4 物言わぬ者の声

 青子は目の前に座る女の反応をじっと待っていた。頬杖をつくその女が真剣な眼差しを向けるのは、テーブルの上に置かれた一枚の長方形。一言も発することのなかった女が、視線を青子へと移して一言こう述べた。


「いいんじゃない」


 その言葉は、世間一般に言われるところの上出来を意味する。青子はほっと胸を撫で下ろした。

 腰まで伸びた黒い髪はクセのないストレートで、背筋は物差しが背中に入っているかのようにピンと伸びている。キリッと角度のついた眉は凛々しく、赤色のリップが形の良い唇を彩る。いかにも「仕事デキます」といったその女は、とりわけ青子の面倒を見てくれている事務所の先輩だ。

 面倒見の良いこの先輩はとにかく思ったことを思ったままに伝える性質なので、ダメ出しの厳しい言葉がグサグサと飛んでくることもしばしばだ。

 青子なりに良い一枚が撮れたと満足していただけに、先輩の感想を聞くまでは紅茶の一口目を飲むので精一杯だった。

 先輩の評価は、どうやら花丸。テーブルで待ちぼうけを食らっていたパンケーキもようやく喉を通りそうだ。


「ところでさ、まだ食べないの?」

「あっ、いだたきます」


 先輩にも急かされてしまい、青子は慌ててパンケーキを一口分切り分ける。その様子を見届けて、先輩も紅茶に手を伸ばした。

 二人が今日のように女子会をする時は、決まってこの店を利用した。昼間は英国紅茶店として、夜になるとブリティッシュパブとして賑わう。落ち着いた時間をアフタヌーンティーとともに過ごすのも、疲れた体にビールを流し込むのも、青子はどちらも好きだった。

 この店を青子に紹介したのは他でもない先輩だ。初めてブリティッシュパブの方へと連れて行かれたときは、飛び交う英語に緊張して、両手の汗がすごかったことを青子は覚えている。先輩はというと、カメラ片手に海外へ飛ぶことが多いためか手振り身振りで外国人と話すこともやぶさかではないらしい。

 最近では、海外の写真を持ち出して盛り上がる先輩の横で、ビールを飲んで落ち着けるくらいにまで青子も成長した。青子もいつか一緒にと思ってはいるけれど、先輩と一緒に外国人と盛り上がる日はまだ当分先だろう。


「写真の話に戻るけどいい?」

「はい。どうぞ、お願いします」


 先輩に話しかけられ、青子はパンケーキを食べる手を止めた。そういえば「いいんじゃない」という感想を聞いて満足してしまっていたが、それで話し足りる先輩ではなかった。


「被写体を強調させすぎず、あえて背景と馴染ませる写真にしたのね。だけど、決して背景に同化しているわけじゃない。その存在は、確かに際立っている。この見極めはなかなか難しかったんじゃないの? それから、現在という時間の流れの中に身を置く過去の存在感。置き去りにされたという寂しさとか孤独感、そういったものは感じられない。むしろ過去からやっとこの時間に追いついて、その場所でようやく落ち着いた。まるでこの時間を待っていたみたい。青子、あんた本当に良い一枚を撮ったわ」


 先輩はそこまで一呼吸で話し終えた。まさにマシンガンの勢いで青子は圧倒されたが、もっと圧倒されたのはその内容だった。ここまで褒め倒されたのは、先輩と出会ってから初めてのことだった。

 青子は体温が上昇していくのがわかるほどに高揚感を覚えた。勢いよく席から立ち上がり、「ありがとうございます」と深々頭を下げた青子の声は上ずっていた。先輩自身もそこまで誰かを褒めたことがなかったのか、青子からのお礼の言葉が気恥ずかしかったのか。「あくまで私の主観なんだけどね」と照れを隠すかのように一言そう付け加えた。


「私さ、アンティークとか詳しくないんだけど。この机からは風格ってのを感じるわ。格式高そうっていうか、実は昔の凄い人が使ってたりしそうなんだけど。どうよ、合ってる?」

「どうでしょうか。あのライティングビューローについてだけは、店のオーナーからこれといって話を伺っていないので何とも」

「それ、ライティング……なんだっけ。机でいいんじゃないの?」

「駄目です! そこだけは譲れません!」


 それから二人は、あの日の骨董店での話や青子が調べたライティンビューローについて何たるかで盛り上がった。ただし、引き出しの中の手紙の話だけは、青子の胸の裡に秘めて。



 先輩と小一時間ほどお茶をした後に先輩はその足で事務所へ向かい、青子も帰路に着いた。その足取りは軽く、自然と鼻歌を口ずさんでしまうほどに青子の気分は晴れやかだった。

 最後の曲がり角を曲がってアパートが見えてくると、青子はすうっと息を吸い込んでから勢いよく駆け出した。早く報告しなくてはと思うと、たった100mほどの距離すら歩いて帰る時間がもどかしかった。

 アパートの階段を駆け上がり、玄関ドアをくぐれば脱ぎ捨てた靴が玄関にころりと転がった。青子の足がようやく止まったその先には、もちろんライティンビューローがあった。

 肩で息をする青子は乱れた呼吸を整えながら、走ってくしゃくしゃになった髪を手で梳き直した。それなりに身なりを整え、呼吸も落ち着いてきた頃合いでライティングビューローに話しかけた。


「ねぇ、聞いて。あなたの写真、先輩に褒られたの。写真の出来は被写体に左右されない。でも、今回は間違いなくあなただったから。最高の一枚をありがとう」


 自慢のライティングビューローが、尊敬する先輩に褒められたのだ。返事はなくとも、いの一番に報告と感謝を告げたかった。青子の心がまたふわりと軽くなった。

 やっと人心地ついて、青子の宝箱から持ち出していた写真を元へ戻そうと踵を返したとき、背中越しに小さな音を聞いた。それは、あの日聞いた音によく似ていた。

 青子は振り返って、もう一度ライティングビューローを見つめた。

 呼ばれている気がしたのだ。

 

「普段は何も言わないくせに。あなたは私を呼ぶんだね」


 あの引き出しは、もう二度と開けないと決めていた──はずなのに、どうしてだろう。開けなくてはいけないと心が叫んでいた。

 拡張天板を開き、青子は引き出しの取っ手にそっと手をかけた。そして、ゆっくり手前に引き出す。

 そこにあるのは、もちろん青子がしまった封筒──ではなく、あの日見たはずの古びた封筒だった。

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