さて、なにから話そうか
夏野あゆ
1 物言わぬ者の慕情
彼女の目に留まったライティングビューローは、真っ直ぐに愛していると告げていた。
ウォールナット製のそれには華美な装飾や彫刻など見られず、控えめでいるのに威厳と貫禄に満ちた風格を滲ませている。あちらこちらに味わいとなった傷やシミ、それから色褪せをいくつも見つけて、過ぎ去ったはずの長い時間がまるでそこに留まっているようだった。
壊れ物に触れるかのように閉じられた拡張天板へ手を伸ばせば、触れた指先からほっとするような温もりを感じて無意識に詰めていた息を吐き出した。
──生きているのだろうか、いやそんなはずはない。
わかってはいるけれど、不思議と何かの、誰かの存在を感じずにはいられなかった。
「お気に召されましたか? そのライティングビューロー」
穏やかで落ち着いた声音が、見入っていた青子の意識をぐいと引き寄せた。
そうだった。自分以外の存在がいたのだと思い出す。
目の前の、まるで生き物のようなそれの名をライティングビューローだと教えてくれた人だ。
ライティングは、書き物をする机。ビューローは、引き出し収納を意味する。別名はライティングデスクとも、日本語であれば蓋付きデスクともいうらしい。
つまりは、書き物ができて収納もできる1台2役の家具だ。
「とても熱心に見ていらっしゃって」
お声を掛けても反応がなかったので。
やさしい微笑を浮かべた熟年の男性は、青子が思いがけず訪れたこのアンティーク店のオーナーだ。
新しくできたのか、ずっと前からひっそりとそこに佇んでいたのかわからない。こんなところにこんな店があったのかと、通りがかりにふと足を止めたのがほんのニ、三十分前のこと。
特別アンティークに興味なんてなかったが、気付けば青子の右手は扉の取っ手を握り、左足は開いたその向こうへと迷いなく飛び込んでいた。
店の中にはアンティークの家具や雑貨が整然と飾られ、古めかしい空気はまるで別の世界のものだった。その古めかしさは埃っぽさを連想させるのに、しかし世界は言うまでもなく澄みきっている。
そんな静まり返った店の中は時の流れがひどく遅くて、青子は一人ぽっちで時間の外に投げ出されたような感覚に襲われた。
無性に不安が押し寄せる。途方に暮れた迷子のように立ち尽くしていた青子を時間の流れの中へと連れ戻してくれたのは、やはりオーナーの静謐な声だった。
「アンティークを見るのは初めてですか? 」
青子は控えめな声ではいと一つ返事をした。
何も知らずに店を訪れてしまったことに恥ずかしさがこみ上げてきて、顔から火が出そうだった。けれど、オーナーは呆れるでも笑うでもなく、喜んだ様子で青子に店内を案内した。
「小ぶりなこのコーヒーテーブルですが、どっしりと構えた脚とのギャップが面白いでしょう。これの持ち主は、とある友人とのティータイムにのみ使用していたそうですよ」
「ああ、こちらも美しいですね。白亜が今も色褪せないフレンチスタイルのドレッサーです。持ち主はそう、女性でしたね。若い時分から随分長く愛用されていました。贈り主は、えぇ。もちろん」
お察しの通りかと。
にこやかに微笑んで、オーナーは次のアンティークへと目を移す。
オーナーの話はどれもとても丁寧で、持ち主も贈り主もこの世にはもういないはずのアンティークだというのに今もなお寄り添っている彼らの姿が青子の目には映って見えた。
「素敵ですね。人も、その思いも」
在りし日に思いを馳せ、胸がいっぱいになって感嘆の吐息を漏らす。オーナーも深く頷き返してくれた。
「えぇ。そうですね。そして、これが一番貴女にお見せしたかったものです」
──ライティングビューロー。
そして、出会ってしまった。愛を告げる、物言わぬそれに。
青子が心奪ったのか、それとも心奪われたのか。ただ言えることは、出会うべくして出会ったということ。
今まで生きてきた中でこんなにも目も、心も奪われたものはなかったはず。とは言っても、たった25年と数カ月という高が知れる人生だけれど。
それでも青子は信じてもいいと思った。運命というものを。
「笑わないでくださいね。あの、愛しているって言われた気がして。このライティングビューローに」
しばしの沈黙が流れた。
いざ口に出してみれば、なんとこっ恥ずかしいことをぶっちゃけてしまったんだろう。今度こそ本当に顔から火が出ているに違いない。なにせ耳まで燃えるように熱い。
笑わないでと念押ししたものの、よく考えずとも笑わない方が無理な話だ。青子は後悔を胸に、おずおずとオーナーの表情を窺った。
は、と。思わず息を呑む。
笑われるなんて、とんでもなかった。
青子を見つめるオーナーは、今日見た中で一番愛情深く穏やかな目をしていた。
そういえば、オーナーは最初からそういう人だった。アンティークのアの字も知らない青子を一度だって呆れも笑いもしなかった。
オーナーは穏やかな目をゆるりと細めて笑みを深めた。
「そう聞こえたのなら、これがそう告げたのでしょう。きっとそのために貴女はここへ来て、これも貴女をずっと待っていたんです」
すとん。
オーナーの口ぶりは全くもってふざけてなどおらず、おかげでなるほどそうかと腑に落ちる音がした。
それと同時に、青子は固く決意した。
「私、買います」
今までアンティークと無縁だった自分に果たして似つかわしいだろうかとか、実は値札をまだ一度も見ていないだとか、そんなことはこのラインティングビューローの引き出しの隅にでも押し込んでしまえ。
財布の紐がしゅるりと解けた音も、この際聞こえなかったことにしよう。
だって、きっとそのためにここへ来たのだから。
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