EP19-9 蘇る記憶

 ――全身を叩く衝撃。それに対抗しようと緊張した頚椎に鋭い痛みが走る。それを感じながらも、彼女は弟の頭を守るように包み込んだまま、運転席の背凭れにぶつかった。


「メベド! 大丈夫っ?!」


 しかしすぐに弟の頬に手を当てて問い掛けると、彼は健気に涙を我慢しながら、こくりと小さく頷いた。


(これはあの夢の――……)


 ――街を侵食する光から家族で逃げている夢。クロエはまた『そのクロエ』の中にいた。


「ママ! パパ!」


 そう叫んだ若き彼女じぶんは、前の席に身を乗り出して二人を見る。


「――!!」


 粉々に飛び散ったガラス。スピードの暴力を得た街路樹は車のフロントを無残に破壊し、車内に食い込んで原形を失った内装が、母親の両脚と父親の胸部を圧し潰していた。

 その有り様に声ならぬ悲鳴を上げながら、クロエは覗き込もうとする弟の身体を抑える。すると助手席から微かな呻き声。


「う……リマ……エニュカ……」


「ママっ!」


 弟は堪えることが出来た涙を、しかし彼女は留め切れずに叫んだ。


「逃げ……なさい……。メベドを……護っ――」


 そこで事切れた母親の腕を抜けて、奇跡的に難を逃れた仔犬のレトリバーが、壊れたドアの隙間から外へと飛び出す。


「ステーラ!」


 名前を呼ばれた犬は、外で飛び跳ねながら「速く出てきて!」と言わんばかりに吠え立てた。


(!?)


 クロエの鼻をつく異臭――薄っすらと漂う煙と焦げ臭さに彼女が眉を顰めて前方を見やると、ひしゃげたボンネットから子供の炎がちろちろと顔を覗かせていた。


(パパ……ママ……)


 物言わぬ両親の横顔――しかし徐々に育っていく炎は、彼女が悲嘆に暮れる暇を与えてはくれない。


(逃げなくちゃ! メベドを護らなきゃ!)


 クロエはドアノブに手を掛けたが、故障か歪みか、いくら引いてもドアが開く様子はない。彼女は即座に弟を抱いたままシートに寝そべり、2度3度とガラスを蹴って破る。そして籠もり始めた白煙とともに弟を押し出し、自身もそのあなから抜け出た。

 二人と一匹が車から急いで離れると、間もなく車内からも火の手が上がる。


「っ――――」


 歯を食いしばり、惨痛の表情でそれを見守る彼女の哀しみが、傍観者であったクロエの心にも深く刻み込まれる――否、かつての古傷きおくが生々しく蘇ってきた。

 そしてそれと同時にこの先の情報みらいもまた、その頭の中に結び付く。


(そうだ……ここで私はあいつと――)


 道路の両側に広い間隔で並ぶ大きな家々。庭に放置された芝刈り機やスタンドも立てずに倒れた自転車が、無人の町に遺されている。

 見上げた空は儚げな青。しかしクロエらが逃げてきた街に向かうにつれ朱色へと変わり、その先にある真っ白な光の壁で唐突に途切れていた。


(世界が……消える――)


「お姉ちゃん!」


 弟の声と左手に繋いだその幼い手の温もりが、少女の意識を引き戻し、内に在るクロエを再び傍観者へと変える。


「メベド……」


 見下ろした弟の顔は当惑と混乱で満ち、唯一の拠り所である彼女の顔を心配そうに見つめていた。


(そうだ、泣いてる暇なんて無い。逃げなきゃ!)


 地平よりも遥か手前で、見渡す限りの景色を塗り潰す無限の壁。ゆっくりと、しかし確かに迫るそれが、世界を飲み込み崩壊させてゆく。


(みんな消えちゃう……人も建物も。でもメベドこの子は――)


 弟の手を引いて駆け出すクロエは、壁が辿り着くより先に色を失って霧散していく景色の中を、躓きながらも前へ――しかし。


「?! ステーラ!」


 彼女の前を走っていた愛犬の身体が光り始めたと思うと、間もなくその体も光の粒子へと分解されて、跡形も無く消え去った。


「お姉ちゃん! ステーラが!」


「ダメ! 走ってメベド!」


 弟が仔犬の消失点に手を伸ばし、その悲しい叫び声が彼女の耳に届いても、クロエは足を止めようとはしない。彼女の頭にあるのは、ただにげる――その一点だけであった。


 しかしそこへ、ひた走る彼女の前へ、唐突に一人の男が現れた。長い黒髪と白い肌、純白のスーツを着たその男は、抑揚の無い淡々とした声を独り言のように発した。


「――必然的自由存在。界変おれを拒み、情報せかいに混沌をもたらす力……」


 空までもがサラサラと風化していく世界の中で、クロエは男を前に足を止めた。


「誰、なの……?」


(べレク――!)


 内なる彼女が叫ぶ。しかし当然その声は誰の耳にも届かない。しかしが人間を象っただけの異存在なにかであることを、対峙するクロエは直感的に理解し、弟を庇いながら後退った。


 二人に向かい、べレクは静かに歩み寄る。


「集約されたエントロピーは人間の想像力へと逃げ込んだか」


「近寄らないで!」と、クロエはメベドを抱き締める。


「しかし界変もまた、情報という性質の必然的な淘汰だ。受け容れろ」


 そう言って手を伸ばすべレクを、クロエは鋭く睨みつけた。そこには様々な感情が絡み合いながらも、強い意志が込められていた。


「あなたが――こんなことをしているの!?」


「……そうだ。情報は淘汰され、統合される」


 べレクの言葉を理解出来ずとも彼女は、目の前の存在が両親と愛犬ステーラを奪い、そして彼女の世界を滅ぼそうとしていることだけは理解出来た。――眼前に寄る白い手を払う。


「触るな!(こいつ……こいつが世界みんなを――!)」


 しかしそこで、彼女の胸に包み込まれた弟が叫んだ。


「お姉ちゃん!」


 徐々に白くなり始める二人の身体――メベドの服が袖の端からハラハラと崩れ始める。


「ダメ……っ!(護らなきゃ! 私が――っ!)」


 するとメベドの崩壊はそこでピタリと止み、発光する身体が色を取り戻していく。


「……なに」とべレク。


 それがクロエの力の覚醒であった。彼女の護ろうとする意志アルテントロピーはメベドの情報を保護し、べレクの改変をシャットアウトしたのである。そして次の瞬間に、メベドの姿は音も無くその世界から消え去った。


「――メベド?!」


 クロエはそのも解らず、目の前から消えた弟に驚愕したが、しかしそれで彼がこの界変わざわいから抜け出したことを理解した。


 無感情の顔のまま、クロエを見つめるべレク。


「……この源世界から存在情報たましいを切り離したか。いや、それだけではないな――」


 遠くを見つめるべレクは、光の壁の動きがそこで止まったことを確認した。


「界変の力を操作したな? 人間の想像からか……」


 彼はそっと目を閉じ、クロエに背中を向ける。


「……何を言って――」とクロエ。


「だがこれで、お前は特異点として確定した。次なる界変までその情報体は隔離する」


 べレクがそう告げた瞬間、世界に独り残されたクロエは魂を抜かれた抜け殻のように、その場で倒れ込んだ。

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