第2話『筆舌』

「憑きものが落ちた、とでも言ふのだらう」

 彼の人はちひさく笑つた。


 彼の人が出所後間も無く著したのは、ボオイ・ミイツ・ガアルの、余りにも切ない青春小説だつた。嘗て読者を熱狂させた、濃密な官能と無惨はすつかり鳴りを潜め、剥き出しの、瑞瑞しい衝動の発露だけが、其処に在つた。


「だが、僕はさう思はない。やつと、憑いたのさ」

 今度は、にまつと大口開けて、凄いやうな笑みを浮かべた。


 彼の人を、五年もの長きに暗房へと押し遣つた事件の仔細を、私は知らないし、殊更詮索してみる気持ちも無い。

「刑務所に妙な爺さんがゐてな、サラリと山鬼の碧梧桐のを諳んじて見せるから、先ず先ず愛好家と見て違ひはない。そいつがスツ惚けて、やい、兄さんみてえなインテリの物書きさんが、いつたい何を仕出かして此んな処へ抛り籠まれたんだ、と訊いて来るんだ」

 当時、彼の人は、処女作が名立たる煩さ方の目に留り、幾つかの賞に推されもしたが、生憎其んな事では暮してゆけない。傍らに、露骨なエロスとグロテスクで飾つた、通俗的な実録物を著して、何とか糊口を凌いでゐた。

 事件の当夜、行き付けのバアで酒を呷つてゐる処へ、マニアツクな青年が執拗に絡んで、やれ堕落だ、迎合だ、と詰るものだから堪らない。

「今更隠す事も無い、明け透けに話して遣つたら、何か琴線に触れたか知らん、涙迄浮かべて聞き入つてゐたよ。其れで暫らく項垂れてゐたかと思へば、やおら面を起すなり、号を呉れると言ふのさ」

 

 彼の人が差し出したメモ紙には、達者なペン字で『筆蝸』と在つた。

「厭味か、書き損じか、マアそれはどうでも宜しい。兎も角、僕は気に入つた」

 彼の人、さも愉快さうに、呵呵と笑つた。

「じじつ、筆は遅いしな」


「子供騙しだ! 極道の観察記より一層ひひひ」

 斯くの如く、舌鋒鋭き論客は「酷い」と断ずる間も無く事切れた。故人の遺志に基づき検体に供された亡骸は、様様の非行が伝へられた割に病巣のひとつも認められず、至つて清潔であつたと云ふ。唯、其の人の舌が歪に捻じ呉れて、巻貝の如き奇態を為してゐたのは驚きであつた。大学病院に今も保管されてゐるホルマリン漬けの標本には、医学生が洒落た心算であらう、『舌蝸』の札が掛かつてゐる。

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