僕と誰かとホテルの廊下
まいこうー
僕と誰かとホテルの廊下
あ、ここには居たくないなと思った。
「どうして?」
「どうしてって……」
たぶん、ホテルの廊下なのだと思う。
個性的なホテルの廊下。
真っ直ぐだったり広がったりせまくなったり、外側から力が加わっているように不規則に波打っている廊下には、大小色とりどりのドアがこれまた適当な間隔で左右の壁に並んでいる。
どんなセンスを持っていればこんなデザインを思いつくのだろう。
美術の成績が平均以下である凡人の僕には到底理解できない内装だった。
「面白いでしょ?」
「面白くないよ」
隣の彼女が宙を舞いながら楽しそうに笑った。
こんな奇妙な空間の中にいて、どうして不安も見せずに笑っていられるのだろう。
ホテルの廊下と同じくらい奇妙な彼女に、胸やけに似た感情が湧きあがる。
知らない場所。
知らない相手。
そんなものが目の前に広がっているだけでもかなりのダメージだと言うのに、それがさらに理解しがたいものであった時のストレス値と言ったら。
脳みそが沸騰して耳や鼻の穴から噴出しそうな勢いだ。
大体にして、ここはどこなんだ。
そして、君は誰なんだ。
こんなわけのわからない場所に来た記憶は全くない。
制服を着て家を出、中学校に向かったはずだ。
いつもどおり登校して一番乗りで教室について……。
あれ?
教室に着いた後、その後はどうしたのだったか。
思い出せない。
思い出せはしないけれど、少なくともこんな非現実的な場所に来るような生活は送っていなかったはずだ。
「何時までそこに立っているの。早く行きましょうよ」
「行くってどこに?」
「この先に」
「嫌だ」
知らない彼女が僕の手を引っ張る。
もちろん宙に浮いたまま。
空中で逆立ちをしている格好なのに、不思議と制服のスカートは重力に逆らい落ちる気配がない。
無邪気に足をばたつかせながら、「早く早く」と促される。
あぁ、そうか。
これは夢だ。
「人間って理解できない状況に陥ると大抵夢って言って完結するわよね。芸がなくて面白くないわ。異世界に迷い込んだとかもっと面白みのある発想はできないの?」
「異世界より夢の方が現実的だろ」
「夢なんだから現実なわけないじゃない」
自分が非現実的な存在のくせに、随分と現実的な意見を述べるものだ。
靄がかかったみたいではっきりと顔は認識できないが、笑い声から随分と楽しんでいるのが感じ取れた。
これだけ素直に笑っていられるなんて、ほんの少しだけ羨ましい。
「さぁ、行きましょう」
くるりと180度回転した彼女に背後を取られ背中を押され、半ば強制的に廊下の奥へと進まされる。
何度も言うが、非常に進みたくない。
何故だか蛇に呑み込まれていくような自殺行為をしている気分になってくる。
しかし、これが夢でも異世界でも、このまま動かなければ何も解決しないこともまた確証がないが実感があった。
光源らしきものは見当たらないのに、昭和風のオレンジの灯りが廊下を照らす中いくつもの扉を通りすぎる。
色こそ様々だが単色ばかりの無難な扉ばかりが続く。
廊下の幅も所々で変わってはいるものの、凪の日の海のように穏やかだ。
と、急に他とは雰囲気の違うふたつの扉が向かい合わせで出現した。
左は水色で木製の四角い扉。
右は桃色で金属製だろうかなめらかな曲線が特徴的な丸い扉。
むわりと湧きあがる感情に顔が歪む。
僕の感情とは対照的にこの部分の廊下は柔らかく膨らみ、全てを包み込むような優しさがあった。
隣の彼女が僕の表情を確認するように覗きこんできた。
相変わらず顔は認識することができないが笑っていないことだけは確かだった。
促されるわけでもなく、水色の扉を開ける。
飛行機やロボットのおもちゃが無造作に転がる部屋。
ベッドには車が描かれた掛け布団。
風に揺れるカーテンには大きな星がいくつもちりばめられている。
典型的な男の子の部屋だった。
純粋な、子供部屋。
直ぐに扉を閉め、反対側へと向かう。
桃色の扉の奥に何が広がっているのかは予想できたが、確かめずにはいられない。
そっと、開いた隙間から覗くのはやはり女の子の部屋だった。
いろんな動物のぬいぐるみや人形が所狭しと並び、くまさん柄のカーテンが掛かる窓の横にはふわふわのベビーベッドが置かれていた。
甘いミルクの匂いが鼻腔をくすぐる。
「どうしたの?」
「何が?」
「嬉しかったんでしょう?」
「まぁね」
無言で扉を閉める僕に、彼女が話しかける。
相変わらず地に足をつかず宙ぶらりんの状態だ。
それでも自由に空中を漂う姿はどことなく羨ましい。
「行こう」
「あら、自分から進むのね」
「じっとしてても始まらないから」
きっかけは単純だ。
単純なくせに、どうしようもなく避けられない。
数分歩くと今度はひと際大きな扉があった。
どす黒く重厚な造りではあるが装飾もなく無骨でヒビだらけ。
連動するように廊下も全体的にボロボロで、握りつぶされたように委縮している。
開こうにもとてつもなく重く、重心を低くし力一杯押してようやく数センチの隙間が開くが、そこから見えた景色であっと言う間に力が抜け、越えられない壁がごとく再び巨大な扉が立ち塞がった。
部屋の中で、巨人が寝ていた。
足の裏しか確認できなかったが、それだけでも僕の身長よりも大きいのは確か。
爆睡していたのか響くいびきのせいで震える空気。
大量の酒瓶と先ほど男の子の部屋で見つけたおもちゃが床に散乱し、その奥では見覚えのある可愛らしいぬいぐるみ達が綺麗な状態で壁際に避難させられていた。
ドアノブを握る手は震え、全身から汗が吹き出し力を込めようにもぬるぬる滑って再び扉を開けることは不可能な気がした。
「私はね、この時に生まれたの」
彼女が言った。
表情がわからない以前に顔を上げる気力すらなかった僕の耳に、どことなく悲しそうな声が届く。
「生まれたくなかった?」
「……そんなことはないけれど、生まれてこない方がいい存在だってことは自覚してる。大抵の人間にとって人生で必要ないって存在だってことも。でも、それでもね、やっぱり愛されたいじゃない」
生まれた限りは愛してもらいたいじゃない。
静かに彼女はそう言った。
「行きましょ」
僕の手を握り、促すように引かれる。
想像以上に温かい掌に、不思議と安心する。
体温は感じれど質感や質量が全くわからない彼女との移動は、幽霊と散歩でもしている気分になった。
先に進むにつれ最初の方とは違い個性的な扉ばかりが並び出す。
そんな扉が出現するたびに僕は足を止め、ひとつずつ開けて行った。
ふたり部屋になりファンシーに模様替えされた子供部屋。
簡素な内装とはミスマッチな化粧品が沢山しまいこまれたドレッサーの置いてある部屋。
切り刻まれたスカートやワンピースが散乱するリビングに、可愛らしい髪飾りが詰め込まれた箱が目につく洗面所。
そのどれもこれもが強烈で、思い出すたび貧血になったようにくらくらする。
奥に進めば進むだけ廊下も悲鳴を上げるように歪み崩れくすんでいった。
行き止まりと最後の扉。
この頃にはすっかり気分が悪くなるのと同時に、ここがどういう所なのかがわかっていた。
最後の扉の奥に、何があるのかも。
予想通りの体育館だった。
しんと静まり返った体育館は薄暗く、バスケットのゴールだけがひとつぽつりと浮いていた。
僕が首を吊ったバスケットゴールがそこにはあった。
「自殺するほど私が嫌い?」
バスケットゴールに腰掛ける彼女の顔がようやく認識できた。
「私は私が大嫌いだから当然よね。だって私はあなただもの」
僕だった。
セーラー服を着た僕だ。
やっぱりここは夢の中で、心の中で、彼女は僕だった。
『女性でいなければならない』という僕の心が具現化した存在。
そんな彼女を、どうして好きになれるだろうか。
「お母さんの言うとおりにしていれば、幸せになれるから」
そう言い生まれたばかりの妹を抱きながら、母さんはどこか虚ろな瞳をしていた。
父さんは女の子が欲しかったんだそうだ。
以前からそんな話は聞いていたけれど、実際に男の僕が生まれた時は一般的な父親同様に喜んでくれていたらしい。
父さんの態度が豹変したのは、妹が生まれてからだった。
望んでいた女の子が手に入ったせいかその頃から僕への態度も冷たくなり、存在しないかのように扱われるのは当たり前、時々向けられる視線は攻撃的で好きな酒を飲んでは僕が男であることを怒鳴り罵倒した。
それでも暴力を振るわなかったのは、子供に対する情けというよりも世間体に対するものだったように思う。
最初こそ僕をかばっていた母さんが殴られているのを何度か目撃しているので、非暴力的な人間だったとは考えにくい。
そのうち母さんも暴力に怯えたのかはたまた僕をかばうのが面倒くさくなったのか、ある日唐突に言ったのだ。
「お母さんの言うとおりにしていれば、幸せになれるから」
小学校入学も間近に控えた頃、可愛らしいワンピースを握りしめた母さん。
どうして僕がそんな物を着ないといけないのかと問えば、男だからと返答があった。
ランドセルは赤に買い替えられ、妹と一緒になった部屋は女の子らしく彩られ、僕の持っていたものは全て捨てられた。
捨てられ、可愛らしい洋服や小物になって帰ってきた。
意味が解らなかったけれど、同時に父さんの態度が柔らかくなり母さんへの暴力もなくなったので、僕は与えられた居心地の悪い空間を享受した。
それから8年間、僕は女として生活した。
小学校までは男女の体格さなんてあってないようなものなので、案外と楽しく過ごすことができた。
友達は女の子ばかりで、入りたかったバスケットボール部にも入れずやりたいことはほとんど諦めるしかなかったけれど、それでも穏やかな小学生時代を送れていた。
それが中学校に入学すると一変する。
母さんがなんと言って学校に説明したかはわからないが、僕にあてがわれたのは女子のセーラー服。
既に抵抗感なんてものは消え失せていた僕は何の疑問も持つことなくそれを着て登校した。
いつもどおりに、学校生活を送る。
しかし、成長期の身体は僕の家庭事情を考慮してくれるはずもなく、日々確実に『男らしく』変化していく。
身長も伸びるし、声変りもする。
化粧をしてみたけれど、クラスの女子みたいに綺麗にならない。
着られなくなった服に八つ当たりをし、めちゃくちゃに引き裂いたこともある。
世の中とのズレが大きくなるにつれて学校ではいじめが起こり始め、家では再び父さんが荒れ始めた。
やっぱり暴力をふるうことはなかったけれど、僕は生まれなかったことにされた。
生まれていないのだから目には見えない。
前回よりも徹底した無視のおかげか今回は母さんへの暴力もなかったけれど、母さんもまた僕は存在しないこととしたようだった。
必要最低限の行動以外はずっと部屋の中。
隙を見て妹が食事を運んでくる日々。
学校でも家でも会話をすることなく、感じるのは辛さのみ。
これで僕は生きていると言えるのだろうか。
自分の生に疑問を持ち始めて直ぐ、僕はあの場所に行く。
ずっとやりたかったバスケットボール。
来世ではどうか好きなことを出来ますようにと願いながら、ゴールに紐をかけたのだ。
「もう少し、努力するべきだったのかもしれない」
「なんの?」
「自分が自分であるための努力」
「努力してきたじゃない」
「自分じゃなくなる努力はね」
彼女が僕の言葉を訊いてどう思ったのだろう。
自分で自分の気持ちがわからないのと同じく、彼女の気持ちもわからない。
「私はあなたが大好きよ」
「僕は君が大嫌いなのに?」
「自分を好きになるのは難しいことかもしれないけれど、自分に好きになってもらうのは案外簡単なものよ」
僕の背にもたれかかる彼女の背中も温かかった。
人肌の温度を再び感じる。
懐かしい様な安心する様な落ち着く様な、今にも目を閉じて眠ってしまいたい衝動にかられる。
後ろから手を握られた。
僕も握り返した。
お互いに、血が止まりそうなほど力強く。
声は聞こえないけれど、彼女が泣いているのがわかる。
だって、僕も泣いているのだから。
「私はあなたが大好きよ。あなたを1人にすることしかできないけれど、あなたが大好き。あなたのためならなんでもするわ。死んだってかまわない。だから、お願い。あなたは死なないで。生きて幸せになって、お願いよ」
嗚咽交じりで必死に紡がれる言葉に、僕は声を上げて泣いた。
どちらともなく抱きしめ合う。
僕だけが――彼女だけが僕を愛してくれていた。
彼女だけが唯一傍にいてくれる存在だった。
「ずっと護ってくれて、ありがとう」
霧のように消えた彼女の表情は見えなかったけれど、少しでも笑ってくれていたらいいと、そう思った。
「母さん、私は――僕は僕だよ。どうがんばっても本当の女にはなれない。だから、男の僕を認めてください。ちゃんと、見てください」
目覚めた病室で、泣き崩れる母さんにそう言った。
ごめんね、ごめんねと何度も謝られる。
もう謝らなくていいよ、母さんも辛かったよね。
そう声をかければ一層大きな声が病室に響く。
背中まで伸ばした長い髪が肩から流れる。
「……ねぇ、母さん。今度髪を切ってよ。かっこいい髪型がいいな」
僕の言葉に少しだけ泣き止んだ母さんが、ゆっくり頷く。
電源の入っていないテレビ画面に映る僕が小さく笑っている。
彼女が笑っている、そんな気がした。
僕と誰かとホテルの廊下 まいこうー @guuji
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