じ笑顔をみせた。



 了

 


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