エクセル方眼紙にもほどがある
「ウオオアアアーッ!」
フロアじゅうに怒声が響き渡り、自分の机で電話をしていた後輩も、コーヒーメイカーでコーヒーを淹れていた同僚も、応接スペースで業者さんと打ち合わせしていた上司も、いっせいに私のほうを見た。なぜなら怒声を上げたのが私だから!
「申しわけありません、何でもないです、すいません」
立ち上がって四方に頭を下げ、飛んでくる苦笑とあきれた視線に身を縮めながら、ふたたびパソコンに向き直る。小説を書いているわけではない。会社の仕事は真面目にやっています。早く帰りたいので。
私が開いているのはテキストエディタでなく、計算ソフトだった。エクセルです。
数年前――私が入社する前――から会社が手がけている大きな案件の進捗状況について中間報告書を作る必要が生まれ、無数のフォルダの底に埋もれていた予算案の古いデータを探し当てたのだ。イントラネットは広大だわ。
しかし、これは……ふたたび叫びだしたくなった。
「エクセル方眼紙」にもほどがある。
見た目を整えることばかり考えて、セル(マス目のことね)を無用に細かく分けたり、無理に融合させたりした結果、エクセルの本来の役目である、大量の数字を一気に計算する機能がうまく働かないのだ。
当時の担当者に呪いの思念を送りながら、見栄えだけよくてまったく使えないデータをほとんどイチから作り直す。
定時になっても終わらない。くぅ~疲れました! 帰りたい! しかしこれは――これだけは一気に片をつけないと、他の仕事が溜まっていって、よけい悲惨なことになる。
今日に限って、みんな帰るのが早い。私抜きで飲み会でもあるんじゃないか。七時過ぎには誰もいなくなり、私の集中力さんもいなくなった。気分転換しよう。
会社の入っているビルを出て、近くのセイコーマートでフライドポテトとノンアルコールビールを買い、
カップルがベンチで寄り添っている。外国からの観光客がテレビ塔の写真を撮っている。若い男子がスケートボードの練習をしている。
少しだけ湿った、涼しい空気が気持ちいい。
こんな初夏の札幌の夜が、私は好きだ。
開いているベンチに座って、ノンアルコールビールの缶を開けた。
本物よりも薄味で、ジュースみたいな甘さがある液体が、どんどん喉を滑り落ちていく。喉が渇いていたらしい。ポテトもおいしい。炭水化物と塩分に癒される。
「――
少し離れたところから、私を呼ぶ声がした。
そちらを向いて、しゃっくりが出そうになった。
「アコちゃん! どうしたの」
「アルバイトの帰りです。沙織さんは、ここで晩ごはんですか」
「まだ会社の仕事があるんだよね」
「お疲れさまです」
びっくりした。こんなところで友だちに遭遇するなんて。眼鏡をかけたショートボブの女の子。カメラは、背中の大きなリュックサックに入っているのだろう。
「お仕事は何時ごろ終わるのですか」
「あと一時間か、二時間か。待っててくれる?」
冗談でいったんだけど、
「はい、かまいませんが」
「えっ、なんで?」
「なんでとは、なぜ?」
不審な目で見つめあってしまった。
「これから少し、散歩しようと思っていたので。お待ちします」
「――そっか。待っててくれるんだ」
「終電まででしたら、お酒もおつき合いします。わたしも少し飲みたい気分です」
「今晩、気持ちいいもんね」
「そうですね」
章子は微笑んだ。
この子は愛想笑いをしない。楽しい気分だから、笑う。私に、笑ってくれる。
「写真、撮るの」
「気になるものがあれば」
「撮ったら見せてね」
「はい」
よーし。一時間で終わらせて、駆けつけてやる。
私は大きく深呼吸して、夜の空気を身体いっぱいに取り入れた。
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