桜木恵子の恋因 2

 ピーンポーン


 家のインターホンが鳴った。

「あ? 誰だよこんな時間に……今いいとこなんだよ。邪魔すんなよ」


 ピーンポーン


「ちっ、うるせーな。はいはい今行きますよー」父はなにやらブツブツと呟きながら洗面所を後にした。

「かはっ、はっ。おえっ…………お、終わった、の?」

 声に出して安堵のため息をついていると、何やら玄関の方が騒がくなっている事に気が付いた。

「なぁ、頼むって。許してくれよ、な? わかった! うちの娘やるから! だから勘弁してくれよ! 頼む! たの、……う」

 声の主はどうやら父のようだった。

「お父さん?」

 這いずりながら薄暗い廊下に出ると、玄関の方へ目をやった。

──えっ。


 その時の光景を、私は今でもハッキリと覚えている。


 地面を這っている私と父の目が合った。横には直立不動の父の身体。違和感塗れのその状況に、私はゆっくりと視線を上げた。

 そこには、開きっぱなしの玄関扉の前に、赤い斑模様が特徴的な黄色いレインコートを着た女が立っていた。

 目が合うと、女はニタリと微笑んだ。

 視線を手前の父の身体へ移す。

──お父さんの首が……無い。

 否、身体の横に、床の上に落ちていたそれであった。

 いつの間にか、父の首を中心に真っ黒な液体がじんわりと小さな池を作っていた。

 しとしとと降る雨の音が、開いている扉から聞こえてくる。

 ぽたぽたと液体が滴る音も聞こえるが、これは父の身体を伝って指先から零れ落ちた命の雫が、床に広がる赤黒い池に着水して発されているものだと見てとれた。

 転瞬、ピカッと目の前が白い光で包まれると、父であった肉塊からどくどくと流れ出る液体があざやかな赤色を帯びながらった。

 はっと息を呑む。

──この時、この時だった。この瞬間、私はこの異常な光景に、不覚にも『美しい』と感じてしまったのだ。そのコンマ数秒の景色に釘付けになった私はうっとりとし、深く溜息をついた。

 時間差で空がごろごろと唸る。

 私は感動の余韻に浸っていた。その感動は、父が死んで解放されたとか、そういったミジンコみたいなちっぽけな理由でなかった。他でもない、先程目の前に広がったあの情景。脳にこべり付いて離れない、あの情景。

 ツンと香る鉄の臭い、艶やかに赤くひかる血。そして、黄色いレインコート──

 一向に心臓の鼓動が、鼓膜から消えない。

 これは『恋』だ、私はそう思わざるを得なかった。

 幾許かの時間が流れる。

 私はふと我に返ると、赤い斑模様の女が消えている事に気が付いた。

 私も……私にも、こんなことができるかな──

 雷は二度と光らなかった。

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