EP21-3 痛み

 べレクの顔面を精確に捉えたクロエの拳は、彼の端正な顔を歪ませながら、力強く振り抜かれる。そしてべレクは転げるように椅子から落ち、地面に這いつくばる形になった。


「……っ?」


 彼の身に起こる異変――立ち上がろうとした足はふらつき、その視界は意思とは関係なくユラユラと揺れた。


「? 何だ、この感覚は――。熱……か?」


 べレクは鼻や口から流れ出たが、白い床に不揃いな水玉模様を作っていくのを不思議そうに眺めた。


 すると。


「それは痛みだよ、べレク」とクロエ。


「……痛み?」


「そうだ。知らなかったか? 人は殴られると痛いんだ」


 彼女はそう言ってべレクに歩み寄ると、よろめく彼の胸ぐらを掴んで引き上げた。その眼差しに冷たさはなく、かといって昂ぶる様子も無い。ただ微塵も揺らがぬ絶対的な意志だけが込められていた。


「貴様……界変のアルテントロピーで俺を――」


「ああ。私はお前の【肉体を殴った】んだ。としてな。もっとも暴力的こんなものでしか伝えられないのは不本意だが」


「……ぐっ――」


 べレクは初めて得た肉体が締め上げられる質感に対して、不快な表情を露わにした。


「俺に身体を与えて殺したところで、界変が止まることはないぞ……」


「ああ、解ってるよ。お前は謂わば整合性を促す加速装置――、他者のアルテントロピーを操ることはできても、自分からアルテントロピーを作り出すことはできない」


「……その通りだ。そして俺は、既に促進はじめている。源世界に神を送り出した時点でな」


「それも解っている。だが私が自覚した以上、もうお前に界変わたしのアルテントロピーは使わせない」


「そうだろうな、だが無駄だ。特異点きさまは界変のきっかけに過ぎない。今更何をしたところで、情報次元の再構築が止まることはない。――見ろ」


 べレクの視線が彼の肉体に向けられる。すると全身がぼんやりと白く光り始め、彼は爪先や指先から、徐々に粒子へと変化していった。それはかつてクロエが目の当たりにした、源世界の崩壊と同じ現象であった。


「世界の統合はここより始まり、間もなく多くの亜世界を呑み込むだろう。そして整合性に反する貴様らは、クオリアニューロン共々全て消滅するだろう」


 予言めいた言葉を吐くべレクから、クロエは投げ出すように手を離して、すぐさまメベドに呼び掛ける。


[メベド、聴こえるな?]


[お姉ちゃん? なんでOLSが――]


[理由はいい、今は【使える】んだ。それより界変を止めるぞ]


[そりゃ勿論――だけど変なんだ。さっきから思っていたけど、IPFも無しにあれだけ膨大なアルテントロピーで戦闘しているにも関わらず、ここでは全くフラッドの兆候が見られない。ひょっとしたら、この亜世界は昇華できないのかも……]


[なに――(いや確かに……)]


 クロエは眉を顰めつつ、既に手首まで消えかかっているべレクを睨む。すると彼が告げた。


「俺が紐付いている亜世界は、情報次元に対して『開いた状態』になる。それは臨界値が無限へと収束することを意味する。つまり貴様らがいくらアルテントロピーを使ったとしても、この世界に俺が存在する限りフラッドは起きない」


「――ッ! お前……」とクロエ。


「無論界変のアルテントロピーを以てしても、情報次元そのものである俺を消すことはできない。そして既に現象の一部となっている紐付けを解くこともな」


 満足そうに瞳を閉じるべレクに対し、しかしクロエ。


「だからどうした。不可能その程度で私が諦めるとでも思ったのか? 生憎私は、超が付くほど頑固なんだ」


「……それは理解している。――長い付き合いだからな」


 その言葉にクロエは、何の愛情も温もりも無い中でべレクと過ごした、20年余の月日を刹那に思い出した。


「…………」


 幼い頃から規制官として彼と亜世界を巡りながら生きた日々――暖かさなど微塵も無かったが、それは彼女にとって確かに一つの人生であった。


「お前という奴は……(いつもそうやって――)」


 しかし物思いに耽る暇はない。彼女は再びOLSでメベドに語り掛ける。


[メベド、フラッドで止めるのは不可能だ]


[じゃあどうするの?]


[一旦源世界に戻り、片っ端から亜世界に転移して情報を保護して回るしかないだろう]


[?! 流石にそれは無茶だよ! べレクですら一つの世界をプロテクトするので精一杯だったんだ。何千も在る亜世界を護るなんて――それに界変が始まってるなら、もうそこまでの時間が無い]


[だが――]とクロエが言い掛けたところで、べレクが一言だけ呟いた。


「……結節ハブだ」


「? ――HUBハブ?」


 クロエはその意味を即座に理解し得なかったものの、べレクの言葉はメベドにも届いていたようで、彼はそこからすぐに閃きを得た。


[そうか! 亜世界の次元接続を一点に集めてその結節点から関連性を辿っていけば、転移しなくともプロテクトぐらいはできるかもしれない]


[情報を中継して分派するということか。だがどうやって?]


[僕がハブそれになるよ。全部とはいかないけど、僕はかなり多くの亜世界に仮の身体インテレイドを配置してある。それを端末として紐付けして、アイオード達から情報を吸い上げればいい]


[お前が……? だかそれでは――(メベドのアルテントロピーが底を尽きてしまう)]


 情報体アートマンが主であるメベドにとって、アルテントロピーの喪失はそのまま死を意味する。しかしそれを承知の上でメベドは言った。


[大丈夫。僕はもう充分過ぎるほど生きた。それにこれが『僕の在り方』だよ]


[しかし――]と躊躇うクロエの視界の隅で、べレクの腕は肘の辺りまでが消失していた。


[解った……頼む、メベド]


[うん、任せて]


 メベドの明るい返事を聴いてから、クロエは無言でべレクに顔を向ける。その彼女の眼差しが「何故アドバイスを?」という問いであると判断して、べレクは彼女より先に口を開いた。


「人は殴られると痛いからな」


 そして彼は、その顔にぎこちない微笑みを浮かべる――。


 するとクロエ。


「なんだ、笑えるんじゃないか――お前も」


「……そうか。……今は人間だからだろう」


「………………」


 クロエはその沈黙ことばを最後にして、別れの挨拶もすることなく背を向けると、瞬時にメベドの許へと転移した。


 べレクの顔は、その笑顔のままであった。

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