桜の花が咲くころ
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桜の花が咲くころ
さて、今から少し、「愛」の話をしよう。これは少し歪んでいて、一般的な愛の話とは違うだろうと思う。でも、僕には紛れもなく代えがたい「愛」の話だ。
〇
僕の両親は、僕が二歳の時に死んだ。事故だった。なぜだか僕は助かったが、両親は即死だった。例年よりも早く降り出した雪で、乗っていた乗用車がスリップし、そのままの勢いで分離帯に突っ込んだ。その時、両親はまだ二十歳だった。親戚一同が、「あんな若いうちに子供作って結婚なんかするような子たちだ、こうなったのも不思議ではない」と、僕が物心ついたころにも言っていた。きっと、両親が死んでから何年も何年も、そうやっていい続けていたんだろう。しかしいつの間にか、親戚一同は、まるで僕の両親なんか初めから存在しなかったかのように、一切、僕の両親の話題を出すことをやめた。僕の両親は、彼らにとってただの噂話の種でしかなく、最初から最後まで、その程度の存在だったのだろう。要は、娯楽の一種だ。そんな二人の息子であった僕も、彼らにとってみれば見る価値もない、話のネタ程度の子供だったに違いない。
こんなわけで、僕に両親の記憶はない。やはり、僕のことを不幸だと思うだろうか。
しかし僕には、たった一人だけ、僕のためにすべてに向かって立ち向かってくれるような、祖母の存在があったのだ。祖母は、僕の背負った不幸を共に背負い、僕を一心に守ってくれた。祖母は、僕にとってただ一人の家族で、ただ一人の信頼できる人で、ただ一人の、愛する人だった。くだらないとすら思えない僕の人生の中で、彼女は唯一の、僕の生きる意味だった。
世間から見れば、祖母も憐れな人だったのだろう。若くに家のために嫁いだものの、嫁ぎ先の商売はたちまち傾き倒産した。そのせいで、常に機嫌の悪く酒を絶やさない夫には毎日のように暴力を振るわれていた。数年の後、夫との間にできたただ一人の子供を守るため、子供を連れて身一つで夫の元を離れるも、その子供、つまり僕の母も、例の事故で祖母を残し若くして先に逝ってしまった。
僕の目線で見てすら、こんなにも救われない物語が世の中にあるだろうかと思う。気が付いてみれば、祖母のもとに残ったのは、まだ二歳になる僕という、母の置き土産ただ一つだった。
祖母といえど、弱冠四十で孫を持った彼女は、周囲の「祖母」よりもやはり数段若く、顔つきには苦労の跡が滲むものの、周りからは依然「少し年配の母」に見えていたようだ。時折「シングルマザーは大変ですね」と、周囲からは要らぬ同情の声が挙げられていた。
こんな祖母と僕との間の、一番最初で一番大切な約束は、祖母を「おばあちゃん」と呼ばないことだった。僕は、祖母を下の名前で呼び捨てていた。それは、祖母が謳歌することを許されなかった青春の日々や若かりし頃の自由を、少しでも取り戻すための「悪あがき」だった。この約束を決めたばかりの頃には、祖母も名前を呼ばれる度に「少女時代に戻ったみたいだ」、とにこにことしていたし、いつの間にかそれは「当然」になってしまっていたが、それからも僕はそのまま祖母を下の名前で呼び続けていた。
〇
3月中旬から下旬に移ろう頃、かなり早咲きの桜が一斉に咲いたある年の、ある日のことだった。このまま永遠に共に生きていくのだろうとすら感じていた祖母が、住んでいるアパートの庭に差し掛かる桜の枝から溢れる花吹雪の中で、なんとも言えぬ微笑みを浮かべていた。
「あぁ、とてもいい人生だった。幸せだった。」
古ぼけたボロアパートの小さな縁側に座る祖母は、静かにそう言って、目を瞑った。それ以降、その瞼が開かれることはもう二度となかった。
全てが嘘みたいな僕の人生の中の、ただ一つ、真っ赤な本当だった。僕は、ちょうど二十歳になった直後だった。
〇
あまりにも突然で、と、言うのは簡単だが、その時僕はとにかく唖然としたのだ。それは、ずっと見入っていた真っ白なキャンバスが、目の前で突然真っ黒になってしまったかのようだった。驚きだった。呪いのようだった。僕の人生は生まれながらにして呪われているに違いない。―――きっと僕らの祖先はよほど何か悪いことをしたんだ、だから生き続ける限り災いが降り注ぐんだ―――。祖母を失い、生きる価値を失い、もはや僕には何も残されていないかのように思えた。しかしそんな状況でも、死ぬことだけは、やたらと恐ろしいと思えた。
それから僕は、死なないために生き始めた。両親が残してくれた僅かばかりの遺産と祖母が必死に働いて稼いでくれたお金で行かせてくれた大学は、祖母が死んだ三日後に辞めた。僕にとって学ぶ意味は、いつか祖母を助けるためであり、祖母亡きあと、学ぶ理由がなくなってしまったからだ。ただ飯を食らい、寝て、起きて、また飯を食らう生活の始まり。そしてその生活を続けるための日雇いの、食い繋ぎのアルバイト。ただその繰り返しの日々。
毎日、チープなロボットにもできそうな単純作業の仕事をこなし、口からはお決まりの定型文しか出さず、ただただ無心に、死んだように生きる日々の始まりだ。
こんなに抜け殻のようになりながら、どうして生きているんだろう。生きている価値を見出せないのに、どうして死ぬことは恐ろしいんだろう。
あと一歩、たったあと一歩だけ踏み出してしまえば、ここから身を投げ出せば、この無色の世界から解放される。この苦しい生を捨てることができる―――。
―――でも、いなくなるのが怖いんだ。
自分が灰になって、この世界から消えてしまうのが怖いんだ。
―――もう既に、誰も僕の両親を思い出さない。祖母のことも、きっとみんな、すぐ忘れてしまう。僕なんて、僕の両親よりも、祖母よりも、もっと早く、忘れ去られるに違いない。この世界に、僕がいた証が何もなくなってしまうのが恐ろしいんだ。忘れ去られたら、僕がこの世界で二十年感じていた苦しみに意味がなくなってしまう。無駄な苦しみだったと思いたくない。僕が確かに祖母に感じてたこの感情も、祖母が僕を愛してくれていた事実も、全部なかったことになってしまう。きっとそれが恐ろしいんだ。
―――でも、この生に、生きている価値が見いだせない。この僕の苦しみは何のために?
―――僕はきっと、この世界にただ一つでも、僕がいたという証を残すことができない。こんなに、こんなに寂しくて、こんなに、―――
「…苦しいのに。」
日々の連続の中、陰鬱とした気分で、同じことを考え、同じことを憂い、思考は堂々巡りを繰り返し、この自分の馬鹿げた人生について考えながらも、生に価値を見出すことも、死ぬことすらもできず。ただ時間は、そんなことにも気づかずぼんやりと、しかしあっという間に流れていった。
春の風が、いつもよりも強く感じられた。気がつくと、桜の花びらは殆どが枝から離れ、地面に積み重なっていた。
〇
「…とまぁ、これが僕だよ。僕が生まれてからの、歴史。」
「ふーん…。」
例の食い繋ぎのアルバイトの帰り、大雨の中、ぼーっと歩いていると、まるでマンガか何かのように、僕はぶつかってしまった。そう、この、今、僕の目の前にいる女の子に。
「それが、あんたがまるで『世の中の不幸はすべて僕が引き受けてます』って言いたいような顔してる理由?」雨から逃れるために駆け込んだ公園の、ドーム型の遊具の中で、少女は軽く首をかしげる。「…僕、そんな顔してるかな?」
「してるしてる。尋常じゃないくらいしてる。でも一つ言っていい? あたしにぶつかったあんたは少し濡れただけで済んでるけど、あんたにぶつかったあたしは見事にすっころんで、制服泥だらけだし、今日に関していうならあたしの方が不幸じゃん?」
「それは…なんというか、ごめんね。クリーニング代くらいだそうか?」悪気はなかったとはいえ、思い切りぶつかった上、いくら僕が痩せ型だといえど、男女の体格差のせいで彼女を転ばせてしまった。きちんと詫びを入れるのがいい男、のような気がした。
「それは別にいい。そういうの好きじゃないし。ぶつかったのはどっちもぼーっとしてたわけだからお互いさまだし、転んだのはたまたまついてなかっただけだから。あ、いや、たまたま今日『不幸』だっただけだから。ま、このジュースはありがたくいただくけどー?」
不思議な子だ、と思った。距離感を感じさせず、昔なじみのような、なんでも話せてしまうような気さえしてしまう。というよりも、いつの間にかなんでも話してしまっていた。
「で? あんた、どうしたいの?」
「え?」
全く考えてもみないことだった。『どうもしたくない』という感情に支配されていたから、何をしたいかなんて疑問にすら思わなかった。
「生きる目的がない、でも死ぬのは怖い。じゃあ生きるしかないじゃん。」
「でも、生きる目的が――」
「目的なんて、後からついてくるんだよ。」
被せ気味に言われた。
「だって、おばあちゃん、最期に『幸せだった』って言ったんでしょ? あんたが『不幸な物語』の主要な人物として語ってるそのおばあちゃんは、『幸せだった』って言ったんだよ?」
「…僕には『幸せだった』って言った、その気持ちはわからないよ。僕が祖母だったとして、最期にそう言えるとは思えない。」
「じゃあ、最期に幸せだったって言えるまで、おばあちゃんと同じ目線に立てるまで、生き続ければいいんじゃないの?
甘ったれてんなよ。二十年そこらの人生しか生きてないやつが、なんで自分の三倍も生きた人の気持ちがわかると思うわけ? 甘ったれてんじゃないよ。」
急に年寄り臭いこと言う。でも、そうかもしれない。
「あのね、まず私、いま幸せなの。全て満ち足りた幸せじゃないけど、幸せを感じられてる。でも、あんたさ、私よりも確実に不幸だって言える? もしかしたら、私、あんた以上にすっごい不幸と戦って生きてるかもよ? それで幸せを勝ち取ったのかもよ?」
「…そんなこと」
そこまで言いかけてやめた。確かに、僕はこの少女の人生を知らない。
「結局さ、人間なんて、血がつながってようが一生の愛を誓おうが、他人は他人なの。私は私、あなたはあなた。相手のことを完璧に理解するなんて未来永劫絶対無理。でもさ、同じようなものを見て、同じようなことを考えて、同じような時を過ごして、同じようなもの食べたり同じような歌を歌ったりとか、そんなんでもいい、そしたらなんとなくでも理解できるようになるんじゃないの? あんたがそんなにおばあちゃんのことを大事に思ってるんだったら、まずおばあちゃんと同じようにきちんと生きてみるべきなんじゃないの? それを目的にしたっていいんじゃないの?」
気が付くと、雨は弱まり、雲の隙間からは多少の晴れ間がのぞいていた。
「帰ろっか? もし縁があれば、きっとまたこのあたりで会えるよ。その時は、クリーニング代請求するかもだけど。」
彼女は肩を震わせていたずらに笑った。
○
彼女と別れた後、雨の上がった道を歩きながら、先ほどまでの話を反芻していた。
不思議な少女だったな。自分よりも年下だけど、彼女の言っていることはだいたい的を射ていたと思う。
彼女の言うとおりだとすると、「生きるために生きる」、というのも、生きる理由になるのかもしれない。祖母が「幸せだった」と言ったその理由を知るために、祖母と同じ土俵に立てるまで生きるために、生きる。
そんな理由も、許されるのなら…―――
〇
―――あと、四十回くらいは、桜の花を見ようか。祖母が見たのと同じ回数だけ、桜の花が見られるように。そして四十一回目の桜の花が咲くころ、静かに旅立っていければいいと思う。
きっとその年は、例年よりもかなり早く桜が咲き始めるに違いない。
きっとその年は、あたたかな光の中、桜の花が一斉に咲き乱れるだろう。
きっとその年は、とても強い春風で、桜の花びらはみな、舞い上げられるだろう。
その時が来るまで、僕は僕に与えられたこの不幸な生を全うしようと、今はそう思える。
残りの人生の中で、もしかしたら、僕も誰かを異性として愛するかもしれない。もしかしたら、こんな僕にも子供ができるかもしれない。
もし結婚して、もし子供ができて、もしその子が女の子だったら、そんなことが万が一にも起こるのならば、その子には「愛」と名付けよう。僕は、これ以上ないくらいの愛をこめて、その名を呼ぼう。そう、祖母の名を呼んでいたのと、まったく同じように。
そして、そこが天国か地獄かも、それが真実か嘘かもわからないが、あの世で会うはずの祖母に伝えるのだ。
「とてもいい人生だった」、と。
fin.
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