ほんとうの夜
アロマキャンドルって、贈り物でもらったりすると嬉しいわりに、いつ使えばいいかタイミングに苦しむところがありませんか。かわいくって香りのいいキャンドルを焚くために、まず、部屋をそれにふさわしく整えなきゃいけないような気がする。細かいことを気にしないで気軽に焚けばいいんだろうけど、ついフルーティなアロマのビールに癒しを求めてしまう。はっはっは。
まさか、こんな状況で使うとは思わなかったよね。
キャンドルの慎ましい灯りにぼんやりと照らされた部屋で、私はハーゲンダッツのバニラアイスを食べていた。小説を切りのいいところまで書きあげたときの自分へのご褒美に取っておいたものだ。まだ、書きあげていないけど、食べないと溶けてしまう。なぜなら冷蔵庫がもう半日以上動いていないので。
アイスを食べながら、スマホを見る。ため息が出た。
停電になり、電波がなくなり――それだけで、なんにもできなくなるんだな。
甘い匂いにも、甘い味にも、心が躍らない。あらゆるつながりが途切れて、この部屋だけが私の世界のすべてになったような気分だった。一方的に押しつけられた、根源的な隔絶。ふだんの生活では感じることのない種類の孤独。
私は、アロマキャンドルを消した。
自分の手元も見えなくなる暗がりを、スマホの画面の光でかろうじて追い払い、靴を履いて、マンションの外に出た。
初めて見る景色に、しばし立ち尽くした。
建物の明かりも、信号も点いていない。走る車もごくわずかだ。光を失った町並みは影絵と化して、虚構めいた生気のなさと非現実感に沈んでいる。
見上げる夜空が、奇妙に白っぽかった。地上よりも空が明るいのだ。
キャンプ場で灯りのない夜を過ごしたことはある。でも、あれは非日常のアトラクションだ。日常を引き裂いてふいに訪れた、ほんとうの夜が、私の暮らす街に広がっていた。
ゆっくりと歩き出した。少し暑い。寒いよりはましだけど。
信号の消えた横断歩道を渡る。休業の貼り紙がされたコンビニやファストフード店の前を通る。どれも本来は二十四時間、動いているはずのものだった。
あ、と声が漏れた。一軒だけ、駐車場が埋まり、ひとが出入りしているコンビニがある。立ち寄った。
ありったけの懐中電灯を置き、レジスターだけは内蔵のバッテリーか何かで動かしている。もちろん棚はガラガラだったけど、お酒とおつまみだけはけっこう残っていて笑っちゃった。あと、激辛が売りのスナック菓子やカップ麺ね。なるほど。嗜好品とは、こういうことか。
ふと、反抗心なのか悪戯心なのか、よくわからない野蛮なものが胸の裡に沸き起こり、私は五百円の赤ワインを買った。
やってやろうじゃん。こんなときだからこそ、嗜好を。
ボトルに口をつけてラッパ飲みしながら、夜の底をさまよう。
行き交うひとびとも、私と同じように、寄る辺なくむやみにうろついているだけという気配がある。
早々と酔いが回り始めた頭で、たくさんのひとたちのことを思う。
私を心配して、スマホにメッセージをくれているひとがいるはずだ。不要不急の連絡はかえって迷惑かもしれないという気遣いで、じっと無事を信じてくれているひともいるだろう。
私を嫌いだけど、テレビやネットでこの街のニュースを見るたびに私のことを連想せざるを得ず、でも、別に私を案じる気持ちにはなれなくて、すぐに忘れたり、また少し私を嫌いになったりしている――そんなひとたちのことも、思った。
確かめようがないので努めて考えないようにしていたけれど、同じ街に住んでいる友だち、会社の同僚、行きつけのお店の常連たちの安否も気になってきた。家の中で身をひそめているだろうか。私のように、夜に身をさらしているだろうか。
ひとりの友だちのことが、強く脳裏に浮かぶ。
あの子はきっと、いつものようにカメラを提げて、影絵の街を、白い闇の空を、獣を撃つような果断さで撮っているんだろうな。あの子の目で見て切り取ったほんとうの夜は、とても美しく、途方もなく恐ろしい写真として結晶するにちがいない。
私は、足を止めた。顔の横にワインの瓶を掲げて、スマホで自撮りする。
電波が来たら、送付しよう。あの子はなんていうかな。「
あの子の反応を想像して楽しみながら、私は大停電の夜を往く。
こんな夜が、かりそめのものであれと願いながら。
つくりものの明るい夜よ、早く還れと祈りながら。
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