第二章 木々ノ守人
プロローグ/森の悲嘆と少年の覚悟
鬱蒼とした森の中。
燦燦と降り注いでいる筈の日光は天蓋のように広がった広葉樹の葉に隠され、キラキラとその欠片だけを森の中に降り撒く。
――森には様々な生き物が住まう。
昆虫、小動物、大型動物、肉食草食、はたまた魔獣かそうでないかに関わらず、その森の中にある実りと水場は生きている限り必要になってくるからだ。故に自然と森は賑わい、人間の想像とは間逆に『静寂』とは無縁のものだった。
だが、今の森は不気味な静寂を生んでいた。
全ての生き物が息を潜んみ、木々や植物ですら風で鳴る葉擦れの音を静めている。
堂々としているのは、小さな湧き水が溜まる池の拓けた場所に立っている、二人の人物のみだった。
一人は、〝人物〟というにはあまりに異質な存在だった。
その場にこの世界の標準的な知識しか持っていない平民がいるならば、その容貌は何百年も佇んでいる木が手足を生やして動き出したかのように見えるだろう。
体中が苔むしているが、それはよく見れば人間で言うところの「髪の毛」や「髭」にも見える。口を開かなければ、人の姿に見える木そのものだった。
もう一方は、青年の姿だった。いや、青年と明言することを一瞬躊躇させられるほど、彼は中性的な美しさを持っていた。
暗い銀髪持ち、深い藍色の眼はよく言えば純粋そうな、悪く言えば無機質な色を移していた。その所為か、身長や体格は成人男性のそれだが、妙に子供っぽい影響を受ける。
何より、その小麦色の肌と上部が少し鋭くなっている耳を見れば、彼の浮世離れした姿も
打ち捨てられた布切れを代用しているのか、ぼろぼろの黒い服を纏い、背中には木をより集めて無理やり作ったような歪な形をした弓が提げられていた。
『―ー-ーッー―ー--ッ』
隣の木のような存在が、音を立てる。
木鳴りの音。
葉擦れの音。
枝同士が打ち付けられる音や、木の皮が捲れる音。
自然の中に極普通にある音のようなものが、一定の繋がりで奏でられる。
それは〝言葉〟だった。
彼ら木々の人、森の住人――
仮に聞き取る事が出来たとしても、意味を理解する事も、また同じ言葉で返事をする事も出来ないだろう。
しかし、隣に立っていた黒い肌を持つ青年には、その言葉の意味が理解出来た。
森が泣いている。
森の木々が、動物達が、この森中に住んでいる樹人族が、そしてこの森に憩い守護している
自分達の住まいが、自分達の憩いの場が、自分達の世界が。
今まで見た事がない異質な化け物達に占拠されようとしている。
蹂躙されようとしている。
戦う力のない自分達の非力を嘆き、しかし助けを呼ぶ事も出来ない。
そんな悲嘆と無念の感情が込められたその樹人族の言葉は怨嗟とは違い静かであったが、愚痴というにはあまりにも強い感情が篭っている事が、青年には理解出来た。
理解出来たと同時に、共感した。
ここは自分にとっても住まい、自分にとっても故郷。
例えこの森の中で同族もいないただ一人の存在だったとしても、この際それは関係ない。
この森に育ててもらった。
木々は青年にも平等に実りを与え、寒い風をしのいでくれた。
動物達は赤子だった青年に乳を与え、時にその毛皮で暖めてくれた。
樹人族達は孫のように青年を可愛がり、その叡智を授け、言葉を与えてくれた。
樹ノ精霊達は自分の為に武器を与え、加護を与え、この森の中を自由に走る権利をくれた。
大恩があった。
例え木々にそのような思惑がなかったとしても。
例え獣達にとってみれば単なる本能としての行動だったとしても。
例え千年、あるいはそれ以上を生きる者達からすればほんの些細な施しだったとしても。
青年が今を生きていられるのは、それが有ったからに他ならない。
「――大丈夫、ジイジ」
樹人族に教えてもらった拙い共通語で、青年が喋る。
凛とした声に幼児が喋るような言葉遣いは違和感があるが、それを指摘するような者はこの場にはいなかった。
「
『――本当に、それで良いのか?』
ジイジと呼ばれた樹人族の老人は、青年に習って共通語で言う。
『お主はワシらとは違う。ワシらのように根を張る必要性はない。その小さな足でこの森から出る事も出来るだろう。お主の腕とその弓さえあれば、どこでも暮らしていけるはずじゃ』
――たった一人この森にいる、自由な存在。
水と自然を愛する性質を持っているものの、しかし老人のような樹人族のように、水と自然が存在する場所で無ければ生きていけない訳でもない。
その気になればどこへなりとも好きな場所にいけるはずだった。
そして、心の奥底で老人はそれを望んでいた。
この森に住む樹人族と樹ノ精霊にとって、彼は小さな種子、小さな苗。人種にとっては我が子のような感覚と言っても良いだろう。
我が子を危険な戦場に嬉々として送り出すことは無い。
少なくとも、平和と自然の静けさを何よりも好み、戦いや争いを避けてきた樹人族であれば特にその考えは強かった。
逃げてくれ。
生き延びてくれ。
幸せになってくれ。
そんな感情が樹人族の老人の中にはあった。
青年はその言葉に困ったような笑顔を浮かべ――首を横に振る。
「……
――彼の中で、守以外の場所とは〝無〟だ。
何もない、合ったとしても自分には関係が無い場所だった。
何せ自分は外れ者。
拒否され、否定されてここにやってきた半端者。
そんな人間に居場所はきっとない。きっとどこでも厄介者だ。
確証も何もない。だが彼の中でそれは事実で、それを否定するような者はここにはいない。樹人族も樹ノ精霊も、世界がどのようなモノなのか、教えてやれる者が誰もいなかったから。
「――っ、動き出した、またアイツら、森の木、勝手に伐ってる」
祖父と話をする孫の笑顔を浮かべていた青年は、人種よりも遥かに良い耳で感じ取った守の異変に、表情を変える。
戦士のそれに。
「行って来ます、ジイジ」
一陣の風。
霞の如く、その姿は池の淵から消え既に森の中に駆け出していった。
青年が走っていった方向を見ながら、老人は小さく溜息を吐いた。
彼はこの森の外に出ることを恐れていた。
この森の中であれば、確かに青年は安全だろう。生きる為、食事の為の狩りはしても、この森の中にいる獣だけではなく、魔獣、そして今侵攻している化け物の群れであっても青年の敵ではない。
そうでなくても、この池の水源と木の実の採取さえしていれば、飢える事はない。
穏やかに生きていけるだろう。
――だが、それは果たして幸せなのだろうか。
無知は罪ではない、恥でも何でもない。
しかし幸せではない。
少なくとも、自分達とは違い外に出る権利を持っている青年にとって、それは素晴らしい事ではない。穏やかに人生を過ごす事〝だけ〟が幸せではない。
何より、青年はこんな小さな森の中で一生を過ごす器ではないと、長い年月を生きる樹人の老人は思っていた。
いつか、英雄になる器だと。
『――ー-ーッ』
自分の一族の言葉で、誰に聞こえるとも思わず、それでも老人は声を上げる。
誰か。
誰か我が孫を、我が子を連れ出してくれ。
この狭い
自分達を守る事に己が身を犠牲にしないように。
どうか、どうかと、
ウーラチカを救ってくれと。
――その望みが、近しい日に叶うとも知らずに。
青年は森を駆ける。
どの木の、どの根が、どこに生えているか。そんな事も理解出来るほど慣れ親しんだ森の中を、その木々の間に通り抜ける風の如く進む。
弓を背中からはずし、道すがら落ちている枝を取って番える。
この弓に、矢は必要ないのだから。
「jfhxd!!」
「jfhmkch!!」
森の中に侵入してきた化け物達の話し声が聞こえる。
何を話しているか分からない。そもそも、奴らがどんな種族なのかも老人から聞いただけで、本当にそういう名前の種族なのかも分からないし、どういう経緯でこの森にやって来たのかも分からない。
しかしそれで良かった。
どんなに相手の事を知ろうとも、関係が無い。
この森に害を与える者は、誰であっても――殺すのだから。
茂みを通り抜けながら、体を回転させるように拓けた場所に飛び出す。
――その姿は、その種族の名前と同じく、〝鬼〟だった。
赤い肌、爛々と輝く黄金の目、。頭に捩れた角を生やし、三メートル近い巨体は、腰に布を巻きつけた簡素な服しか身につけていない――そして、その手には先ほどまで木を切り倒していたであろう巨大な鉞が握られていた。
「――っ!!」
怒りで沸騰しそうな頭を静め、手は素早く弦を引いてた。
木の枝は引かれた瞬間、一瞬目が眩む燐光を放って、
それに躊躇せず、青年はその生み出された矢を放った。
「cmふぇn!?」
「jcふぃお!?」
同時に二本放たれた矢は二体の鬼の眉間に吸い込まれるように突き刺さり、強力な力で引き絞られた弓による力故か、その脳幹にまで届く。
文字通りの、一撃必殺。
生え揃っていた草の上に、小さな音を立てて大鬼達は倒れ伏した。
「………………」
周囲を警戒するように見渡すが、木を伐採していたのはこの鬼達だけだったようだ。
それほど離れた場所で矢を放たなかった所為か、それとも鬼達の血の気が多かったせいなのか、顔にかかった血しぶきを腕で拭う。
血の匂いで吐きそうになるのを必死で抑え込み、他にも木を伐っている音がする方向へ走り出す。
罪を一つ重ねる。
食事をする事と自分の身を守る事以外での人殺しは、茨の筵に心を包み込んでいるような苦痛を青年にもたらしていた。
それも、必死で耐える。
それが自分に出来る恩返しだから。
家族を守る為だから。
そう心の中で言い訳を続けながら。
青年――ウーラチカは弓を引く。
それが、自分の運命なのだと信じて。
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