EP20-8 理と自由

 天界へと続く門は、クロエらが入ると同時に瞬きする間もなく彼女らを目的地に誘う。そして、空に浮かぶ長い回廊の果てへと三人を送り届けた。


「ここが……天界……」とユウ。


 呟く彼の前には、地平とは異なり途切れることを知らぬ、どこまでも続く煌びやかな雲海。空を埋める神々しい金色の光がカーテンの如く揺らめいて、思わず息を呑むほど美しいグラデーションを作り上げていた。

 無限に敷き詰められた雲を構成するのは、大気中に漂う水粒みつぼや塵芥とは違い、宇宙に瞬く星々そのものである。


「凄い景色ですね……」


「…………」


 しかしクロエには感慨めく様子など微塵もなかった。風音一つ許さぬ静寂は、さりとて耳を圧迫するような不快感を与えることはなく、無音それは唯々厳かにこの神話の世界を演出する為の、わざとらしい舞台装置のようにすら彼女には思えたのである。

 そして回廊の遥か先――雲海の上に建つのは、山脈もかくやという白銀の大神殿。


 クロエは身体の感覚を確かめるように、軽く握っては開く自分の手を見つめる。その彼女の横顔にメベドが声を掛けた。


「大丈夫かい? お姉ちゃん」


 記憶を思い出してからのクロエの様子がこれまでとは気がして、メベドは心配そうな表情を見せた。


「問題無い。……では行こうか」


 彼女が回廊に一歩踏み出すと、足元に優しげな光の波紋が広がる。それを踏みしめながら三人が歩いていくと、どこからともなくべレクの声が響いた。


『――何の用だ? クロエ』


 冷淡な彼の声にクロエは苦笑しながら答える。


「何の用だ、とは。意外と周りに無頓着なんだな。まあお前らしいと言えばお前らしいがな、べレク」


 彼女は歩調を緩めることなくそう言いながら、コートの内側から拳銃を取り出し弾丸を装填した。


『メベドと一緒か。――私を裏切ったのか?』


「それを言うならばの間違いだろう。まったく、とんだ道化を演じていたものだ」


『……あの時の記憶リマエニュカが戻ったか。特異点として本来のアルテントロピーを取り戻したようだな?』


 べレクがそう言うと、クロエは自嘲気味にその問いを一笑に付す。


「まだ何も取り戻せてなどいないよ」


『何も――?』


「私はまだ人間の自由アルテントロピーを取り戻していない」


『矛盾した台詞だ。アルテントロピーとは情報改変の力。現に貴様の力は大きく増加している』


 するとクロエは小さく溜め息を吐いた。


「そうではないよべレク。過去の記憶を得て私は理解した。アルテントロピーとは縛られぬ魂――己の運命を己自身で綴る意志のことだ。お前を倒した時に、世界私たちはようやくそれを取り戻すんだ」


『俺を倒す――? それは不可能だ。俺は生命ではない。情報次元の理そのものだ』


「理と自由は反しない。故に私はお前を否定するつもりはないよ」


『ならば尚更理解できんな。そもそも自由とは人間に科せられた刑ではなかったのか?』


「それは歩みを他人に任せた者の台詞さ。私にとって自由意志とは『問うべき課題』だ。謂うなれば世界と自分との架け橋さ」


『貴様らしい、夢見がちな表現だ。だが俺もその世界構造の一部であることを理解していない』


「いや、充分解っているよ。お前は自我を獲得しても意志を持てなかった、哀れで孤独な自然現象だ」


誤謬ごびゅうだ。ならばこの俺にアルテントロピーが無いとでも云うのか?』


「在るさ。アルテントロピーは、本来なら誰にでも、何にでも……。ただお前は問うことも答えることもしなかった。『その一歩は何の為』とな」


『……理解できんな』


「だろうな。だからお前は自由であることを止めたんだ」


『………………』


 べレクがそこで会話を止めたのは、クロエの言葉を認めたのではなく、全能神セヴァが円卓から立ち上がったからであった。円卓に座する神々の注目が、その主神の憤りを顕した顔に集まる。


「エンリル王を侮辱する愚か者め。――聴け、我が眷属たる神々よ! 彼奴らこそが、神に仇なす者ディソーダーである!」


 殷々と響くセヴァの声に、神殿を前にした三人――その中のメベドが異論を挟む。


「僕らがディソーダーだって? それを決めるのは君たちじゃない、WIRAウィラだよ。作り変えられた偽物なんかじゃなくてね。そしてWIRAウィラは人間の意志――僕らはその代弁者さ」


「そうだべレク、世界はお前を認めていない」


 そしてクロエの台詞を聴いて、状況を理解出来ていなかったユウの顔つきも変わっていた。


 巨大な神殿の壁や柱が意思ある砂の様にサラサラと形を変えて引き下がると、中にある円卓と、そこに居並ぶ神々の姿が露わになった。その全ての者が徐に立ち上がり、皆が皆、黄金に輝く剣や斧や槍を手中に出現させる。


「理解したか? ユウ」とクロエ。


「はい――少なくとも一つだけ。彼らと、そしてべレクさんが……僕らの敵なんですね」


「そういうことだ」


 満足そうに頷くクロエに対して、べレクの無機質で整った顔は反面、心なしか不満の色を浮かべているようにも見えた。


「世界が認めないなどとよく言ったものだな、クロエ。だがたかが人間の貴様が、何故そう言い切れる?」


 するとクロエは不敵に微笑し、ベレクに銃口を向けて言い放った。


「私がここに立っている」


 そして迷わず放った彼女の銃弾は、しかし瞬き一つしないべレクの眼前で塵と化した。


「……詭弁だな」とべレク。


 だがクロエのその行為に怒りを覚えたセヴァは、天界全体を轟かすように吼える。


「エンリル王に手向かうとは……不届きな人間風情が!」


 右手を掲げたセヴァの手中に、眩い光が出現しそれが杖となった。彼がその柄を床に打ち付けると床が波打ち、その波紋の拡がりとともに、神殿の入口からクロエらが立つ回廊の端までの空間地面が瞬く間に伸長した。

 ほんの数秒で数光年まで遠ざかった無限遠とも取れる距離の先で、クロエは両手で握った銃にそっと額を当てて目を瞑り、ゆっくり息を吸い込んで、吐いた。


「メベド」


「なに、お姉ちゃん」


「お前はここにいろ。お前にはアルテントロピーが殆ど残っていない」


 するとメベドは少し哀しげに笑った。


「……解っちゃうんだね?」


「ああ、手に取るように解る。アルテントロピーの流れも、奴が私を殺さなかった理由――私のことを特異点と呼ぶ理由もな」


「え? それはどういう――」と、メベドが問う間を与えず。


「ユウ」


「はい、クロエさん」


 気を引き締めたものの少し不安げなユウに、クロエは優しく諭すように言った。


「前を向け。


「!!」


 その一言で彼の中で何かが――否、ずっとおぼろげで、踏み出すことを躊躇わせていた心の靄が、颯爽と吹く一陣の風によって払われた。


「――はいっ!」


 ユウの身を包む黒いスーツが、かつて身に纏っていた白銀の鎧へと変わる。

 クロエは瞼を開き、顔を上げると同時に銃を真っ二つに引き裂く――次の瞬間には左右の手に、黒く光る2丁の拳銃があった。


「いくぞ」


 彼女の瞳は真っ直ぐ、遥か彼方のべレクへと向いていた。

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