2 物言わぬ者の贈物

 白い靴下の男二人が、玄関先で脱帽して頭を下げた。

 青子もそれに合わせて頭を下げ、ご苦労様でしたと礼を告げた。

 閉まりきった玄関ドアの音を合図にするかのように、長く息を吐き出す。今の今まで青子自身も自覚していなかったが、どうやら緊張しているらしかった。

 今日は待ちに待った日だ。

 逸る気持ちを抑え、青子はいますぐ駆け出したいその足でゆっくりと廊下を引き返した。


 寝室のドアをくぐれば、開け放した窓からどこか懐かしい木の香りを乗せた風が吹き抜けてくる。どこでそれを拾い運んできたのか、青子には見当がついていた。

 壁際に脚付きマットレスが置かれ、横にはローテーブルが一つとその上には赤いノートパソコンが一台。収納は備え付けのクローゼットがあるのみのシンプルな寝室。そんないつもの6畳ほどの部屋に、見慣れない存在がすっぽりと落ち着いていた。木の香りの正体とは、まさにこの存在であった。

 青子はそれにゆったりとした足取りで近寄り、伸ばした手でその存在を確かめる。

 やはり、生きているのではないかと思った。もちろんそんなはずはないけれど。


「いらっしゃい」


 少し弾んだ声で、嬉しさを噛みしめるようにライティングビューローへ話しかけた。返事は返ってこなかったが、そこにあるだけで不思議と満足な心地がした。

 自室に収まったその姿をその目で見て、ようやく青子の心臓は落ち着きを取り戻し始めた。

 そうだ、写真撮らなきゃ。

 おかげで青子はやるべきことを思い出し、ベッド脇のカメラバッグに駆け寄る。

 取り出したのは、仕事道具の一眼レフカメラ。単焦点レンズを取り付け、一眼レフを構えてファインダー越しにライティングビューローを覗き込む。

 絞りを開き、被写界深度を浅くしていく。次第に背景がぼやけていく様子は、まるでライティングビューローとそれを取り巻く世界との境界がぼやけていくようでもあった。

 ハマった。青子は、この瞬間だとシャッターを切る。

 撮影した先ほどの一枚を液晶モニターで確認し、悪くないと頷いた。


「明日、事務所の皆に自慢しなくちゃ」


 青子がフォトグラファーとなって今年で五年が経つ。専門学校の写真学科を二年制で卒業し、在学時に世話になったフォトグラファーの事務所へとそのまま就職した。

 カメラを手にしたのはもっとずっと幼い頃で、青子の人生はカメラや写真と共にあった。

 そんな青子の今まで稼いだ収入の使い途はといえば、ひたすらカメラ関連だった。

 ところがこの度初めてそれ以外に金を使ったとあって、話を聞きつけた事務所内では大変な話題となった。

 良かったよかった。これも青子の成長かな。いやいや、青子に春が来たのか。

 当人を置いて盛り上がる事務所の空気に青子はムズムズした。それでも、皆が自分ごとのように喜んでくれているようだったので、撮影したら事務所の皆へいの一番に報告しようと心に決めた。


「そういえばこれ、開くんだっけ」


 青子はオーナーの言葉をふと思い出して、一眼レフに繋いでいるカメラストラップを首に掛けた。

 全面の持ち手を引くと、ギギッと軋んだ音とともに拡張天板が手前へと開く。現れたデスク天板も彫刻は控えめで、木目の美しさが品の良さを醸し出している。

 最小限の彫刻はといえば、右隅に彫られている鳥くらいのことだろう。大きく翼を広げ、冠を被った鳥だ。鷲のようにも見える。

 何を象徴しているのだろう。持ち主の、あるいはその家の紋章だったりするのだろうか。

 彫刻の形をなぞるように、ゆっくりと指を滑らせる。


 ──かさり。


 かすかな音が聞えた気がした。

 気のせいだったかもしれない。それくらい小さなちいさな音だった。

 何かが擦れたような音に似ていた気がした。


「なに、今の」


 そう呟きながら青子の目はデスク中央に一つだけ造り付けられた引き出しを真っ直ぐに見つめていた。

 ここにちがいない。迷いはなかった。

 手を伸ばして、そろりと引き出す。

 恐る恐る中を覗き込んだ青子が見つけたのは、一通のだった。いつの物かもしれない古びた封筒で、表も裏も確認してみたが宛名や差出人は見る限り記されていない。

 そういえば、オーナーは店のアンティークに関する逸話をいくつも話してくれたがこのライティングビューローについては何も語らなかった。

 どんな人間が所有し、どんな日々を共に過ごし、どんな思いで愛用していたのか。本来ならばもはや知る由もないところに、恐らくかつての所有者が書いたであろう封筒を偶然にも青子が見つけた。

 それはどれほどまでに奇跡的なことだろうか。


 ──封を開けてしまいたい。


 それは、好奇心以外の何物でもない。偶然見つけてしまっただけの自分が、覗き見ていいものではないだろう。顔も名も知らぬ誰かが、思いを寄せたそのまた誰かに宛てた大切なものであるかもしれないし、誰にも打ち明けられぬ思いを独り抱えて書き綴ったものかもしれない。

 やめよう。気付かなかったフリをして、この好奇心にも蓋をして、元の場所にしまい込んでしまおう。きっとそれが一番いい。

 

「ごめんなさい。あなたの思いを受け止めきれるかなんてわからないのに」


 それでも、青子には何もなかったことにはできなかった。初めて出会ったあの店で愛を告げてきたライティングビューローが、幾日も幾年も日々を過ごして今日やっと手紙を届けてくれたのだ。ほかの誰の手元にも渡ることなく、青子の元へと。

 青子は鞄の中からペンケースを取り出し、小鳥の形をしたペーパーナイフを手に取った。「失礼します」と封筒に一礼した後、封の隙間にすっと刃部を差し入れる。開いた封筒の中を覗けば、三つ折りの手紙が一通収まっていた。

 紙自体がだいぶ弱っているかもしれない。破いてしまわないように慎重に触れてみたが、思っていた紙とは随分違っていた。正確にいうと手紙の材質は紙ではなく羊皮紙で、手触りは非常にしなやかだった。

 インクで書かれた文字も滲みが少なく、読みやすいものだった。ただし、日本語で書かれていればの話だが。


「よく考えれば、まぁ……そうなるよね。日本の骨董品ならまだしも、海外のものなんだから」


 手紙に書き綴られていたのは、流れるような美しい筆記体の文章。それは青子にとんと縁のないもので、手紙の内容を今すぐこの場で読み取ることはどうやら難しそうだった。困り果てた青子は目を閉じ、ため息を一つついた。

 何も焦らなくていい。辞書を片手にゆっくり解読していけばいいんだから。

 よしっと気持ちを切り替え、目を開けてもう一度手紙を見つめればそれは可笑しなことになっていた。


「ん……んん? あれ、なんで。日本語になってる」


 目をぱちくりと何度か瞬きしてみたが、手紙の文章は依然として日本語のままだった。どうぞお読みくださいとでも言わんばかりだった。

 青子の理解は未だ追いつかないままだが、その目は既に手紙の文字を追いかけ始めていた。

 

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