桜木恵子の殺人美学

三隈 令

プロローグ

桜木恵子の恋因 1

 闇の深さに溺れてしまいそうな程に暗い、夜。

 天井から吊るされた裸の光源は、その機能をあまり果たしていないと言えるだろう。闇に呑み込まれる事を恐れ、辛うじてその身に火を宿しているように感じた──それはまるで、今の私を暗示しているかのようだった。

 半開きの窓から漏れる雨が、ザーザーと降る音以外は何も聞こえない、聞きたくない。

「おい、恵子けいこ! 酒無くなったから買ってこいや!」

 そう言うと、父は日本酒の空瓶をこちらに向かって放り投げてきた。

 いつからだったろうか。職を失った父は、こうして毎日毎日朝から晩まで酒に入り浸る生活を送っていた。そんな父に見兼ねた母は、妹の愛花あいかを連れて出て行った。『二人も子供を育てられない』といった理由で母に見放された当時七才だった私は、酒を飲んでは怒鳴り散らす父にビクビクしながら、どうにか生きていた。

 ごとん、と鈍い音を立てて転がる空瓶に自分の顔が歪んで写った。ただでさえ歪なその顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり一層醜く見える。

「おい! 人の話聞いてんのか?」

「お、お金……ないです」

「あ? んなもん知らねぇよ! 父親に口答えするやつは仕置きだ。おら、こっちこい」

「ひっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 買ってきますからだからそれだけはやめてください!」

 お願いしますと額を畳に擦りつけながら土下座する。日頃からこの調子なので、おでこの皮膚は硬化し、胼胝たこのようなものができていた。

 しかし、私の懇願も虚しく、ボサボサになった長い髪を片手で鷲掴みにされると、洗面所まで引きりながら移動させられた。

「い、痛い、離して」

「うるせぇ! 仕置きだっつってんだろ!」

 そう言って洗面台に水を張り出した父は、今度は私の頭を掴んで水溜りのできた洗面台に顔面を押し付けた。

「がっ! ごぼぼっ、がばっ」

 もがき苦しむ私に一切構うことなく『仕置き』と呼ばれるそれが始まった。

 ばしゃと音を立てて上げられた自分の顔が目の前の鏡に写る。

 ──あぁ、さっきの空瓶に写ってた顔の方がまだましかな。

 などと考えるのがやっとで、間髪入れずに顔が水に沈められる。

「ご、ごぼっ! がぼっ……」

 ──いっそこのまま死んじゃいたい。なんで私がこんな目に? いつからこんなことに? お母さんがいた時は楽しかったな……今どこで何してるんだろう。愛花は元気にしてるかな。

 もう何度目かの浸水が行われた時だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る