耀編

1:少女と灰色の月

 寝覚めは最悪だった。


 少女が体の鈍い痛みで目を覚ましてみれば、うつ伏せに寝転がっていたのは粗い砂地の上。加えて辺りはどんよりと暗い。周りをよく見てみれば、黒々と枯れて朽ちかけた木々ばかりが並んでいた。“元”森といった様子のその場所は、空は紫色に淀んだ分厚い雲で覆われ、辺りには同じく紫色の霧が漂い非常に視界が悪い。遠くから断末魔か何かが聞こえてくる。それが何の声なのか、単なる音なのか、見当も付かなかったが、そちらに向かっても時間と命の無駄にしかならないだろうということぐらいは想像がつく。


 そして何より、味方の姿が何処にも無い。


「さ、朔楽……朔楽?」

 少女は恐る恐る幼馴染の名前を呼ぶ。返事が無い。洪水に見舞われたにも関わらず、髪もリュックも服もただの一滴も水気が無いことなど、気にも留めなかった。

 怖い。首筋を這う、ぬるいのかそうでないのかよく分からない空気が少女の警鐘を揺らす。

「おーい」

 立ち上がり、及び腰になりながらも辺りを見回す。と、爪先が何やら硬いものにぶつかる。ヒッと息を呑み飛び上がって足元を見れば、それは一振りの剣。ついさっき自分が引っこ抜いたものだった。拾い上げると不思議と手に馴染む。この不可解な、不気味すぎる状況での唯一の頼みの綱となることは間違いなさそうだった。

 この状況を招いた最後の引き金であることも、間違いないのだが。

 兎に角この森を抜けるか、幼馴染を見つけて合流しなければ。剣を両手で順手に握りしめた少女は、その一心で無理矢理足を前に出す。

 何が起こったのか全く分からない。何の説明もヒントも無い。見当がつくことと言えば、同じく彷徨うならさっきの森の方が何千兆倍もマシだったということ、ひしひしと命の危機が迫っているであろうということ。単なるドッキリで済むならそれでも一向に構わない。いやその方がいい。ただし仕掛け人は見つけ次第全身全霊で蹴っ飛ばす。なんて思ってはみたものの、そんな虚勢は次に瞬きする頃には掻き消えていた。

「朔楽〜? いる〜?」

 忙しなくあちこちを見回しながら時折呼びかけてはみるが、情けなく響く声は霧に包み込まれるように消えて行く。

 不安。どうしようもなく不安だった。後ろから聞こえてくる重い足音が、実体を持った不安そのもののような──

「ッ!!?」

 振り向く。いた、数メートル先に、獣だ、黒い、デカい、虎か豹か、いやちょっと待て、右半身が腐ったように半個体化している。片方の目玉が転げ落ちそうになりながらこっちを見ている。もう片方の目玉もこっちを見ている。そしてその獣は汚らしい咆哮を上げ、少女目掛けて跳躍する。

「っ、あ……!」

 声にならない叫び。いやだ怖い死にたくない。無我夢中で体を動かした。振り抜いた腕が、その手に握り締めた剣が獣を捉え、ごきゃりと生々しい音を立て獣の頭部を斬り飛ばした。中途半端に勢いを殺された胴体が少女の爪先三寸の辺りにどっと落ち、どす黒い液体が足元に広がっては粗い砂地に呑まれてシミになる。

 水面の鯉のように大口開けてか細く喘ぎながら、少女は息苦しさに胸元を抑える。先程から視線を感じるのだ。無数の、飢えた視線。不快感と恐怖が加速していく。鼓動は早鐘を打ち全身から嫌な汗が噴き出す。ここに立ち止まってはいけない。

「朔楽……!」

 泣きそうになりながら少女はその場から小走りに逃げ出した。もう何も考えられない。早く彼を見つけなければ。何が起こっているか分からない。余計なことをしでかした自分は剣を持っていたから命が助かったようなもの。巻き込まれただけの彼は間違いなく丸腰だ。もしあんなケダモノがそこかしこにいるのだとしたら。

 足並みは徐々に速くなって行く。嫌な想像ばかりが浮かんでは消える。何処に。一体何処に。

「朔楽!」

 堪らずに叫ぶ。が、答えたのは知った声ではなく幾つもの悍ましい咆哮だった。また木の陰から湧くように、1体の獣が牙を剥き爪を鳴らす。

「わああっ!!」

 闇雲に振り回した刃は獣の肢を切り飛ばし喉を貫き、またその体液で少女の衣服と剣を黒く染め上げていく。四つ足の腐りかけた獣、無数の足をざわめかせる巨大なムカデ、森を進めば進むほど、形容するのも憚られるような異形の獣や蟲の姿が否応なしに目に飛び込んでくる。見つかれば容赦なく襲撃される。その度に剣を振り回しては屍を作り、必死に森を駆けた。

 追い払うということができない。息の根を止めてやらねば、奴らは止まるということをしない。首だけで追い縋って来たこともあった。少女は泣き叫ぶ余裕さえ無くし、動くものをひたすらに斬って捨てて先へ進んだ。剣の覚えなど毛ほども無いのに、喰われたくない一心で無茶苦茶に振り回せば、敵は動きを止め地面に黒々とした液体をぶちまけた。勿論当の少女に、そのことに気づく余裕なんてものは無かった。

 早く、早くアイツを見つけなければ。助けなければ──

 それでも、リュックを背負った状態で走って剣を振り回せば目に見えて体力は消耗する。その内息が上がり、足がもつれ、もんどり打って転んでしまう。なんとか立ち上がるも、膝が笑い立っているのがやっとという状態。それでも、木陰からこちらを察知した獣がにじり寄って来る。

「ハァ……ハァ……何処なの……? 朔楽……生きてる……? お願い返事して……」

 顔は青褪め両目に涙を湛え肩で息をしながら、切っ先まで黒い液体に塗れた剣を構え、目の前で唸り声を上げる異形の獣を見据えながらじりじりと後ずさる。

「……邪魔、しないで……!」

 斬りかかろうと決死の思いで踏み出して、しかし頭に鋭い衝撃と痛みを感じたのを最後に意識は闇に堕ちる。




***



 重く、気怠く、それでいて安らかな心地だった。体が柔らかな感触に支えられ、温かなものに包まれ、やがて自分自身が布団にくるまれているのだと察する。これぞ夢心地。ずっとぬくぬくと眠っていたい。そんなふやけた意識は、しかし、ひとつの名前に行き着いた途端に音を立てて冴え切った。

「……ぁぁぁあああああっ!!」

 跳ね起きて周りを見回して──しかし求めるものは視界の何処にも見当たらない。それどころか、見覚えの無いものばかりが目に入って来る。さほど広くない、落ち着いた色調で纏められた質素な木造の部屋。机と椅子と、空の棚と、今し方身を起こしたベッド、それから扉。

 何かが急き立てて来る。呼吸は浅く不規則に速い。不安に身を任せ少女はベッドから飛び出そうとして、

「わだっ!?」

 掛け布団諸共顔から転んだ。鼻っ柱と額をこっ酷く床に叩きつけた。激痛と不安定な気持ちがしっちゃかめっちゃかのぐっちゃぐちゃで、言葉にならない悲鳴を上げながら顔を押さえ、掛け布団を盛大に巻き込みながら床をゴロンゴロンあっちへこっちへのたうち回っていると、何処からか足音がこの部屋へ近づいて来る。やがて扉がそっと開き、1人の若い男が入って来た。

 見かけの歳は30代前半といったところか。ボサッとまとまりの無い灰色の髪に覇気の薄い群青の瞳。少し草臥れた衣服に、革製の大きなウエストバッグが妙に目立つその男は、巨大布団芋虫に歩み寄りその外皮を引っぺがす。転がり出て来た少女は男の姿を認めるなり勢いよく這って行っては叫んだ。

「サクラは!? サクラは何処!? っていうかここ何処!? 誰!? 何処なの!?」

 憔悴しきった少女に驚くこともせず、男は少女の両肩を押さえながらぼんやりとしたテノールで声をかけた。

「あー、いいか?」

「よくない!」

 少女は男の手首を掴み身をよじって抵抗する。が、男の手は離れない。

「俺はーアンタの質問に答えたい。アンタはー、俺の答えを聞いてくれるか?」

「……答え?」

「アンタが知りたいことを教えてやる。だからー俺の話を聞いてくれ。できるか?」

 返事は無い。浅い呼吸を繰り返し唇をワナワナと震わせ、少女の焦点の合わない目は男を睨んでいるのかいないのか。

 やれやれ、と男は溜め息混じりに呟いて、少女から片手を離してウエストバッグに触った。大小様々なポケットの中から迷うことなく1つを選び、取り出したのは白い真ん丸な果実。人差し指の先ほどの大きさのそれに力を込めて潰すと、ぷちんと小気味好い音と共に、ツンとした爽やかな香りと柔らかな光の粒子が周囲に広がる。男は果汁で湿った指先を自分の服の裾で適当に拭うと少女の肩を軽く叩いた。

「プラシアの実は知ってるか? 昂ぶった感情を抑えるー、まー早い話が精神安定剤みてーなモンだ。アンタが今ギャーギャー騒いでんのは、アンタ自身の意思によるモンじゃーない。アンタならもう少し冷静に話ができる筈だ。だよな? 今はちょーっと不安で混乱しているってーだけだよな? なーに心配すんな。ここにはアンタを害するモンは何一つ無い。お互い落ち着いて話をしようや」

 もう一度少女の肩を叩く。光の粒子が少女の周囲を漂って消え、強張った体からフッと力が抜ける。

「よし……自己紹介しようか。俺はエン。エン・オリタ。暇人、兼医者だ」

 エンと名乗った男は、アンタは? と無言の問いを投げかける。しばしの沈黙の後、少女はゆっくり口を開く。

「アカル……」

 アカル。エンはその名前を噛みしめるように小声で反芻した。

「よーし来た。んじゃ、硬い床の上じゃーナンだしとりあえずそっちのベッドの上にでも座ってくんねーか? 横ンなりたきゃー転がっててもいいし」

 アカルがフラフラと、エンに支えられながらもベッドの上に腰掛けると、エンはその側に椅子を引っ張って行ってどっかと腰掛ける。

「で、だ。俺から聞きたいことはー色々あんだけど、まずはアンタの質問に答えようか。あー、何かの、もしくは誰かの居場所を知りたいんじゃーないのか?」

「……サクラは、何処?」

「サクラ? お前の友達か?」

「……うん」

「あー……髪と目の色とか、見た目の特徴を細かく教えてもらってもーいいか? 念の為だ」

 エンはウエストバッグからメモ帳と、真っ黒な細い棒を引っ張り出した。

「髪と目はどっちも黒。癖っ毛で髪の毛もっしゃもしゃで……背はアタシよりちょっと高いぐらい。いつも黒い服で青いリュック背負ってて……」

 エンは筆記具らしき黒い棒でアカルの話をメモ帳に書き留め、一通り聞いたところで細く息を吐く。

「ありがとう。あー、ただ残念だが俺はそのサクラってー奴を知らない」

「じゃあ、何処に……」

 アカルは縋るようにエンに掴みかかりかけ、ハッとしてベッドの縁に戻った。

「俺がアンタを保護した時、少なくとも周りに他の人間は1人もいなかった。あの場にいなかっただけで生きてる可能性はー、あるっちゃある。こっちでも探す手筈は整えておく──」「本当に!?」

 弾かれたように立ち上がったアカル。泣きそうな顔になっているのに気がついたのか、両手の甲で目頭をぐいぐい擦りながらまた座り直した。エンは少し濁った群青の目でアカルを一瞥すると、頭を掻きながら手元のメモ帳に視線を落として続ける。

「そんでー、さっき聞いた限りじゃー他にも質問があったな。ここは何処かって話だな?」

 アカルは無言で頷く。

「ここはレストレア。フォーガの西の端っこだ。『未完成の街』だとかー言われてんだけどー、聞いたことねーか?」

 アカルはしばし呆然とした後、ゆっくりと首を振った。それを見たエンは微かに眉根を寄せ、腕を組んだ。

「……本当に何も分からねーか? 自分が何処にいるか、想像もつかない?」

「分から、ない……初めて聞いた」

「初めて?」

「えっ、と……うん」

「……初めて聞いた、か」

 エンは顎先に手を当てる。「一か八か」そんなことを低く零しては、今まで何の揺らぎも見せなかった双眸が僅かに険しくなった。

「ここでちょーっと待っていてくれ。アンタに見せたいモンがある」

「え?」

 身を乗り出しかけたアカルを手で制しつつ、エンが部屋を出て、また静寂が訪れた。

 そういえば──アカルはふと思い返す。ここは何処なのか。見知らぬ場所には違いないのだが、何故こんな場所で目覚めることになったのか。さっきエンとやらが言っていた、レスなんちゃらとは一体何なのか。察するに地名らしいが、そんなもの聞いた覚えが無い。ここは何処。アタシはアカル……アカル? そう、アカル。

 ボン、とベッドに横様に倒れこむ。なんだか頭が重い。ヌタか何かが纏わり付いているような。しかも時々ズキリと痛い。考えれば考えるほど不安になる。「サクラ」の安否ばかりが気にかかって、思考がぐるぐる絡まっていく。

「ん?」

 頭に手をやって、違和感に気づく。結んでいた長い髪は降ろされ、頭に何やら布がぐるぐる巻きになっている。質感や布の大きさからして、恐らく包帯。さっき打ち付けた以外に怪我でもあるのだろうか。そういえば着ているものもなんとなく違うような気がする。白っぽい厚手の布の上下だ。着心地が良いといえば良いのだが、はて、こんなものさっき着ていたっけ。あれ、さっきっていつのことだ?

 そんな折、部屋の扉が開いてエンが入って来た。片手に布で包まれた細長い物体を持ち、もう片方の腕に黄色いリュックをぶら下げている。それを見るなりアカルは再び跳ね起きた。

「そ、それ、アタシのリュック!」

「……そうか。ホレ」

 エンから受け取ったリュックをアカルは大切そうに抱える。

「そんな重いモンなーに入ってんだ?」

「えっと、教科書とか楽譜とか色々……」

「……アンタ、学生なのか?」

 少し怪訝そうな表情を浮かべるエン。リュックのファスナーに取り付けられた赤いテディベアをそっと握りながら、アカルはゆっくりと頷いた。

「んー、そうだなー……なあ、他に自分のことについてー……や、いいか」

 エンはアカルの傍ら、ベッドの上に手に持っていたものを置いた。それなりの重さがあるようで、それはシーツの中へ少し沈んで行く。

「今から見せるのは少ーし危険なモンだ。気ぃつけろよー」

 そう前置いてエンはその細長いものを覆っている布を外した。出て来たのは、一振りの長剣。アカルは息を呑んだ。

 黒い革が巻かれた柄。刃の根元を支える、真っ黒な歯車型の、中央に灰色の石を抱く装飾。鈍色に輝く平らな両刃の刀身。それに刻まれた、記号のような文字の羅列。アカルは何の躊躇もなくその柄に触れて、

「ぃいっ、たっ!?」

 突如バチリと走る頭を切り裂くような痛みに叫ぶ。エンが驚いて剣を引き離しに掛かるが、アカルはそのままうずくまり頑として手を離さない。

 痛みを堪えながらアカルの方も驚いていた。切り裂かれた場所から濁流のように重たいものが流れ出していく。それまでの倦怠感が見る間に薄れて消えて行く。絡まっていたものが解けて行く。そうか、そうだ、アタシは。

「あのさ、エン……だっ、け……でしたっけ?」

「あ、ああ。大丈夫か?」

「その、さっきまで面倒臭くて、すんません」

「あ?」

 ゆっくり息を整え、揃えた膝の上に長剣を置き、姿勢を正す少女。その様子に何事かと腕を組んだエンだったが、やがて思い出したように椅子に腰掛けて言った。

「あー、何が起こったか知らねーけどよ、取ってつけたように畏まんなくていいぞ。俺もどっちかってーとそういうの苦手だし」

 群青色の目が気怠く視線を投げかけてくる。少女は戸惑いに「あー」とも「うー」とも付かない妙な声で呻いた。

「で? アカルさんや」

「は、はい」

「だーから……ま、いいか。その様子だとー何かを思い出したように見えんだけども、その辺りについてー俺から幾つか聞いていいか?」

「え、うん、まあ……」

 少女は静かに身構えた。

 その名は我妻わがつま 耀あかる。日本生まれ日本育ちの18歳、華のラスト女子高生。吹奏楽部に所属し音楽とゲームをこよなく愛する何処にでもいる普通の高校生。の筈である。

 幼馴染と共にいつものように学校から帰る途中、何の前触れもなく不可思議極まりない出来事に巻き込まれ、夢かと思ったら夢じゃない。幼馴染とはぐれ、目の前には明らかに日本人離れした男、の筈が言葉はどうやら通じてる。加えて先ほど幾つか聞いた知らない単語。そして手元にある剣。今の今まで自分を取り巻いていた「普通」が全く通じなくなっていることは火を見るより明らかだ。ではどうすればいい。分からない。この男だってどんな裏があるか分かったもんじゃない。じゃあどうすりゃいい。何も分からない。彼女は、顔に不安を色濃く滲ませながらエンの問いを待った。

「ま、俺も無理強いはしねーからよ。それで、だ。まず聞きたいのはー“あの森”に来る前のことだ。何処にいたんだ?」

「あの森って……あの、紫っぽい、気持ち悪い森?」

「まーそうだ。その森に入る前、アンタは何処にいたのかー教えてほしい」

「えっと……なんていうか、その、気がついたら朔楽……幼馴染と一緒に知らない森の中にいて、その中でこの剣を見つけて……アタシが調子こいて引っこ抜いたら、なんか水がバーって流れてきて、アタシらそれに流されちゃって、んで気づいたらあの気色悪い森ん中で、なんかもう変な、変なってかすっごいグロい奴らがうじゃうじゃでもう気持ち悪過ぎて逃げてて、でその、そっから先が、またちょっとあやふやで……」

「……ふむ。ってーことは、“あの森”より前には別の森にいて、更にその前にも何処かから飛ばされてきたってーことか?」

 エンは手で「あの森」「その前の森」「更にその前」と点を作り「更にその前」を指先でくるくるとマークする。妙なことを言っていたということに気がついた耀あかるは、小さく喉を鳴らした。

「えっ……とまあ、そ、そんな感じ? いやー、何処にいたんだろうなー! ハハ……いやほんと気づいたら森のど真ん中なワケ。これが世に言うキオクソーシツってヤツ?」

 多分異世界から来ました、なんて、言ったら放り出されるか捕まるか殺されるかなんか、そんな気がして。耀は必死で口から露骨な出まかせを並べて笑いながら、何の機転もきかせられない自分を恨んだ。が、間もなくエンの制止が入る。

「あー、いい。分かった」

「アッハイ」

 成る程な、と顎を触るエンを前に、耀は膝の上で剣の柄を握る手に力を入れた。

「ワケもわからねーまんま2回も飛ばされた挙句ー? あの森で魔物に取っ捕まったと……んで、どっかで不意打ちでも食らってー、そのまま気絶してたんだろ。俺が見つけた時頭に怪我があったからな」

「怪我……あ、えっと、この包帯って」

「ああ。俺がやった」

「……あ、あなたが」

「俺だな。たまたま調査中だったんだ。流石にあの森のど真ん中じゃー応急処置しか出来なかったけどなー」

「ひええ……」

 この世の生き物のものとは思えない奇声を上げながら迫り来る、怪奇を狂気で塗り固めたような異形が脳裏を過ぎって、慌てて頭を振って搔き消した。

「しっかし、剣を取ったら、ってのがなー。恐らく遺跡のトラップの類だろうなー。で、トラップで幼馴染諸共吹っ飛ばされたー、と」


 ──余計なことすんなよ。


 剣に夢中になる自分にそう言い置いて離れていった幼馴染を思い出す。

「ホンット余計なことした……」

 耀は消え入りそうな声で苦々しく呟いた。それを知ってか知らずしてか、エンは耀の話をメモ帳に纏めながら続ける。

「ま、あの森に入ったのが不本意だったってーのはよく分かった。それだけでも一安心ってモンだ……」

「あの、し、質問」

「ん?」

「あの森って……何なの?」

「『失せ物の森』ってー呼ばれている。世界でも指折りの危険地帯だぜ」

「……ゆびおりの」

「生息する魔物もその土地そのものもあーんまりに凶悪過ぎて、10年くらい前まではどんな場所なのかー殆ど分かっていなかったぐらいだ。分かっていることと言えばー、失せ物、まーつまり失くしたものに関する執着心だとか、それが無くて不安に思う気持ちだとかー、その辺を極端に増幅させるってー辺りだ。万全な対策が無けりゃまーまず間違いなく廃人真っしぐらだ」

 耀は息を詰まらせた。自分の弱々しい声がフラッシュバックすると共に、自分の血の気が引いて行く音を聞いた気がした。

「アンタは運が良かった。悪かったようでー良かったんだ」

「ホ、ホントだ……」

 すっかり意気消沈したその肩を、エンは椅子から立ち上がって軽く叩く。

「で、これからどうしたい?」

 耀は頭を強く振って、答える。

「アイツを探す」

「アイツって、サクラとやらか?」

「うん。アタシがこんな目に遭ったんだから、アイツも何かしら危険な状態にあると思う。そうでもないならそれに越したことは無いけど、兎に角早く合流して、それからこの世界がどんなものなのか確認したい」

「……“この世界”が」

 エンは含みを持たせて復唱した。口が滑った──耀がそのことに気づいて固まった時、扉の向こうでガタンと物音がした。それと、慌てたような人の声も。それを聞いたエンは呆れたような溜め息を吐いた。

「あーあ、一番面倒くせーのが来たぞー……」

 エンは椅子から立って一歩扉に向かい、耀を振り返った。

「お互い聞きたいことは一通り聞けた、な?」

「え、えーと、まあ」

「ん。とりあえずーそういうことにしておこう」

 そう締め括ると右手を緩く掲げる。親指と中指で輪を作って力を込め、パチン、と乾いた音を鳴らすと、扉が勢いよく開き2人の人物が雪崩れ込んで来た。が、2人は直後に霞むほどの勢いで居住まいを正し、何事もなかったかのように部屋の入り口から声をかける。

「オーッス先生! たった今怪我したから来たぜー!」

「…事案発生ならず、か。無念」

 同じ灰色のローブを纏った2人組だが、見るからに対照的な凸凹コンビだ。明るい茶髪をツンツンに立てた背の高い少年は高らかに手を挙げて笑っている。黒と言うよりは藍色のおかっぱ頭の小柄な少女は、ぴったり揃った前髪の下から半ば睨みつけるように翠眼を耀とエンへ向ける。

 エンは面倒臭そうに項垂れて頭を掻く。

「あー……帰れ」

「えーひっどーい! 怪我人ほっとくつもりかよー!」

「テメーよりもよーっぽど重篤なヤツがいるんだよ。しばらくは安静にしなきゃなんねーから賑やかしはとっとと退場だ。ホレ」

 口を尖らせる茶髪の少年にエンはひらひらと手の甲をはためかせる。その横を無言で通り抜けようとする少女も首根っこを引っ捕まえられた。

「おいコラ、テメーも引っ込め」

「…何もされなかったか、確認」

「確認もクソもねーだろーがよ。なんもねーからとっとと帰れ、ったく……」

 ズルズル引きずられて行く少女は耀をじっと見つめて言う。

「…ねえ」

「……え、アタシ?」

「…うん。本当に何もされなかったかな」

「や、何も……話をしたってだけで別に、事案なんてことは」

「…そう」

 ほれ見ろ、とそのまま2人共極めて雑に追い払われて、部屋はまた静かになる。

「あの、今の2人って」

「はー……でかくてうるせーのがゲツェット、ちっこくて目つき悪りーのがリムだ。ただのクソうるせーかまってちゃんだからよ。もしカチ込んで来るようならーアンタも適当にあしらってやってくれー」

「は、はあ……」

「で、さっきも言ったがアンタはここで数日静養してもらう」

「えっ」

「幼馴染を探したいってー気持ちも分かるけどよ、実は丸2日昏睡状態だったんだよ、アンタ」

「へ? ……へ!?」

「栄養は薬で無理矢理取らせたけど、そんなんでー体調が戻るワケねーからな。ま、そういうことだ」

「え、でも……」

「悪りーが『でも』もクソもねーんだわ。職業柄ってこともあるが、アンタが探したいモンをアンタしか知らねー可能性もある。そんな状況で、アンタ本人が無茶をしてみろ。見つかるモンも見つからなくなる」

 途端にまくし立てて来たエンに、耀は閉口する。

「ま、そーれはさておき、腹減ったろ。ここを出て左に行ってー、突き当たりの階段を降りてまーっすぐ行って扉を出ればー正面に食堂がある」

 エンはウエストバッグから長い紐がついた小さなカードを取り出して耀に差し出す。受け取ったそれには、まるで見覚えの無い、しかし確かに読める言葉でこう書いてあった。

「療養者証……?」

「それを持ってりゃーここの食堂と幾つかのスペースが1日2回までタダになる。なんかあったらー裏側の印を2回叩いて俺の名前を言ってくれりゃーそっちに向かう。大抵暇してっからよ」

 裏側には、翼が三日月を抱くような紋様と、文字がきざまれている。「レストレア悠静院ゆうせいいん」と読むことが出来た。表も裏も、剣に刻まれているものとは違う言葉だった。

「さっきはああ言ったけど、ぶっちゃけまだ聞きてーことは色々とあるんだ。今日はーもう大人しく休んで頭整理して、明日話の続きをしよう。頼めるか?」

 耀は黙って頷いた。

「よーし。んじゃ俺は戻るわ。あ、この剣はこっちでしばらく預かっとくがー、構わねーか?」

「……多分」

「ん、そんじゃな」

 カードに視線を落とし黙り込んだ耀を横目に、剣と布を手に取ってエンは扉をそっと開ける。うるさいのがいないことを確認してから廊下へ出ると、エンは剣を緩く掲げて手を離す。剣はふわりと音もなく中空に漂い、続いて布を適当に放るとひとりでに剣に纏わりつき、最初に部屋に持って来た時と同じ状態になって再び彼の手に収まる。そのまましばらく扉の側に佇んでみたが、特に物音は聞こえてこない。が、ふと意識の中に流れ込んで来たのは、少女の声。

〈本当に異世界に来ちゃったんだ……来ちゃったんだよね?〉

 療養者証を通じて聞こえてくる、呆けたぼんやりとした声。エンは手元の布の包みに視線を落とし、ぽつりと呟いた。

「成る程な」



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