3 物言わぬ者の手紙

『拝啓、愛するわが紺青へ──。

 貴女に百年先まで愛を誓う。この身いつ消えるとも知れないが、再び巡り合うその日まで』


 古めかしい手紙に記されていたのは、三文ぽっちの短い文章だった。青子がそれを最後まで読み終えるのに一分と掛からなかっただろう。あっという間に読み終えてしまった手紙を何度もなんども噛みしめるように読み返す。

 それは確かに、揺るぎない決意と胸締めつけられんかりの深い愛情だった。長ったらしい愛の言葉が書き連ねられているわけでもなく、自身の近況について仔細が語られているでもない。飾った言葉はもちろんなかったけれど。

 余計な言葉など無用であると手紙は語っていた。手紙の主とその名宛人──二人は多くを語らずとも分かり合える間柄だったに違いない。

 とはいえ、そのたった三文に手紙の主はどれほどの想いを詰め込んだのだろう。溢れてあふれて仕方ない。

 一瞬ではあったものの眺めたアルファベットの羅列から青子が受け取った印象は、美しく繊細。しかし、見慣れた日本語に化けたその筆圧の強い文字列から受ける印象は、角ばっていて力強い。それは、直観的に男性の文字だと思った。


 紺青と呼ばれ、彼の愛を一身に受けた女性はどんな人間だったのだろう。彼は、自身が危惧していたように消えてしまったのだろうか。そもそも消えるとは、彼の死を意味しているのか。しかし、そのニュアンスは不思議と少し違うような気もした。

 なにより、彼らは百年の愛の下に再び巡り会えたのだろうか。

 考えたところで結論は出るはずもなく、息継ぎしようと思考の海から顔を出した青子は、はたと気が付いた──自身の両手が手紙を強く握りしめていて、そのせいで手紙に少しばかり皺が寄ってしまったということに。青子は慌てて皺を伸ばそうと手のひらで撫でつけたが、結局のところ皺は残ったままであった。


 少しでも皺が伸びないかと手紙の上に数冊の本とカメラバッグを積んで、その間にと青子は近くの文房具店へと出掛けた。徒歩十五分ほどの距離にある小さな文房具店で、青子が今のアパートに越してきてから何度もお世話になっている。

 手動ドアを開けると、小さな鈴の音が耳に響く。「いらっしゃい」と白髪まじりの店主がレジカウンターの中から声を掛け、青子はそれに会釈を返した。店には青子のほかに客が一人だけで、店内はしんとしていた。小学校が近くに立地しているためか、子供向けの可愛らしいファンシーな文房具が多く陳列されている。

 そんな可愛らしい陳列棚をすり抜けた先、店の少し奥まったところにお目当てのものを見つけた。できるだけシンプルなものをと、青子は目の前の陳列棚を真剣に眺めた。「これにしようか」「いやこちらの方が」と手に取り、棚に戻しと繰り返して五分ほど経過した頃、ようやく気持ちが定まったのか満足気な顔をしてレジカウンターへと向かった。


「これ、お願いします」

「はい、レターセットね。どうも」


 支払いも終わって、カウンターに置いていたレターセットを手に取ろうとした時、「よっぽど大事な人に手紙を書くんだねぇ」と店主が穏やかに笑った。青子は気恥ずかしくなって、入店したときよりも大きくお辞儀してから足早に店を出た。

 あれほど真剣に品定めをしていたらそう受け取られても仕方ないだろう。しかし、実際のところは大事な人どころか名宛人不在の手紙となること必至である。



 帰宅した青子は、まず、重しにしていた本やカメラバッグをどけて手紙の状態を確認した。元の通りとはいかないが、少しくらいは皺が伸びている気がした。次に、購入してきたばかりのレターセットを取り出し、ライティングビューローに向かった。

 小学生の頃、国語の時間に「今日読んだお話の登場人物に手紙を書いてみましょう」という授業が度々あった。会ったこともなければ、相手は物語の中だけの存在であって実在すらしていない。例え実在していたとしても、実際に相手へ手紙を郵送するでもない。

 つまり、返事が返ってこないことを前提に手紙を書いていたわけだが、それなのに幼い青子は不思議と心躍った。

 そして今がちょうど、物語の登場人物に手紙を書いたあの頃とよく似ていた。


『初めてお手紙差し上げます。

 あなたのお手紙を拝見しました。よほど大事に想う方へのお手紙だったのでしょう。しかし、残念なことにそれは封印されたまま私の元へとやってきました。彼女へ届くことはありませんでしたが、離れてもなお彼女はあなたの深い愛を感じていたことでしょう。

 例え手紙が届かなかったとしても、お二人がいつかの日に巡り会えたことを遠き日から心より願っております』 


 敬具と締める前に、青子は一度筆を止めた。そして、少し悩んだ後にもう一文付け加えた。


『あなたから時を越えて譲り受けたライティングビューローは、私が責任を持って生涯大切にすると誓います』


 長々とした文章は、彼への返事にふさわしくない。できるだけ簡潔に、それでいて伝えたいことを漏らさないように。言葉を一つひとつ大事に選び取るようにして、青子は返事をしたためた──つもりではあったが、思いのほか長くなってしまった。

 手紙だけでは飽き足らず、眉間にまで皺を寄せた青子は、しばし手紙とにらめっこを続けた。どうにかこうにか、もっと簡潔にならないか。思案してみたが、結局それ以上手直しすることはなかった。デスク天板に散らかった失敗作も、青子にお疲れ様と告げていた。


「手紙を大切にしまい続けてくれたんだね。今までありがとう、お疲れ様。今度は私の手紙をお願いね」


 労いの言葉をライティングビューローへと投げ掛ける。まるで返事を待つかのように。あるいは、返事を聞いているかのようにゆったりと時間を空けた後、青子はそっと引き出しの中へ手紙をしまった。

 今後自分が使い続ける限りこの引き出しは開けない。そんな決意とともに、引き出しを固く閉じた。

 青子は一つ深呼吸し、それからぐぐっと伸びをしてからライティングビューローを離れた。そして、ベッド下へ徐ろに潜り込んだかと思えば、錠前付きの木箱を引っ張りだした。油性ペンで「」と書かれた文字は随分と掠れている。

 青子が首に下げていた小さな鍵を取り出し、錠前に差し込み回せば、かちゃりと小さな音がした。開けた箱の中にはたくさんの写真が収まっており、それら全てが青子の大事な一枚ばかりであった。

 初めて一人で撮影した写真、下手くそだと事細かにダメ出しをされた写真、それから卒業式の日のやけに綺麗だった夕焼けを収めた写真。そんな写真の山の一番上に、引き出しから取り出していた彼の手紙をそっと収める。

 青子の宝箱は、そうして静かに閉じられた。

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