EP21-2 人として

 屠られた他の者達と違って消滅こそしなかったものの、吹き飛ばされたラタルはそれきりピクリとも動くことがなかった。


「お兄様!」と駆け寄るのは、美しき豊穣の女神ナシャス。


 時間を止められたかの如く静止兄の姿を見て、ナシャスはクロエを鋭く睨む。しかし慈愛と再生を司る神である彼女は、それ以上の何かを為す術を持たなかった。そしてまたその視線に気付いているクロエも、ナシャスに対して攻撃を仕掛ける素振りを見せなかった。


 最奥の席に依然座ったままであるべレクに全能神セヴァが囁く。


「エンリル王よ、これ以上の損失は……」


「解っている」とべレクは頷き――。


「どうやら本当に、自身の存在を理解しているようだな、クロエ」


「ああ。そしてお前自身についてもな、べレク」


「……源世界の連中を排除してからと考えていたが、どうやら難しそうだ。――アトゥルプよ」


 名を呼ばれたアトゥルプ――黒い炎で出来た服と燃える髪を持つ暗黒神は、皆まで言われずとも徐に進み出た。その足跡は焼印の様に地面を焦がし、ちろちろとした種火を残す。


「このアトゥルプとセヴァは、俺の知る限り最も強いアルテントロピーを持った人間達だ。ディソーダーや貴様らルーラーなどとは比較にならん」


「それがお前のか」とクロエ。


 縦も横も彼女の倍以上あるアトゥルプを前にして、クロエは動じず、すらりと手を横に伸ばす。――神殿の柱の一部が視えない力で引き剥がされ、直ちに弾倉へと変化しながら浮遊してくる。


「記憶が戻り、お前が何者であるかを理解してから、私にはいくつかの疑問が生まれた――」


 スゥーと彼女の手に収まる弾倉。それを慣れた手付きで装填しながら話す。べレクも他の神々も、ただ黙ってその様子を静観していた。


「第一に『何故お前は私を殺さなかったのか?』という疑問だ。私が邪魔な存在であるなら、たとえ記憶を失っていたとしても、むざむざ生かしておくのはリスクでしかない」


「…………」――沈黙で応えるべレク。


「第二に、最強の規制官であるはずのお前が、『神々などという手駒を用意している』というのも妙だと思った。お前自身が誰よりも強いのなら、自分の手で直接私たちを排除すれば済む話だからな」


「…………何が言いたい?」


 そう返すべレクに、クロエは「恍けるな」と苦笑を見せつつ続けた。


「第三の疑問は『何故意志を持たないお前がアルテントロピーを使えるのか?』だ。――付き合いの長いお前ならもう解るだろうが、私がこの疑問を口にしたということは、既にその答えに辿り着いているということだ」


 クロエがそう言いつつ銃を上げると。


「やれ、アトゥルプ」とべレク。


「御意」


 暗黒神アトゥルプがクロエの前へ立ちはだかると、彼の禍々しい気迫と周囲を歪ませる熱気が、クロエの服のあちこちに小さな火を点した。


「黒衣の女、貴様の陸梁りくりょうもここまでよ」


 アトゥルプが掌を向けるとクロエの周囲を漆黒の炎が包み、それが服に点いた火種と合わさって彼女を包む。しかしクロエはその渦巻く炎の中ですら、悠然と銃を構えたまま微動だにしない――。


「そして私が到った答えは一つだ」


 それどころか、彼女の瞳にはアトゥルプなど映っておらぬかのように、その視線は依然としてべレクに固定されたままであった。


「べレク、お前は界変のアルテントロピーではない。いや、より正確に言えば、お前は


「王を愚弄する不届き者めが――!」


 アトゥルプが両の掌を翳すと、クロエを包む黒炎は内側に燃えながら球状の膜となって、彼女の身体を封じ込めた。


「無間の闇と焔に包まれ、滅びるがよい!」


 その言葉と同時に、獄炎の膜はクロエとともに点となるまで圧縮され、そのまま一片の粒子となってから完全に消失――残された火の粉だけがハラハラと散った。



 ***



 ――束の間の暗闇。


 実際の時間にして1秒に満たぬ間に、クロエは懐かしい想い出に行き当たる。


「ねえ、ママ」


「なぁに? リマエニュカ」


 ベッド脇のシェードランプの明かりの中で、壁に背を預けて絵本を読む二人。


「なんでお姫さまは消えちゃったの?」


「きっと悪い魔法にかけられてしまったからね」


「ええー、それじゃお姫さまが可哀想よ」


 幼いクロエが不満げに口を尖らせてみせると、母親は「そうねぇ」と少し困ったように微笑んだ後、少し考えてから口を開いた。


「じゃあここから先は、あなたが作ってみたらどうかしら?」


 思いがけないその提案に、クロエは綺麗な黒い瞳を丸くする。


「つくる? わたしが?」


「ええ。あなたが正しいと思う世界おはなしを、あなたがの。そうすれば、きっと素敵な物語になるわ――」


 ……。


 …………。


 ………………。


 ――意識だけで漂うクロエの心が目を醒ます。


(ああ、そうか。だったんだな)



 ***



 クロエが消滅した直後に再び力の波動を感じ取ったアトゥルプは、今しがた彼女が消失した空間を見つめながら唸った。


「ぬぅ……?!」


 するとその何も無い場所から、突如空間ガラスを突き破るように数発の弾丸が飛び出した。


「?!」


 アトゥルプのみならず、その場の全ての者が一斉にそちらを注視する。間もなく弾痕を中心にひび割れた空間を蹴破って、砕けた次元の狭間から、何事も無かったかのようにクロエが歩み出てきた。


「貴様!?」と声を上げたアトゥルプが、すぐにその手に黒炎を従え――【ることは出来ない。】


「何だ……? 何故我が力が――?」


 当惑する彼に向かってクロエ。


「お前はもう【神ではない】よ。だから【その力も使えない】」


 彼女がそう告げた瞬間、アトゥルプの身体は普通の人間と変わらぬ大きさに縮まり、身に纏っていた炎も消え失せた。


「何が、起こった……」


 アトゥルプはしわがれて震える己の両手を見ながら、自身に問い掛けるように呟く。だがそう言いつつも、彼は自分が只の人間に成り果ててしまったことを理解していた。そして「嗚呼……」と、弱々しく膝から崩れ落ちる。


 その様に狼狽を隠すことが出来ぬセヴァ。その横に座ったままのべレクは、静かに佇むクロエの顔をじっと見つめていた。


「――それが界変のアルテントロピーか」とべレク。


 するとクロエは銃を投げ捨て、彼に向かってゆっくりと歩き出した。


「ああ。歩むことを否定したお前では決して持ち得ることのない、これが詩篇せかいを紡ぐ人間ひと意志こたえだ」


「……ヒトの答えとは、随分曖昧な定義だ」


 真っ直ぐと進むクロエを受け容れるように、巨大な円卓は真ん中からサラサラと崩れて、彼女が通るべき道を作っていく。


「クオリアニューロンを得る為に人間を象ったところで、宇宙を情報子サンヒターとしてしか捉えられないお前には永遠に理解できない情報だろう」


「……かもしれんな」


「界変のアルテントロピーとは、人間なら誰しもが持つ『自分として生きる為の力』だ。与えられるでもなく、決められた道から選ぶでもない、自分自身が世界とどう向き合っていくかという、己の在り方を示す一歩に過ぎない」


「それで、その世界の情報を変革させる力で、貴様は何を創るつもりだ? クロエ。――俺に代わって本当の神にでもなるつもりか?」


 べレクとの距離があと数歩というところまで来て、クロエは足を止めた。――【セヴァはその場から動くことも出来ない。】


「私は何も創らない。神も必要ない。私はただ、人間が己の意志で歩める世界を護るだけだ」


 そう言ってクロエは拳を固めると、大股に距離を詰め、思い切りべレクの顔面を殴りつけた。

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