夏の日、きみを追いかけた(前篇)

「みんなによろしくな」

 そういって、かけるくんは目を細めて静かに笑う。私の好きないつもの笑顔が、今日はひどく憎たらしい。こんな日のこんな瞬間でも、いつもと同じなんだな。私はうまく笑い返せず、うつむいてしまう。強い陽射しが、私たちの影をプラットホームに色濃く落としている。

「メールするよ。休みのときは帰ってくるし」

 本当かな。だんだん返信がなくなるんじゃないかな。新しい暮らし、新しい友だちが大切になって、めったに札幌に戻ってこなくなるんじゃないかな――うっとうしい言葉が口からこぼれそうになるのを、私は唇を噛んでこらえる。

 八月七日――織姫と彦星が出会う日に、私たちは離れ離れになる。劇的な理由はない。駆くんのおかあさんの転勤先である岡山が、十五歳の私にとって遠すぎるという、それだけのことだ。


 ――まもなく、新千歳空港行き、快速チトセライナーが到着いたします


 流れる自動放送が焦りを掻きたてる。早く、何かいわなきゃ――でも、何も出てこない。駆くんは彼氏でもなんでもない。ただ、クラスメイトがひとり引っ越していくだけだ。これまでに何度もあって、そのときは寂しかったけど、すぐに平気になってしまったことと同じなのかもしれない。

 あっけなく列車は来てしまう。小さな駅だから、停車時間はわずかだ。

 その十数秒の間に、駆くんは、ふと思い出したみたいな調子で「これ、やるよ」と、紙袋を渡してくる。反射的に受け取った私に「じゃあな」といい残して、列車に乗り込む。たちまちドアが閉まり、私と駆くんは車外と車内で隔たられる。窓の向こうで手を振る駆くんがみるみる遠ざかっていくのを、私はぼんやりと見送る。

 頭がからっぽの状態で、のろのろと紙袋の中身を出し、息が止まりそうになる。

 私が好きな作家の、デビュー作の単行本。文庫にも電子書籍にもならず、古本で手に入れるには定価の何倍もかかるそれを、図書館で借りて読むことはできるけど、やっぱり自分のものにしたい――いつか聞かせた他愛ない話を、駆くんは覚えていたのか。

 本に紙が挟まっている。

 それを開いて、書かれた文字に、今度こそ息が止まる。


 ――ずっと好きだった。元気でな。


「なんでよ……」

 なんなの、駆くん。ばかみたい。こんな気障ったらしい、自己満足のサプライズで、私が喜ぶとでも思っているのか。むかつく。嫌い。大っ嫌い。一発ぶん殴ってやらなきゃ気が済まない。それから――ちゃんと駆くんの口から、この言葉を聞かせてもらう。

 私は駅を飛び出し、道路の向かい側のタクシー乗り場に駆けていこうとして、横から来たトラックに撥ねられる。

 起きあがった私は、大きくてふっかふかのベッドの上にいた。天蓋付きのやつだ。

 そんなベッドが似合う豪華な部屋で、三人の男が私を取り囲んでいた。全員、中世ヨーロッパの貴族みたいな、飾りがたくさんついた丈の長いコートを着ている。


「おっ、天姫てんきが目覚めたようじゃ」

 かわいらしい美少年が、お年寄りみたいな口調でいう。

「大丈夫ですか、天姫さま。ご自分のお名前をいえますか」

 金髪の眼鏡男子が、私の顔をのぞきこむ。

 もうひとり、ぼさぼさの黒髪の男子が、不機嫌そうになりゆきを見守っている。


 まったく状況がわからないけど、とりあえず「テンキさまって、私のことですか」と、些細なことから訊いた。

「あなたは天界から、我々が住まう世界に降臨なさいました。最近の天姫さまが好まれる表現では『いせかいてんせい』と呼ばれる現象です」

 音声が脳裏に文字を結ぶまで、しばらくかかった。


「は? 異世界転生? 嘘でしょ!」


「やかましい女じゃな……」

「ぼくはウィーゴと申します。この無礼なのが弟のアロウ。あっちの無愛想なのは兄のラトル。メイスフィールド家の三兄弟といえば――」

「帰して」

「はい?」

「元の世界に帰して! 駆くんに追いつかなきゃ!」

 私はヴィーゴの胸ぐらをつかんで揺さぶった。眼鏡がズレて飛んでいく。

「ちょっ、お待ちください、苦しっ」

「よさんか、この乱暴女!」と、アロウが私を取り押さえる。「自分の力を考えろ! 能力表を開いて見てみよ!」

「能力表……?」

 つぶやいた私の目の前に、RPGのウィンドウみたいなものが広がった。


 レベル 99

 体力 547

 知力 069

 魔力 925

 筋力 779

 魅力 341

 運勢 997

 …………


 なんか他にもいっぱい項目があるけど、難しくてよくわからない。知力の数字がおかしいことだけは理解できた。おかしいよね。バグでしょ。

「われわれ貴族は、降臨なさった天姫さまにお仕えし、ご不便のない人生を送っていただくよう、王家から命じられております」

「この世界って魔王とかいるの? そいつを倒したら帰れたりする?」

 だんだん状況が呑み込めてきたので、訊きたいことを矢継ぎ早に訊く。

「数十年前から、東の果てで邪神崇拝の集団が国家を形成しており、世界中から警戒されています」と、ヴィーゴは説明してくれた。「噂によれば邪神は〈時渡りの門〉という別世界と行き来ができる古代の秘術を用い、天界とまた別の世界からやってきた、と――」

「行こう」と、私はいった。「その邪神を倒して〈時渡りの門〉を使わせる」

 ヴィーゴとアロウは狂人を見る目を私に向けてから、お互いの顔を見合わせた。

「最近の天姫にしては変わっとるの、こやつ……」

「天界にお帰りになって平凡に生きるより、あり余る能力を活かしてこちらの世界で悠々自適に暮らす方々が多いと聞いていたけどね。あちらの言葉で『すろーらいふ』といったっけ」

 そこで、これまで無言だったラトルという男子が、私を興味ありげに見つめた。深い夜空みたいな色の瞳に映されて、ちょっとドキッとする。

 ラトルは低くかすれた美声で、こういった。


「きみ、おもしろい女だな」


 私は渾身の力で右の拳をラトルの脇腹の斜め下から叩きつけた。肩が抜けるような手ごたえを残して、ラトルはロケットみたいにバァーン!と吹き飛び、天井にグワシャアッ!と激突して蜘蛛の巣みたいなひびを入れてから、床にドシャアッ!と墜落して動かなくなった。これがレベル99の腕力ですか。

「私はなんにもおもしろくない。顔か。私の顔がおもしろいのか」

 少女マンガのスカしたヒーローみたいな台詞にいらついた私を、ヴィーゴとアロウが色を失った顔で見ている。

「あんたたちの能力はどのくらいなの」

「じ、自分で見ればよかろう」と、震える声でいうアロウに「よくわかんない。どうせ知力がロック069なアホの天姫ですから。レベルだけ教えて」と迫る。

「余は38だ。ヴィーゴが44で、ラトルは42だったか」

「そうだね。生きていれば」と、ヴィーゴは痛ましそうに倒れたままのラトルを見やる。

 私の魔力は高かったので、致命傷を回復させる魔法でも使えないかなーと思ったら、脳裏にちゃんとそういう魔法が思い浮かんだ。ラトルに手をかざして魔力を開放し、元通りに治す。

「私はめちゃ強い。あんたたちもそこそこ強い。あと、私並みに強い天姫って他の国にもいるんでしょ。みんなで世界連合軍を結成して邪教徒たちを滅ぼします。返事は」

 とんでもねーのが来ちまった、とでっかく書いてある顔で、三人の貴族は力なくうなずいた。


 それから三年後、世界連合軍を率いて邪教の本拠地に攻め込んだ私は、壮絶な戦いの末に瓦礫と化した祭祀場で、地面にへたりこむ邪神ユニ=トラバースに、旅の途中で手に入れた聖剣ハイエイタスを突きつけていた。

「早く〈時渡りの門〉を出して。そうすれば命は取らない」

「殺すなら殺しなさいよ」

 魔力の大半を失いつつ不敵にほほ笑むユニ=トラバースは、角や翼や尻尾が生えた美少女の姿をしていて、この邪神を創造したやつの嗜好が伺えますね。

「でも、光と闇の量は均しいの。わたしを殺せば、わたしに凝縮されていた闇が世界中に散らばるだけ。世界が光一色になることはありえない」

「そういうの、どうでもいいから」

「もっと具体的な話をするね」

 ユニ=トラバースはだんだん早口になってきた。「わたしという共通の敵がいるから、世界各国は対立することなく、平和な状態が保たれていたともいえるんだよ。わたしがいなくなれば、それ以前の戦争が絶えない世界に逆戻り。あと軍人や傭兵の新しい仕事はどうするの。しばらくは崩壊した城や街を再建する公共事業に就いてもらえばいいけど、やがて荒くれ者たちは食い詰めてヒィ――――ッ!」

 邪神から一センチの距離でハイエイタスを思いっきり縦横に振り回すと、ユニ=トラバースはかわいらしい悲鳴を上げて、歴史の授業みたいな眠たい講釈を中断した。


「〈時渡りの門〉」

 私の声は我ながら凄愴の極みだった。


 しくしくと泣きながらユニ=トラバースが背中の翼をはためかせると、私の目の前に極彩色のモニョモニョした渦巻きが現れた。「チキュウからこちらに降臨した瞬間にあなたが存在した時間と場所に戻れるよう、ちゃんと設定しておきました……」

「聞き分けがよろしい」

 私は振り返って、満身創痍の貴族三兄弟に「お世話になりました」と頭を下げた。

「本当に世話し尽くしたぞ……」「百回は死んで生き返らされた……」「もう来ないでください……」と、アロウ、ラトル、ヴィーゴが口々に名残を惜しんでくれる。

「じゃ、光と闇のバランスを取って、平和な世界を保ってください。じゃあね」

 どんよりした表情のユニ=トラバースにも手を振って、私は〈時渡りの門〉に飛び込んだ。

 背後をトラックが走り抜ける音を聞きながら、停まっているタクシーに転がりこむ。

「前の快速チトセライナーに追いついてください」

 むちゃくちゃな指示だけど、私みたいなお客さんは他にもいるのだろう。銀ぶち眼鏡をかけ、白い手袋をはめた運転手さんは、ニヤリとして「札幌駅に先回りするから。ちゃんとシートベルト締めてね」といい、タクシーを急発進させる。

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