其ノ二






 暗い水の中に揺蕩っているような感覚、と言えば何人の人間が分かるのだろう。

 自分の体重を感じないくせに、自分に纏わり付くようにナニカの息吹を感じ続けるというのは、恐怖と同時に安らぎを得る不思議な感覚だ。

 もしかしたら、母の腹の中に入っていた時の感覚に似ているのだろうか。

 自我が漠然としたものになる恐怖と、絶対に自分が守られているという絶対の安心感。剥き身の卵のように脆く、しかし柔らかい自分を守るように、サシャは膝を折り、それを抱き抱えるようにして目を瞑っていた。


『……サシャ、私の可愛いサシャ。

 私の可愛いサンシャイン・ロマネス』


 久しく呼ばれていない、自分ですらあまり名乗らない名前を呼ぶ声が耳元で聞こえる。

 嘗て師にそう名付けられながらも、サシャ本人が好んで名乗ったりしなかった名前。

 誰の声なのか分からない。


 リラの声のようにも聞こえるし、

 アンクロの声のようにも聞こえるし、

 無残に死んだ母の声のようにも聞こえるし、

 まるで、自分自身の声のようにも聞こえるし、

 あるいはその誰の声でも、

 もしくは誰の声でもない、

 不思議な声。


『ねぇ、――ここで、諦めない?』


 声が言った事は、サシャにとっては信じられない言葉で、到底受け入れる事が出来ない言葉だった。


『ねぇサシャ。貴女は《勇者》なんて仕事には向いていないわ』


 何故そんな事を言うのだろう。

 サシャはとても不快に感じた。

 向く向かないで選んでいるわけではない。

 サシャは《勇者》にならなければいけないのだ。


『そう考えているのは、貴女だけよ。貴女は《勇者》になるべきではないわ』


 酷い事を言うな。

 沢山の努力をした。

 沢山の勉強をした。

 信頼する仲間も得て、試練を受ける機会を与えられた。

 そんな自分が、なるべきではないなんて。




『だって貴女は、――別に、誰かを救いたいだなんて、思っていないんですもの』




 ………………………………。


『貴女にとって、目の前にある現在イマ守るべきものは、過去ムカシ守れなかったものの代替品でしかないじゃない。

 昔救えなかった故郷の人々、その罪悪感から他の全ての人間を救わなければいけない『つもり』になっているだけ。欲しい物が手に入らないから代わりの物で我慢する、利口で無邪気で、でも酷い子。過去の人達の犠牲を無駄にしたくないと、良い事をしようとする、利口で勤勉で、でも哀れな子』


 違う。

 そんな事はない。

 だって死者は死者だ。

 確かにサシャは故郷の人を犠牲にして生き残った。

 その命に報いなければいけないと思った。

 だから善行を為そう。

 全ての今生きる人達に、自分と、故郷の人達と同じ思いを味わって欲しくはないから。

 だから、今生きる人々を救うのだ。

 受難から。

 苦難から。

 絶望から。

 悲嘆から。

 あらゆる最悪から人々を守り、救い、平和を守りたい。


だからこそ﹅﹅﹅﹅﹅、よ。

 《勇者》はね――善行を積む存在ではないの。中立中庸を尊び、大多数を救うだけ﹅﹅なの』


 どういう意味だろう。

 ボンヤリとそう思うサシャの頭の中に、一つの光が差し込んだ。




『では教えましょう。《勇者》の仕事を』




 光は記憶に、記憶は映像になっていった。




 何代か前の《勇者》の話だ。

 ある国が大飢饉に襲われた。

 治める王は様々な手段を講じて小麦を買い集め、何とか国民全員を救おうと摸索する。

 しかしどこまで努力しても、一つの村人全員を救える小麦の半分も分配出来ない。

 《勇者》も《眷属》も、世権会議も様々な援助や手助けを行うが、殆ど効果は見られない。

 これでは国が潰れてしまう。国民全員が死んでしまう。

 その国の国王や官僚も、世権会議も万策尽き、とうとう最終決断は《勇者》に託された。

 そして勇者の出した結論単純で、酷かった。


『誰も救えないという結果と、半分の国民を救える結果であれば、後者を選択するべきだ』


 誰もが頭で分かっていても、情や倫理が許さなかったソレを、《勇者》が口に出した。

 国を一つ滅ぼす事と、被害を半分に抑える事。

 どちらに天秤が傾くかは明確で、




 明確であるからこそ、それは常人では決められなかった。




 また別の《勇者》の話だ。

 ある国は内乱で混乱していた。

 王は優しいながらも無能で、王族もその気質を強く受け継いでいた。

 叛乱を起こした宰相は非情だったが、貧困に喘ぐ国を救える秘策があった。

 国は真っ二つに割れ、自国民同士での争いが三年は続き、とうとう世権会議は調停者として《勇者》を派遣した。

 王は《勇者》に言った。


『全てを救う道があるはずだ』と。


 宰相は《勇者》に言った。


『理想論ではこの国は救えない』と。


 それを聞いて《勇者》は言った。


『国民がどちらを取るか、それが一番重要だ』と。


 国全体を巻き込んでの投票は……結果的に、宰相の勝利に終わった。

 だから《勇者》は傍観した。

 優しき王と、その王族の首が刎ねられるのを。

 宰相は国を救い、《勇者》は人々を尊重したが、




 無残な死の上に成り立つ救いだった。




 さらに別の《勇者》の話だ。

 ある有名な村があった。

 とても貧しいその村は、たまにやってくる傭兵や旅人を歓待すると見せかけ、薬で殺して所持品を剝ぎ取り、日々の糧にしていた。

 子供を食べさせて行く為、病人の薬を買う為に、どうしても必要な事だった。

 《勇者》は消失する旅人の噂を聞き、その村に訪れた。

 子供達が空腹に悩まされぬように、食べ物を配った。

 病人の病を治癒した。

 村人達を諭すと同時に、その荒み切った心を癒した。

 そして次の日――全員をその国の兵士に引き渡し、大人達は全員処刑された。

 子供は孤児院へ、元々病人だったから強盗殺人に参加していなかったものは放逐された。


『法は守らなければならない』と。


調和を齎すが故に、




一部には絶望を授けた。




 ……最初の《勇者》の話だ。

 嘗ては魔族と蔑称されていた魔王配下の種族と、嘗ては人類と尊称された連合国家と全面戦争。

 終わらせるにはもはや戦争しかなかった。

 たまたま立場が、あるいは釣り合いを取る為に必要だったから人類側に組みしていただけの話。

 どちらにしても、多くが死んだ。

 魔族と呼ばれた人類も、人類と呼ばれた人間も。

 皆死んだ。多くが死んだ。

 血で血を洗い、肉で肉を剥ぎ、骨で骨を砕いた。

 それを《勇者》は飲み込んだ。非情に飲み込んだ。


『それで最後に平和が訪れるならば』と。


 最終的に天秤が等価になるのであれば。

 どんな悲しみも嘆きも、明日の希望と救いの為に、




 未来の調和を得る為に。




『『天秤を傾けない』、『中立であり続ける』、『法を守らせる』それが《勇者》の使命。

 善悪は極めて等価です。

 どちらが多すぎても少なすぎても、それは世界のバランスを崩し、無へ至る。この心安らかな時代であっても、悪は明確に存在する。両者は両者が等価に存在するからこそ、世界は生まれる。

 《勇者》は中立と調和。故に、時に悪と定義される事でも、調和が保てるならば断行しなければいけない。

 サシャ、貴女は人間です。とっても優しい子です。だからこそ、《勇者》には向かない。

 貴女だけは、正しさの奴隷になってはいけない』


 …………………………嘘だ。

 師匠は言った。


『きっとお前さんの新しいやり方が見つかる』と。


 それは、こんな事ではなかったはずだ。

 人を救うという事は、人を殺す事と等価であろうはずがない。


『まだ納得出来ませんか……であるならば、もう一つお見せしましょう』


 風景が塗り替わる。

 体の感覚が戻ってくる。

 しかしそれは現在イマの自分が慣れ親しんだものではなく`過去ムカシの自分の体に還っていくような。

 朱色が広がっている。

 目の裏側に張り付いて離れない、血の色。


 故郷の人々が、


 友達が、お兄さんが、お姉さんが、おじさんが、おばさんが、


 母と、父が。


 その死体を重なり合わせ、小さな山を生み出し、流れ出る血で川を作っていた。

 手元を見てみれば、自分の手はその血で真っ赤だ。


『もし貴女が《勇者》になれば、この地獄をもう一度蘇らせる事があるかもしれません』


 声が囁く。

 やめて、


『その時貴女は耐えられますか? それでも行えますか?』


 心に鋲が突き刺さる。

 やめてよ、


『それでも罪悪感を感じずに、これが行えますか?』


 心から流れた血が、涙になる。

 やめてってば、





『貴女は、死んだ人間達に胸を張って、「善行を為した、犠牲に報いた」と言えますか?』





「やめてって言ってるでしょ!!」





 声を張り上げる。

 それを拒絶する。


「嫌よ! 私は絶対そんな事をしない!! だって、だって、」


 それは今のサシャを否定する事だから。

 地獄の中で生き残ってしまった自分が負う責務とはあまりにも違いすぎるから。

 善行?

 報いる?

 人を殺して何が善行だ、何が報いるだ。


『……だから言ったでしょう。貴女は、《勇者》に向かないと。

 貴女は良い子です。情に篤く、優しい子。だからこそ、《勇者》には向かない』


 社会全体の調和を保つ事と、善行が同じである事は多くない。


 半分は善行を為し、半分は悪逆を働く。

 半分は善を、半分は悪を。

 一方には救いを、一方には絶望を。

 《英雄》であり、――《悪人》である。

 相反する二つを常に内包し、尊敬されると同時に畏怖され続ける。


 それが《勇者》の本質。


 人々の救い主であり、勇ある者と言われている者の正体。

 感謝されると同時に憎まれ続ける存在。

 絶望に染まったサシャの顔は、声の主にとって哀れだった。

 哀れに思いながらもこれで良いと思っていた。

 多くの《勇者》を裁定し、決定し、導いてきた。多くの少女が、その役割に涙し、絶望し、辛い目に遭ってきた。自分にとっては子供のようにすら思える彼女たちが嘆き続けるのは、苦痛でしかなかった。

 ならば《勇者》という存在を生み出さなければいい、もう泉の大我を使わせなければいい。

 しかし声の主が――精霊王がどう足掻こうとも、もう今の人類社会に《勇者》という存在は必要不可欠なモノになっていた。

 魔力物質を肉体とし千年の時を生きる精霊の長でも、その流れを変える事は出来ない。

 精霊は、物質世界の流れに直接干渉出来ない存在。故に、声の主――精霊王は望んでいた。

 彼女が自ら手放す事を。

 脆い人間が傷つかぬように。

 《勇者》という、素晴らしくも悲しい連鎖を断ち切り、サシャをその報われない罪悪感から救うにはそれしかなかったから。









 刃を振るう。

 すでに魔獣の群れは片付け、疑似精霊ゴーレムを相手にしている。

 敵はあまりにも大きくて、五体もいるんじゃ到底オレ一人でどうにか出来るものではなかった。一体の時だって、サシャと二人で知恵出し合って勝ったんだ。

 一人で五体なんていうのは、シビア過ぎる。

 それでも、オレの心の中にはとても辛いとか、後悔みたいなものはない。

 むしろ、勝てるという自信と、勝たなければいけないという不動の信念が残っているだけだった。


「ハァ!!」


 《竜尾》を振るい、疑似精霊の腕を剥ぎ取りに掛かる。

 金属の刃ではないはずのオレの剣が、硬質な音を奏でて丸太のように太いでの中ほどまで刃を通した。

 相手は魔術障壁を自動で生み出し、その身体は普通の岩や木よりも丈夫に出来ていて、とても一人ではそれを破壊する事が出来ない。

 それでも良い。

 斬り落とせなくても、痛みがなくても。

 腕が中ほどまで斬られているのであれば、その腕で攻撃する事はもう出来ない。振り上げた瞬間、己が腕の重みで自然と折れる。


「ッ!!」


 岩の擦れ合う音と共に振り下ろされた別の疑似精霊の腕を、引き抜いた《竜尾》の衝撃で弾き飛ばす。

 衝撃・重圧の魔力物質に強制変換するこの機構は、攻撃だけではなく防御にも役立った。


「ゼァ!!」


 片手剣を振るい、何度も何度も足を斬りつける。

 魔術障壁も無限の物ではない。まるでガラスの覆いのように、斬れば斬る程傷がつき、それが何度も続けば再生も追いつかない。

 片腕で都合十一回の斬撃など普段であれば与太話だが、今のオレには何の問題にもならない。

 オレの看破眼に映る魔術障壁はまるでシュレッダーにかけられているかのようにズタボロになっていき、《竜尾》よりも切れ味が良い《顎》はそのまま疑似精霊の足を輪切りにする。

 ギチギチ、ガチャガチャという耳障りの良くない音を立てて暴れようとする片足の疑似精霊の胸に《竜尾》を深々と突き立て、その起動核を破壊する。

 目であろう部分にあった怪しい光は消え去り、これで完全に沈黙する。


「あと、二体!」


 既に戦いそのものは三十分近く経っていた。自動治癒は体力を回復してくれるわけでもなく、身体強化もスタミナまでは上げてくれない。速度そのものは上がっても走れる時間はそう長くなく、しかも出力を上げているので、体力はみるみる削られていく。

 だが、あと二体。

 腕が一本使い物にならなくなっている個体と、ほぼ無傷の個体。

 これなら、勝てる。


「案外、手応え無いなぁ、疑似精霊!!」


 《竜尾》を振るい、まず片腕を破壊してある疑似精霊に襲い掛かって、


「『――汝、踏ミ込ム事叶ワズ』」


 見えない壁――いや、魔力物質で構成された結界がオレの《竜尾》を妨害した。

 ――詠唱?

 サシャの声とは違う、しかしサシャが魔導を使った時と同じ、音は分かるのに意味が読み取れない不思議な言葉。

 疑似精霊が簡単な魔術を使う個体がいるとは聞いたが、それでもこれは、





「ああ、こりゃあ見事だ。流石、護り屋をメインにしていた冒険者。とてもではないが、下級の魔獣と簡単な疑似精霊じゃ、苦戦はしても負けはしないか」


「言葉が軽いですリヴァイ――でも、その言葉には同意します。どうやらトウヤ様には、この戦い試練という程でもなかったようです。サシャ様が権限をここまで温存していたというのが、要因としては大きいですが」


「……さしゃハ、慎重ナ子ダカラナ」


「そぉ? 私は彼の活躍を結構評価しちゃうけどな~」





 四つの人の声。

 ここで聞けるはずがない、四人の声。

 リヴァイの服装は変わらない、前にも見た軍服のような服を着て、腰にサーベルを差している。

 リラの服装はメイド服とは様変わりし、暗殺者アサシン特有の黒いフード付きの服と黒漆で塗られている革鎧を身に纏い、腰には何本もの短剣を差している。

 一緒に並んでいるグリムガルもファオも、別れる際に見た時と服装は変わっていないが、彼らは最初からあれがフル装備だったのだろう。

 だが、救けに来てくれた、なんて素直に喜べない。

 ――何を名人ぶっているんだと思われるかもしれないが、人間の感情は目に現れる。喜怒哀楽も目を見れば文字通り一目瞭然だ。

 表情や立ち居振る舞いは誤魔化せても、目ばっかりは誤魔化せない。

 四人の目は、誰かを救けにきた目じゃない。





 人を殺す覚悟を持った目だ。





「……アンタらが、オレの最終試練って事で良いよな?」


 そもそも第一の試練は、《勇者》候補だけでなく《眷属》候補の選定の為でもある。

 そりゃあそうだ、《勇者》は基本的に《眷属》に守られる存在だ。その為に魔獣を引き入れ、わざわざ疑似精霊まで造っているのは予想外だったけどな。


「しかもあの魔獣や疑似精霊だけじゃオレを本当の意味で試せない……そう踏んだわけか」


「最初からそう言う考えだったわけではないけどね。

 もし君がこの程度で苦戦するようであれば、当然僕らが出張ってくる必要性はなかった。これは試験であり、君をボコボコにするのが僕らの役割ではないから。

 でもそれじゃ、まだ足りない」


 リヴァイがサーベルを抜き放つ。

 リラが二本のナイフを逆手に振るう。

 グリムガルが、まるで壁のような盾と鉄板を削っただけのような剣を持つ。

 ファオが杖を振るい、周囲の大我に呼びかける。


「敵を倒す事だけが我ら《眷属》の仕事ではない。

 剣であると同時に我らは盾でいなければならない。《勇者》の決定を実行し、《勇者》の身を守らなければいけない。

 つまり――、」





「我々を相手に、サシャ様を守ってください、トウヤ様」





 リヴァイの言葉に繋げるように囁いた言葉。

 それは――漆黒の風だった。





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