八百物語
最寄ゑ≠
第1話『あじさい寺』
古寺の庭に盛る紫陽花が実に碧い。
ええ、碧う御座いますな。
昔むかし、此処らの屯地の長者に大層器量良しの姫御がいらさりまして、それがあの、深い淵に満満と清水を湛えた様な碧い眼をしておりましたそうな。姫御には将来を約した許婚がありまして、此れがまだ元服を済ませたばかりの若輩なれど既に一軍を任されるほどの出来星侍、いや真に似合いの夫婦、そう屯地の者らは評判し合うたと申します。
水温む春先、北方に謀反の動きありと討伐の兵が起こされた。多勢に無勢の楽な戦さと思われたのが思わぬ返り忠に遭うて大負け、蝉時雨の聞こえる時分にぽつりぽつりと敗残の兵が還つて参りましたが、件の若侍の姿は一向に見付りません。姫御は日日を泣き暮らすばかりで食餌も御摂りにならず、身は見る見る痩せさらばえて、幾日も経ぬ間にとうとう果敢無くなつて仕舞われた。されど、骸はすつかり冷とうあるのに碧い眼からは尚滾滾と涙が溢れる、此れでは荼毘に致すも忍び無いと、暗い土蔵に安置されて御座つたのです。
さて天も姫御の歎きに応じたものでしようか、長雨の已むを知らぬに田畑は腐り、暴れた川に家屋敷も倒された。芒の穂が揺れる頃、尾羽打ち枯らした若侍がようよう辿り着きますと屯地は一帯荒れ放題。無惨の景色に胸潰され、吾が妻よ、吾が妻よと呼び回れば、ぽつりと立ち残つた土蔵から、しくしく、しくしくと啜り泣きが聞こえます。若侍、よもやと思うて駆け寄るなり扉を破つて押し入らば、碧い眼から止め処なく涙を流す骸がひとつ。若侍、姿変り果てた姫御をひつしと掻き抱いて、ああ済まなんだ、俺を許せと詫びますと、今一目お前様に逢いとう御座いました、此れで思い残しはありませぬと言うて、骸はからから乾涸びて、終に頽れて仕舞つたので御座います。
南無阿弥陀仏、と掌を合わせる老僧は唯一心に紫陽花を見詰めている。時は夕暮れ、御堂に射し込む赤い西日に映えてさえ、其の眼がまた実に碧い。
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