第8話 プロデューサーの本拠地
宮ちゃんに促されるまま、俺は突如出現した扉の内側に入った。
そこには、『アイドルセイヴァー』のホーム画面である、『セイヴァープロダクション』の事務室が広がっていた。
俺と宮ちゃんが使っているという設定のデスクに、衝立で仕切られてソファーとテーブルが並べられた簡素な応接間。給湯器や、アイドルたちと面談するためのテーブル、テレビに観葉植物、『初代アイドルセイヴァー』のトロフィーも置かれている。相合傘の落書きまで残っていた。
間違いない。ここは『セイヴァープロダクション』の事務室だ。幾万回も見てきたのだから断言できる。
でもどうして? なぜ急にプロダクションの事務室が俺の目の前に現れたんだ?
デスク後ろの窓に近づき、ブラインド越しに外の様子を伺ってみると、先ほどまでいた薄暗いサエペースの通りが見えた。
偶然通りがかった人が小走りに通りを駆け抜けていくが、こちらに気づいたそぶりはない。
先ほどの俺のときのように、突然目の前に謎の扉が出現すれば普通はこちらに気づくはず。それに事務室内は通りと違って蛍光灯でこれでもかというくらい照らされている。窓から漏れ出ている光もあるはずだ。こちらをまったく見向きもしないのは不自然だ。
となると、外からではこちらが見えない、隔離された空間になっているのだろうか。
元の世界では考えられないことだが、異世界ならそれを可能にする要素がある。
「魔法なのか? この事務所は……」
通りの何もない空間に突如扉が出現して、宮ちゃんはその扉の内側から俺を呼び掛けていた。
そうするとこの事務所自体が、内側から扉を開けないかぎり不可視の領域になっているのかもしれない。
もしくは、何もない場所に突然現れたんだから召喚のほうが近いのだろうか。
「考えてもわからん。原理はこっちの世界の詳しい人に聞くことにして、今はこの事務所だ。宮ちゃん」
「はい、なんでしょうか、プロデューサー」
「くぅ……! プロデューサーの響きがこうも心を打つものだったなんて! そうだ、この感じだ! プロデューサー! プロデューサー・イセの姿になってるのになんか物足りないと思ってたけど、その正体はこれだったんだ! 女の子にプロデューサーと呼ばれること、それがないとやっぱり『アイドルセイヴァー』をやってる気になれないな!」
俺が嬉しさで身もだえていると、宮ちゃんが不安そうに眉根を寄せた。
「プロデューサー、どうかしましたか?」
「あ、いや、ごめん。はしゃぎ過ぎたみたいだ……って、今のは放置ボイスか」
ゲーム内で何も操作せずにいることで流れる放置ボイスに、ついつい本気で返してしまった。だってそれだけ嬉しかったんだもん。
だがいつまでも感激しているわけにはいかない。
この異世界ではゲームと違って生活をしていかなければならないのだ。
野垂れ死にたくないのなら、事務所の機能がどれだけ使えるのかを早急に確認しておく必要がある。
「宮ちゃん、事務所に所属するアイドルの名簿を見せてくれる?」
NPCの宮ちゃんがいたのだ。俺の育てたアイドルたちもきっと俺が来るのを待ってくれているに違いない。
そう思ったのだが……、
「すみません、プロデューサーさん。わたしたちの事務所にはまだアイドルはいません」
「…………え? 嘘? 俺はコンプしたはずだぞ。だってほら『初代アイドルセイヴァー』のトロフィーだってある。アイドルがいないのにどうやってライブ大会を勝ち抜いたの!?」
「そう言われましても、プロダクションにアイドルは一人もいません……」
宮ちゃんに頭を軽く下げられ、悲しさをにじませながら応対されてしまった。
「…………そっか。いないのか……」
どうやらアイドルたちは事務所には入っていないらしい。
悲しいという気持ちでは言い表せないくらいだ。体の半分が欠落したような倦怠感とともに、椅子に深くもたれかかった。
宮ちゃんはゲーム開始直後から事務所にいるキャラクターだから、きっとこの事務所にもいてくれたのだろう。
しかし、俺が育ててきたアイドルたちは、スカウトやイベントなどで契約する子たちだ。そのせいで事務所の所属ではないと、切り離されてしまったのかもしれない。
もしかしたらアイドルたちを自分のものだと俺が心から願えば現れたのかもしれないが……もうすでにいないものだと認識してしまった以上、彼女たちには会えなさそうだ。
魂が抜け出たかのように胸の奥にぽっかりと穴が開いてしまったような感覚が、体を支配していたが、俺はどうにか気分を切り替えるように頭を振った。
「異世界は無理でも、本物の『アイドルセイヴァー』のデータは残ってるはずだ。きっと元の世界の戻ることができればまた会える。大丈夫なはず。大丈夫だよな……?」
ゴミ収集車のタンクに放り込まれたところまでは覚えているが、ゲームが無事なのかまでは覚えていない。だが今はゲーム機がデータとともに残っていると信じるしかない。
「それじゃあ宮ちゃん、コ、コーチはいる? コーチのところへ案内してくれる?」
「はい。わかりました。こちらですよ」
宮ちゃんが部屋の隅にある扉の前へと移動する。俺が入ってきた扉とは反対側にある扉だ。『アイドルセイヴァー』のゲーム内でも入り口とは反対側に、レッスンスタジオに続く廊下への扉があった。
よかった。アイドルにレッスンをつけてくれるコーチのNPCもこの事務所にいるらしい。
しかし、コーチたちも『アイドルセイヴァー』のシステムでは雇い入れたキャラクターたちに分類される。アイドルたちと所属契約上は同じはずだが……いや、そうか。アイドルたちにはケガや自主退職や解雇などで事務所を辞めていくイベントが発生することがある。その関連もあって、アイドルはいないがコーチは残っているのかもしれない。
アイドルたちがいないことに関しても推測の域は出ない。もう少しこの事務所のことがわかってからまた考えよう。
今は、コーチたちだ。彼女たちとも苦楽を共にした仲。NPCとはいえ、ちゃんと挨拶をして存在を確かにいくことにしよう。
『アイドルセイヴァー』には、レッスンという項目がある。
リアルのアイドルもそうであるように、仮想世界のアイドルたちもまたレッスンをして、ステータスを向上させていた。
ステータスを向上させると、歌、ダンス、芝居や、ライブなどの複合的な要素を含むパフォーマンスで失敗をしにくくなったり、反対に発表の場で優秀だと認められることがあったり、パフォーマンスの成功判定を有利にするスキルを思いつくこともある。
レッスンとライブを繰り返し、目指すはトップアイドルの頂点。『アイドルセイヴァー』ライブで事務所のアイドルが大成功を収めることが『アイドルセイヴァー』におけるプレイヤーの最終目標となっている。
もちろんネットを使えばライブ大会へも出場でき、優勝すれば『アイドルセイヴァー』という称号を手に入れられるが、それはあくまでゲーム内で『アイドルセイヴァー』ライブを成功させたあとの、追加要素である。ネット大会は本気で勝つためにゲームをやっているプレイヤー専用の要素であるため、最終目標自体はネットワークなしの『アイドルセイヴァー』のゲーム内だけで完結するようになっている。
ただ、この『アイドルセイヴァー』ライブというのもかなり難易度が高く、ライブをクリアしてエンディングを迎えるためには、アイドルたちを徹底的に育て上げる必要がある。各分野に秀でており、発表の場で高得点をマークできるアイドルにしなければならないのだ。
そのためにはレッスンを受けてステータスを上げたり、スキルを習得することが必須となってくる。
そして、アイドルたちがそのレッスンを受けるのがレッスンスタジオだ。
摺りガラスの扉を開け、一つのレッスンスタジオに入る。
一面がガラス張りになった100人は入れそうな大きさの部屋。この開放感たっぷりの部屋が『セイヴァープロダクション』のダンススタジオになる。
VRで見たことはあったが、直接目で見るとやはり広い。ゲーム内通貨を使って最大拡張したので、当然といえば当然なのだが、所属アイドルたちがここで雑魚寝をしてもスペースが余るような気がする。
これだけの広さの部屋を置くようなスペースはサエペースの街中にはなかったはずだが、しっかりと出てきているところを見ると、この事務所自体が外の空間と切り離されて存在しているのかもしれない。
これも魔法の力なのだろうか。魔法って万能だなぁ。
「──こんばんは、プロデューサー」
俺が入り口でダンススタジオの内装を確認していると、二人のコーチNPCが近くまでやってきた。
「レッスンを受ける子たちはまだかしら」
短く切りそろえられた髪と、健康的に日焼けした肌。Tシャツにジャージを穿いている女性は、ダンスレッスン担当の踊場燈子(おどりばとうこ)さん。
「いい加減に連れてきてくれないと、あたしたちの感性も鈍っちまうよ」
ボンバドールのヘアスタイルと、巨大なヘッドホンにジャケットとジーンズ姿の女性は、ボイスレッスン担当の六供奏(ろっくかなで)・通称かなやん。
二人とも、セイヴァー事務所のコーチたちで、ゲーム初期から事務所に所属している。
『アイドルセイヴァー』にはコーチのNPCにも熟練度という成長要素が組み込まれており、プレイヤーとの親密度やアイドルを指導した回数、ゲーム内通貨で講習などを受けさせると能力が向上し、アイドルのステータスを効率よく上昇させたり、スキルの発現を手伝ったり、同時にレッスンを受けるアイドルの人数を増加させたりできる。
当然彼女たちの熟練度もMAXにしていたが、事務所にアイドルはいなくなってしまった今、彼女たちの熟練度はどうなっているんだろう。
「こんばんは、燈子さんにかなやん。ちょっと確認したいんだけど、二人とも同時に何人の子のレッスンを受けもてる?」
ちなみに初期値だとダンスレッスンは最高で3人、ボイストレーニングは1人のみである。
「このスタジオに入るくらいの人数なら問題ないわよ」
「あたしもだな。ユニットが分かれてると少ししんどいけど、同じユニットの奴らでここに入るくらいの人数なら問題ねえ!」
ということは、二人とも熟練度はMAXなんだろう。熟練度の引継ぎは行われている。
あとは所属している講師の人数を調べておくか。
「宮ちゃん、源三郎さんは道場?」
「はい。今も一人でご自身の技を磨いておられますよ」
「服飾や礼儀作法、料理の先生たちも、すぐにでもアイドルが入っても大丈夫だって?」
「はい。みなさん、首を長くしてプロダクションにアイドルが来るのをお待ちしています。あ、もちろん警備の方々もです」
なるほどなるほど、つまりこの事務所の設備はあらかた解放されており、講師陣は全員熟練度MAXで常駐しているようだ。
「ありがとう、宮ちゃん。ちょっと確認したいことがあるから、あとで所属しているコーチのデータを持ってきてくれる?」
「わかりましたっ!」
「それと、燈子さんにかなやん。手持無沙汰にしちゃって申し訳ないけど、もうすぐアイドルを連れてくる予定だから、それまでは最善のレッスンプログラムを組んでいてくれると助かるよ」
「わかったわ、よろしくね」
「早くしてくれよなー、プロデューサー」
二人にはこう言ったが、現状アイドルを事務所に連れてくる予定はない。そもそもこの世界にアイドルになりたい子はおろか、アイドルという職業すらないだろうからな。
「あ、そうだ。ついでに訊いておくか。三人ともちょっといい?」
「なんですか?」
「給料の相談かしら?」
「あたしは好きなことやらせてもらってればそれでいいけどなー」
「三人ともこの異世界についてどう思ってる?」
「……え?」
俺の問いかけに宮ちゃん、燈子さん、かなやんが同時に首を傾げた。
「何かのゲームの話ですか?」
「ファンタジー系の作品に出る子がいるってこと?」
「ミュージカルでもやるの?」
なるほどな、三人の反応を見てよくわかった。
どうやら、NPCたちは今いるこの世界が異世界だと認識していないようだ。
まあ『アイドルセイヴァー』は一応現代が舞台になっているゲームなので、当然と言えば当然だ。
この点について少し留意しておこう。
ダンスや歌のレッスンは大丈夫だが、食材などはこれから異世界のものを使うことになるだろう。
料理のスキルを磨くための講師もいるので、そのときにうまく伝える必要がある。
今はこうして俺の周りにいてくれているが、何かがきっかけで消滅しないとも限らない。
それが異世界を強く感じさせる言葉だという可能性だってある。
極力彼女たちの常識から外れた異世界の情報を与えないようにしておこう。
「作風が異世界の楽曲が来たときにどうやってアイドルを指導するのか、ちょっと気になっただけだ。それじゃあ、アイドルの件は進めておくから、二人もちゃんと指導力を磨いておいてくれよ」
二人に別れを告げて、俺はスタジオを後にした。
廊下を歩き、再び事務室へと戻ってくると俺は自分のデスクについた。
はぁ、やっぱりここが落ち着くなぁ……。
VRのときは触覚がなかったから気づかなかったが、このイス、かなり座り心地がいい。まあ、事務室内の設備もゲーム内通貨でバージョンアップしたから、かなりいいものが置かれていて、俺はそのすべてを自由に使用できる。水道なんかのインフラは異世界にはつながってないから見かけだけかもしれないが、それを除いても快適な家具だらけの部屋だ。ゆったりくつろぎスペース。なんならこのまま眠ってしまえるほど心地よい。ああ、本当に素晴らしい。プロデューサー万歳だ。
「プロデューサーさん、お茶です」
「ありがとう、宮ちゃん」
受け取った湯呑みからお茶をすする。
はぁーあったかい。やっぱり日本茶は落ち着くなぁ……。
「って、日本茶!? 宮ちゃん……!」
「な、なんですか……!? はっ!? もしかして緑茶のほうがよかったですか!? それとも、お冷でしたか!?」
「い、いや、そうじゃなくて……このお茶はどうしたの?」
「え? 普通に淹れましたけど? 飲み水を給湯器でお湯を沸かして、お茶の葉を入れて」
「水があるの、この事務所……!?」
「あるに決まってるじゃないですか……どうしてそんなことを聞くんですか?」
心底不思議そうに返された。
あれ? 俺の言ってることが間違っているのか? てっきりこの場所は魔法でできた仮初のものだから、設備の中には見かけだけで何も使えないと思ってたんだが……。
それになんだか、宮ちゃんの反応も流暢じゃなかったか? 普通の人間と話しているときと反応が変わらないように思えた。
一応『アイドルセイヴァー』にはNPC一人につき、10000種類以上のボイスを収録したと謳われていたが、それにしたって、驚きの反応からお茶の淹れ方、常識の諭し方までボイスの繋ぎがうますぎる気がする。
こちらの世界に来たことで、NPCにも何かしら変化があったのだろうか。
NPCの反応についてはおいおい確かめてみよう。それよりも設備の確認を先に済ませておきたい。
水が出て、お茶の葉があって、お茶が淹れられるということはその設備が生きていることになる。
ウォーターサーバーの口をひねると確かに水が出た。
蛇口をひねっても同じだった。水が出てきた。
照明のボタンを押すと部屋の電気が消えた。
設備が生きている。
「それじゃあ、こいつはどうだ?」
テレビをつけてみる。
結果は……。
「おかしいです、何も映りませんね」
宮ちゃんの言った通り、砂嵐のようの灰色の画面が広がり、ざーっという耳障りな音がするだけだった。
電波を入れるタイプのものはだめらしい。ということは、事務所にあるパソコンもネットにはつながらないのだろう。
いくつかチャンネルを切り替えてみるがダメ。画面が切り替わったことはチャンネルの表示が出るためわかるが、相変わらず液晶には砂嵐が映されている。
テレビでこの世界の情報を取得することはできないらしい。
想定内だが、ちょっとショックだ。せっかく現代っぽいものがある部屋に来たっていうのに。
チャンネルをいじり、最後の100チャンネル目を映す。
やはり画面には砂嵐だけだった。音声もざーっという耳障りな音が流れてくるだけだった。
俺はテレビの電源を落としてデスクへと戻った。
パソコンをつけてみると案の定、デスクトップの画面は表示されるが、ネットワークには繋がっていないようだ。
パソコンのフォルダには事務所に所属するNPCのプロフィールや数々の大会の表彰状のコピーなどが入っていた。
アイドルに関連する資料はすべて消失してしまっているらしい。俺の心のオアシスは完全に干上がってしまったようだ。ああ、くそ、仮初だとわかっていても、手塩にかけて育てたアイドルすべてがいなくなるというのは泣けてくる。
唇を噛みながらフォルダをさらに漁っていくと、そのファイルを見つけた。
「アイテム帳簿……。アイテム…………もしかして!」
試しに開いてみると、そこには俺が『アイドルセイヴァー』をプレイして手に入れたアイテムの数々が記されていた。
そして嬉しいことに残個数まで記されている。ということは、
「宮ちゃん、このアイテムって……」
「アイテムの引き出しですか? はい、倉庫に保管されていますよ。どのアイテムをいくつ引き出しますか?」
宮ちゃんがナビゲーションしてくれる。
どうやらアイテムはあるらしい。
まあ、パソコンのスペックを上げるアイテムなどは事務所内ならともかく、外の世界に持ち出しても意味をなさないだろうが、傷薬や食料系のアイテムは充分効果が期待できる。
モンスターがうろついているような世界だ。傷を治すアイテムは手持ちに持っておいたほうがいい。この事務所にも次はいつ帰ってこられるかはわからないしな。
「光包帯を10個とパーティーケーキを1つお願いするよ」
「わかましたー!」
宮ちゃんは元気よく返事をすると部屋の奥へ引っ込んでいった。
時間がかかるものかと思っていたが、宮ちゃんはすぐさま戻ってきた。時間にすると20秒もかかっていない。アイテムを倉庫から取り出すだけなので時間なんてかかりようはないものだが、それはあくまでゲーム内の処理の問題だ。実際に人が取りに行くとどのくらいかかるものかと思っていたが、現実となってもすんなり取り出せるようだ。
俺の目の前に金色の包帯が置かれる。
「こちらが光包帯です。効果の説明を必要ですか?」
「それじゃあお願いしようかな」
アイテムのヘルプ説明は、ナビゲーションを担当するNPCの宮ちゃんの役目の一つだ。
「光包帯はケガをした方の治療に使用するアイテムです。どんな外傷もたちどころに塞がります。でも治せない病気もありますから注意してください」
「治せない病気って?」
「それは──恋の病です! そう……乙女が必ずかかってしまう不治の病、こちらは光包帯でも治療できませんので注意してください!」
「あ、うん。わかった」
熱を帯びて語る宮ちゃんに素っ気ない言葉を返しておく。
どうやら、特定のアイテムを取り出す際に入る口上は変わっていないらしい。
俺の反応に対して、ゲームのときにはなかった若干ジト目で睨んできているような反応をしている気もするが、気のせいだろう。
光包帯はスーツのポケットに入れておいた。
「次はケーキだったな」
「パーティーケーキのご説明を必要ですか?」
「お願いするよ」
「パーティーケーキはみんなで食べる大きめのホールケーキです。食材にもこだわったケーキで、頑張ったご褒美にプレゼントすると、アイドルたちとの距離がもっと縮まると思いますよ。あとそれと……もしよろしければわたしにも食べさせてほしいなぁ、なんて思ったり思ってなかったりしてます」
「そっか。それじゃあ、このケーキは宮ちゃんにあげるよ」
「ほ、本当ですか……!?」
「うん。宮ちゃんはいつも頑張ってるからね。たんとお食べ」
「わーい! プロデューサーさん、ありがとうございます!」
宮ちゃんはすぐさまソファーへと移動すると小皿とナイフとフォークを取ってきて、ケーキを小分けにして食べ始めた。
「あまーい、極限の幸せー!」
ケーキを頬張るごとに「むふふっ!」と幸せそうなうなり声を出して目をきらきらさせている。
好感度アイテムを使用した際の反応も、若干オーバーアクションになっているもののゲームのときと大差ないようだ。
なんとなくこの事務所内にあるものの、何がゲームのままで、何がゲームと違うのかはわかってきた気がする。
アイドルに関連するもの、例えばアイドル本人や、アイドルたちが身につけていたもの、アイドルたちの部屋などはすべて削除されてしまっている。テレビの電波やネットなど、この世界にないものも消失している。
残っているものは、プロデューサー・イセのステータスや装備品やアイテム、そして事務所にいるNPCは熟練度やスキルがそのまま。事務所のテレビ以外の設備、水を使うものなど、この世界にもあるものを使用している設備はそのまま使えるようだ。
事務所で速めに確認しておきたいことは済んだ。次はプロデューサー・イセの能力がどこまで使えるかを調べておこう。
街でも使用したが【マルチリンガル】などのプロデューサー・イセのスキルが一部生きていることはわかっている。
あとはどこまで生きているかだ。
プロデューサー・イセには様々なスキルがある。その中の一つに、常時名刺が取り出せるといったものがある。
これはアイドルやレッスンを担当するNPCやライブをする際の関係者との交渉の際にしようするものだ。
VRゲームならアイコンをクリックすれば手元に出現する仕組みだが、果たしてこちらの世界ではどのようになるのか。
「名刺作成」
頭で念じながらそうつぶやいてみる。
両手を重ね、そしてすぐに離してみると、何もなかったはずの手のひらに一枚の白い紙が置かれていた。
紙には日本語でこう書かれている。
『株式会社アイドルセイヴァープロダクション プロデューサー イセ』
特別なデザインもない、なんとも簡素な名刺だった。
本当に所属と名前しか書いていない。
連絡先がないのは……ああそうか、事務所は住所不明だし、電話やメールも存在しないからか。
名前だけでは名刺の意味がないといえばそうだが、一応名前を伝えることはできるだろう。
この名刺の作成ももしかして魔法に分類されているのだろうか。だとしたら、俺も魔法を使えたということになる。
やったー、魔法が使えたぞー、紙切れを一枚作成するだけのしょぼい魔法だけどな!
「あ、でも……そうか。名刺でいいならもしかして……」
思いつきで、俺はもう一度名刺の作成を念じた。
声を出さずに作成できるかの確認も兼ねてだが、両手を開くとそこには名刺がきちんと作成されていた。
声を出さずに成功したのは嬉しい。それに、作成したこの名刺は……。
「うわぁ、すごい名刺ですね。金ピカです!」
宮ちゃんが小分けのケーキが載った皿を持ちながらこちらへやってきた。
そう、宮ちゃんが言った通り、名刺の材質を変えてみたのだ。
『アイドルセイヴァー』には純金の名刺というアイテムがある。
お金が好きなアイドルをスカウトするときや、知名度の高い会場を貸し切る際の交渉に使用することで、交渉の成功率に補正が乗り、交渉を成立させやすくするというアイテムだ。
といっても、純金の名刺は作成に多大なお金と素材集めという労力がかかるためおいそれと使えるアイテムではない。
ちなみに俺が作成したこの名刺は見た目だけなら金色だが、ちょっと爪で引っ掻くだけで鉄の鈍色が出てきてしまう偽物だ。純金の名刺は特別なアイテムとして分けられていたので、俺の魔法では作ることができないのだろう。
だが、実験自体は成功だ。
この名刺の作成魔法は、紙のみならず他の材質の名刺を作成することができるようだ。
鉄製ならば今日のようにモンスターに出くわした際に手裏剣のように投げて牽制することもできるだろう。
「作成できるのは名刺だけなのか? それとも他のものもできるのか?」
『アイドルセイヴァー』で個数が無限扱いされていたものなら作成できる気がする。
他にも実験して色々試してみるとしよう。
『アイドルセイヴァー』でもそうだったが、知っているのと知らないとでは攻略に大きな差が生まれる。
プロデューサーならすべての機能を知っておく必要があるのだ。
「ふふふ、意外と楽しくなってきたな。これで異世界にもアイドルがいれば最高なのになぁ」
俺は夜更けまでプロデューサー・イセの能力を試していた。
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