6/精霊の嘆き 其ノ一
「――ウーラチカ!!」
走り込みながら名前を叫ぶ。
反応は言葉ではなく行動で――オレの脇をすり抜けるように飛んでくる矢の群れで答えてくれた。
オレのわき腹や顔の横を、俺を傷つけずに通り抜け、
『……■■■』
だがそれに動じる事はもう無い。
悪逆ノ精霊はそれを体全体で飲み込んでいく。体全体が口であると言うように、小我で作られたその矢は矢の形を解かれ、消失すら生易しい〝無〟になっていく。
「――ッ」
それに動揺はしても躊躇はしない。
〝斬る〟
だが、
『――■■、』
その体は、黒曜石のような硬さを持ってオレの刃を防いだ。
「ッ――おいおい、マジかよ、」
魔力物質で干渉しきれないという事は、体を防御しているそれも魔力物質だという事。
体の再生と少々の変化にしか使っていなかったエネルギーを、今や広範囲に使用することが可能になっているのか。
『■■■■■!!』
触手がまるで剣に変化する。
都合三十二本の剣による斬撃が剣林の如く襲い掛かる。
《竜尾》と《顎》で裁きながら広報に下がるが、悪逆ノ精霊は好機とでも思ったのか、攻撃を続けながらその長い手足でにじり寄ってくる。
「ヒヒヒ、如何でしょう、某の最高傑作は!」
「話し掛けんな、気が散るだろうこの性悪悪魔!」
後方に控えている呪師は、のんびりとオレ達の戦闘を観戦していた。
幸い、と言っていいのだろうか。本気で相手がこの戦いに首を突っ込んできたら、それこそオレとウーラチカだけでは止めきれない。
「ウーラチカ、森に入れ!」
「分かった!」
ウーラチカは、即座に弓を構えながら森に入った。
これなら、多少の攻撃であいつがやられる事は、
「おやおや、隠れんぼはいけませんなぁ――やれ、悪逆ノ精霊」
「――■■■■■■■■■!!」
咆哮が上がる。触手が、蛇の如く森の中に入っていく。
あっという間だ。
あっという間に、
「っ、そんなっ、」
禿げていく枝葉の中で、ウーラチカが戦慄する。
明らかにこの前より、食うスピードが速まっている。
「ヒヒヒ、これでまた力を得ましたぞ。さぁ殺してしまいなさい」
呪師が杖を振るい上げると同時に、森の入り込んだ触手が撓る。いつの間に変化させていたのか
「グッ!?」
天性の勘からくるものなのか、傍目から見ても直撃だけは回避していたようだ。しかし、その傷は軽傷とは言えない。背中はズタボロに引き裂かれ、溢れるとはいかずとも少なくもない血が滲む。
「チッ、助ける手段を探している状況でもないとか、」
小声で悪態を吐いた。
サシャに精霊を救えるかもしれないと言ったのは慰めでもなんでもない。丁度ここで戦えるならば、その正体を探ってやろうと思ってすらいたが、その余裕すら悪逆ノ精霊は与えてくれない。
「ウーラチカ、無事か!」
オレの言葉に、ウーラチカは駆け寄ってきて答える。
「……だい、じょうぶ、まだ、射れる」
そう言ってはいるが、その息は荒い。
「もうちょっと耐えてくれよ、もうちょっと耐えてくれれば、――サシャが帰ってくる」
サシャの使える魔導のいくつかの中に、この状況でうってつけのものがある。
そいつを使えば、
彼女のサポートがあれば、呪師に手が届く芽も出てくるだろう。
「《眷属》も大変ですなぁ。こんな無謀な戦いに挑まなければならぬとは。しかもその様子では某を捕らえる事を考えているご様子。ご苦労様な事です」
そんなオレ達の様子に愉悦さえ滲ませながら、呪師は卑屈な笑い声を上げる。呪師がオレ達との会話を楽しみたいが為なのか、悪逆ノ精霊はただその言葉を聞いているかのように静止している。
――ったく、やっている事が一々趣味が悪い。
「――ハッ、そりゃあ、そういうもんだからなぁ」
「ヒヒヒ、貴方はそうでしょうなぁ――ですが、その後ろにいる
呪師の言葉に、ウーラチカが体を震わせる。
「なぁ、小僧っ子、あぁ、確かあの樹人族の老人が死んだ時お前は泣いておったなぁ。なるほど、お前さん某と悪逆ノ精霊に復讐したいと見える。
まったく、どの種族もいけませんなぁ。そのような
――どいつもこいつも、惨めで愚かな下等種族じゃ」
悪魔の囁きと嘲りの笑い声が響く。
人の神経を逆なでし、感情を操作し、自分の望む結果を持ってくる。それが本物の悪魔の真骨頂。例え 実際の事と矛盾していたとしても、感情に一度囚われてしまえばそれを見極める事が出来ない。
ウーラチカの手が震える。
「しかし妙じゃのう、もしお前さんが某らに復讐したいのなら、まだ復讐する相手はおるじゃろう。
大将は殺さんのか? 大鬼族を殺さないのか? いやさその邪魔をする《勇者》と《眷属》は邪魔ではないのかのう? まずはそちらから片付ければ良いではないか」
心の中に悪魔の言葉が入ってくる感覚。
矛先が向いていないオレでもそうなのだから、ウーラチカにはそれ以上の苦痛を感じているだろう。
それをオレは、
ただ、ウーラチカが必死で抗うのを軽く視界に納めながら、呪師と悪逆ノ精霊の隙を探し続ける。
「なんじゃ、お前怖いのか?
復讐というだけでも充分愚かであるのに、この上その復讐に他のものを犠牲に出来ないとは、愚かを通り越しているのう、愚昧じゃ愚昧」
ヒヒヒ、ヒヒヒという笑い声が、神経をおろし金で削っていくような気がする。
それでも、オレは手を出さない。
ウーラチカは、
「……それ、もう、トウヤから聞いた」
分かっているから。
憎しみと憤怒は、一度浸かると中々取れないもんだ。
でも、それでもウーラチカは一度抜け出した。相手を憎むっていう微温湯のような場所から這い上がって、それからも考えて考えて、考え続けてきた。
だから、きっと大丈夫だと、信じていた。
「
――でも、それでも、ウー、お前ら殺さない」
目はしっかりと敵の姿を捉えている。血が滴っているのに、その体から力が抜けているようには見えず、弓はしっかりと悪逆ノ精霊を狙っている。
「《勇者》に、何か綺麗事でも吹き込まれたか? それとも、そこな《眷属》に、某らを殺せば殺すとでも脅されているのかね? そんなの、」
「違う――それもう、ウーの方から頼んだ。
もしウーがまた怒って、殺そうとしたら、殺してくれって」
不安だったのだろう。
目の前に大将やその息子、そして呪師に悪逆ノ精霊がいたなら、自分が何をするのか、何を思うのかも分からなかったのだろう。
ここに来る直前、ウーラチカは今まで見た事が無いほど真面目な顔でそう言ってきた。
だから、オレはこう言ってやった、
『余計な事頼んでんじゃねぇ、馬鹿野郎。殺さず止めてやるよ』ってな。
「……トウヤも、サシャも、変だった。ウーが知らない事沢山知ってて、ウーが考えられない事もいっぱい考えついて、ウーが出来ない事が出来る。
だけど、ウーより強いはずなのに、誰も殺さない。殺さなきゃいけないじゃなくて、助けなきゃいけないって、救わなくちゃいけないって言った」
オレの言葉が、サシャの言葉が、どれほどウーラチカの中では新鮮だったんだろうか。こっちとしてはいつも通りにしているつもりでも、きっとこいつの頭の中じゃ、オレらの言葉は充分大きかったんだろう。
「変だ、すっごい変だ――変だけど、ウー、それ、好きだ。
そんな変な奴がいっぱいいるかもしれない外の世界、ウー、見たい」
前に真っ直ぐ進む奴の姿ってのは、卑屈な人間には少々毒で、そうじゃない人間にはとても素晴らしいもんに見えるもんだ。
オレは、正直どっちとも言えない。
過去に縛られ、己のルーツを求め続けているオレは、どっちだとも言い切れない。
だけど、ああ、そうだな。
「
そういう気持ちを持っている奴をこそ、
「――ヒ、ヒヒヒヒヒヒ、《眷属》殿、いったいこの小僧っ子に何を吹き込んだのですか!? いやぁ素晴らしい! 人間はこうだから面白い! まさかこうも簡単に反転するとは、いやはや本当に、」
呪師の嗤い声には狂気すら混じる。
目がギョロリと踊り、ウーラチカとオレを交互に見比べ、歓喜に染まる。
「本当に――
杖が掲げられる。
看破眼を発動させなくても分かる。濃厚な大我がその杖に収束し、今にも何かを起こしかねない状態になっていく。
「……あぁ~あ、本気出させちゃったじゃん」
「ウーの所為みたいに言うの、良くない」
「いや、まぁそうなんだけど……んじゃ、死なない覚悟は万全か?」
「死ぬ気でいかないと、難しい、違う?」
「ばぁか、逆だよ。生きている希望を捨てないから人間は強いんだよ」
「……やっぱり、トウヤも変……でも、分かった」
弓の弦が軋む。
剣の重みを確認する。
「さぁて、ここからが正念場で、クライマックスだ!!」
◇
森の中。その中で、大鬼族も樹人族も走る。
つい数刻前までは、お互い敵同士だったはずなのに。樹人族は森に異形が混じっているのを感じたから、大鬼族は呪師とその化け物の凄まじさを大将の息子から聞き、恐れたから。
どちらも原因は良くないものだが、それでも今は協力して森の端に、異変から一番遠い場所に逃げようと必死だった。
――ただ、一人を除いては。
『父上、父上! 何故立ち上がってくださらないのですか!?』
そのやや後方で、シュマリはムカルの手を取り、力いっぱい引いていた。。
ムカルの目に、もう先ほどまでの怒りや憎しみどころか、覇気すら無くなっている。シュマリがいくら引っ張っても力なく、立っている事も覚束ない千鳥足で、のろのろと前に進んでいる。
『シュマリ、シュマリよ、もう良い、俺の事は置いていけ、』
『何を仰るのですか! 気弱な事を言わないでください! いつもの父上はどこに行ったのですか!?』
シュマリの必死な形相で発した言葉も、ムカルの乾いた声の前ではすり抜ける。
『いつも、いつもの――いつもの俺ではなかったのだ。ここ最近の俺は、俺ではなかったのだ、赦せ、息子よ、赦せ、』
――いつ、いったいどうやって自分の影にあの呪師と化け物が入っていたのか、全く分からない。
分からないのだ。
普段の、戦士としての自分ならば何か異変があれば、それが魔術・魔導という専門外の事であっても、僅かでも違和感を覚える事は出来たはずなのだ。
それが気付けないほど、自分は視野が狭まり、ただただ恩讐を為す事しか考えていなかったのだ。
そんなだから――《眷属》に、自分の敵に、恩讐相手に命を救われる等という事になったのだ。
『何が恩讐、何が復讐だ……俺はただただ愚かで、何も考えずにお前達を巻き込んだだけではないか。
これで頭領、誉れ高き大鬼族の一部族の頭領などと、なんと、なんと情けない、せめて、せめてあの化け物に一太刀浴びせねば、生きる意味など、』
『いい加減目を覚ましなされ、父上!!』
情けない父の言葉を、シュマリが一喝する。
『父上、父上――シュマリは、父上を尊敬しております』
強い人だった。
どんな敵も払いのけ、どんな苦難も乗り越えた歴戦の戦士。勇気があり、敵であっても腕があり義に篤い人間には敬意を払い、どんな時でも明るく笑顔を浮かべる父。
民に優しく、戦士としてあまりにも未熟で、勉学に励んでばかりいた自分にも「まぁそんな者もいるものだ」と嗤って許してくれた父。
父とは――我が一族の長たるムカルは、今もこの先もずっとそういう人物だと、シュマリは胸を張って言える。
『父上が死んでは困る。これから世権会議の講和条件を呑んだ折、貴方の存在が大きい……これも事実です。
しかし愛する父に、尊敬する人物である父に死んでもらいたくないと思うのが、まず第一ではありませんか』
そんな父親に、こんな場所で、こんな形で死んでもらいたくは無い。
自分の全体重をかけ、ムカルを引っ張る。
だがそれでも、まだムカルの足は重い。
『しかし、それでも、俺は、俺は、――』
「ちょっと――アンタ、いい加減にしなさいよ」
凛とした声に顔を上げる。
先ほどまで自分に講和を持ち込み、それを使って追い込んでいたはずの少女がそこにはいた。
誘導のために先頭にいたのではないのか?
何故こんな自分にわざわざ話しかけてきた?
何故口調がどこか変わっている?
そんな事は極めて些細な疑問だった。
――先ほどまで人形だと思えるほど感情の乏しかった少女の顔が、激情に濡れていたからだ。
「いい歳こいた大人が駄々捏ねるなんて笑えない冗談よ。そんなへっぴり腰で何を一太刀浴びせる、生きる意味がどうのなんて、笑わせるんじゃないわよこのすっとこどっこい!!」
森の中に声が木霊し、先に進んでいるはずの大鬼族や樹人族まで、何事だとこちらを振り返り、シュマリもムカルも、一体何が彼女にあったのだと目を白黒させる。
『ゆ、《勇者》様? えっと、口調が変わっていらっしゃるんですが……』
「ごめんね、私怒るとこうなるみたい、文句ある?」
『いいえ滅相もありません!』
思わず直立不動で答える。これ以上何か言えば自分も何を言われるか分かったものではない。大鬼族の直感がそう告げていたからだ。
「ほら、良いから、とっとと立ちなさいよ、息子に引っ張られて情けない、それでもアンタ大鬼族なの!?」
『しかし、俺の所為で、』
「そういうの良いから、今は良いからとっとと逃げるのよ」
『――逃げて、どうなると言うのだ』
ムカルの声は羽虫の羽音よりも小さいように思えた。
『俺はこの問題の責任を取らねばならぬ、仮に講和が成立したところで、戦いの中にいない大鬼族達が本当に暮らしていけるというのか?
本当にここを逃げれば安全か? 救いはあるのか? もう俺には分からぬ。自分自身すら見失っていた俺には、』
ムカルの不安は、この場の全員に当て嵌まる言葉だった。
ここから逃げて、生き残って、講和が成立して、土地が与えられて。
それで何が変わるという。どう変わるのだ。我らはどうなっていき、本当に平和に暮らしていけるのか。世権会議は本当に約束を守ってくれるのか。
分からない。
その〝分からない〟という事実は、大鬼族たちを不安にさせた。
そしてそれは樹人族も同じだった。
今森の中で暴れている異形は、紛れも無くこの森を破壊する存在だろう。もしこの森を破壊されたら住む場所はどうすれば良いのか、どこに行けば良いのか、世権会議は援助してくれるのだろうか。
それすらも分からない状態で逃げたところで、どうすれば良いのか――。
不安は広がり、自然と足は止まり、重苦しい沈黙が広がる。
「……あぁ~あ、あんた等本当に――馬鹿じゃないの?」
そんな沈黙の中サシャが発したのは、罵倒だった。
……え、本当に? こんな状況でそんな事言うの?
その場にいる全員の心にそんな吐露が零れる。
「本気で馬鹿みたい。そんな事を考えて足を止めていただなんて……逃げてどうなるですって?
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