青空の花、届かない手
佐取サオリ
第1話
大丈夫?と聞かれて我に返る。いけない、こんな日に思考を飛ばしてしまった。頭を軽く振って意識を戻し、声を掛けてくれた古くからの友人に何でもない、と返した。
「本当かなぁ。君は昔から、我慢と嘘はお得意だったでしょ。体調でも悪いの?」
「何でもないよ、本当に」
強いて言うなら寝不足だ。まさかこの日を前にして、緊張で眠れないなんて子供じみたことをしてしまうなんて、夢にも思わなかった。隈は何とか隠しているが、これ以上この話を続ければいずれバレるだろう。咄嗟に話題を変えた。
「それより、こんなとこにいていいのか、花嫁さん」
「うーん、花嫁、なんて単語を君から聞くことになるとはねぇ」
「誤魔化すなよ」
「……まあ、ちょっと着信は無視してるかな」
無断で抜け出してきているらしい。彼女の夫となる人は、これは相当苦労しそうだ。……既にしているか。
「でもいいじゃない。新たな人生の門出の朝に、旧友と言葉を交わすのも、さ」
「……あんまり苦労を掛けてやるなよ」
言える言葉はそれだけだった。震える声を一度無理やり押し込めて、気合いを入れ直さねば言葉が出てこない。こんなにも緊張する相手だったか、彼女は。彼女は変わってしまったのだろうか。いや、変わったのは自分だ。
「早く行きな、女の準備には時間がかかるんだろ」
「全くもう、そうやってすぐ私を追い出そうとする。ちょっとくらいならいいじゃない、あと少しだけよ」
彼女の黒髪が風に舞った。どこまでも突き抜けそうな青空を見つめる彼女は、まだ誰のものでもない。バルコニーに飾られた花の香りが漂う。噎せ帰りそうだ。甘くて、苦しい。
これから彼女は、別の誰かのものになる。きっと幸せになるだろう、きっと廊下の端に生けられた花束よりも、野の花のようにのびのびと、しあわせに。それはもう、確定した未来だ。
「……ねぇ」
「なんだ」
「わたし、しあわせになれるかしら」
少しだけ、返事を躊躇った。君は、その言葉を否定されたら諦めるのだろうか。そんなくだらない思考を振り切って、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「なれる、じゃなくて、なるんだろ」
ぱちくりと黒目が瞬いた。それから少し俯いて、次に顔を上げた頃には、満面の笑みを浮かべていた。
「ありがとう、やっぱり君は、最高の友達だ」
ああ、君の友人でいられて良かったよ。しあわせにおなり、僕の手の届かぬところで、しあわせに。
「いい加減準備してこい、待ってるぞ、きっと」
「そうだね、行ってくるよ」
くるりと彼女の髪が舞う。黒目もぱちりと開かれた。
「おしあわせに、ね」
「うん、しあわせになってくるよ」
彼女は花だった。豪華絢爛な飾り花ではなく、野に咲く綺麗で、慎ましげな花。それを摘み取ったのは自分ではなかった。ただそれだけの話だ。くどいようだが、彼女はこれからしあわせになるのだろうし、花はもっと綺麗に咲くだろう。
ふと、遠ざかる彼女の後ろ姿に被るように、花弁が降ってくるのが見えた。白くて大きくて、美しい花弁。捕まえようと手を伸ばして、ああやっぱりと諦めた。彼女はもう見えない、見上げれば、蒼穹はどこまでも広がっている。
もうどこにも花弁は見当たらない。
手を伸ばしても、空を掴むだけだった。
青空の花、届かない手 佐取サオリ @Kawa_se_mi
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