第5話『大家』

―ほら、あれが小鳥博士だ。

 毎夕一七時三〇分きっかり、裏庭の桜の木に懸かった朱塗りの巣箱に餌を遣りに来る。特段、小鳥諸般に通ずる大家と言うのでも無い。只の痩せぎすで無愛想なお爺ちゃん、それは僕たちの学生下宿の大家さんである。丸く開いた入り口の前に小指の先くらいの山を三つ築く、その慎重な手付きが一端の研究者を思わせるので、小鳥博士。小さな匙で稗だか粟だかを整った円錐形に模る様は寧ろ恭しいと言いたくなるほどで、実際朱塗りの巣箱は神棚みたく見えなくもない。

 小鳥博士が車に撥ねられた、と隣室の野嵜が言う。不幸中の幸い、軽い脳震盪を起こした程度で明日明後日には退院できるらしい。だがあれはさぞひもじい思いをしている事だろう、と巣箱を指差す。餌の置き場がわからないのでバターピーナッツをざらざらと巣箱に流し込む。そんな事して大丈夫かよとも思うのだが、さて僕たちは一体小鳥博士が何の大家であるのか全くもって存じ上げない。まあ暫くはこれで辛抱してくれ、等といい加減な事を言いながら野嵜は柏手を三度打った。

 その夜、空は大荒れに荒れた。強風はおんぼろ下宿を容赦なく揺さぶり、叩き付ける雨滴に窓硝子は小刻みに振動する。野嵜の部屋に寄せて貰おうかと逡巡するうち恐ろしい地鳴りがして電気が切れた。真っ暗闇に包まれた瞬間ふっと張り詰めていた神経が緩んだものらしく、僕にはその後の記憶が無い。

 窓から差し込む朝日の眩しさに目が覚めた。カーテンを開けると、何時の間にやら戻っていた小鳥博士の大家さんが庭に箒を掛けている。桜の木は根元から斃れていた。散らばった朱色の欠片はあの巣箱だろう。何だか妙な後ろめたさを覚えてカーテンを引いた。さて時はもう九時一五分前、おおい野嵜、遅刻するぞ。だが返事は無い。薄情者め、一人でさっさと行っちまいやがった。不図足元を見ると、野嵜の部屋の戸口に整った円錐形の山が三つある。

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