EP19-8 アダムとの対話
ヨーゼフよりも先に進み出て、光沢の無い白い金属で作られたようなその機械の箱と向かい合うクロエ。
箱の高さは2メートル近くあり、僅かに縦に長いがほぼ正方形と云える形状。表面にネジ穴や取っ手のようなものは無いが、よく視れば所々に薄っすらと細い継ぎ目が入っており、それ故に元素デバイス製ではないと判る。正面の真ん中には小さなレンズのような透明の球があり、側面の一部に空いたドット状の孔からブゥゥゥゥンという微かな振動音が響いていた。
「
クロエはレンズの上に凹んで書かれた文字を声に出して読んだ。
――それは第一
(アダムはスイスのジュネーヴで創られたはず――いや、そもそもAI戦争の発端となったテロで破壊されたはずだ。それが何故
すると後ろから歩み寄りながらヨーゼフが、立ち尽くしたままのクロエに言った。
「彼がメベドだ。私やこの世界では、アルファ・コールマンという名で知られているがね」
「!? アルファ・コールマンだと?」と、クロエは横に並んだヨーゼフの顔を見る。
「ああ、君らも良く知るあのコールマン博士だよ。情報次元論を提唱し、アダム開発の陣頭指揮を執った天才学者。今の時代では『インテレイドの父』などとも呼ばれているね。それに君らが必死に食い止めようとする
というヨーゼフの台詞の途中で、アダムの小さな
「――
(ウィラの……?!)
途端にクロエの元素デバイスが強制的に起動され、彼女の頭に声が響く。
[やあ、クロエ。よく来てくれたね]
音波が発せられている訳でなくとも、その声が目の前の箱から伝わるものだと、彼女にはすぐに解った。
「メベド――」とクロエ。
[久しぶりだね。ようやくちゃんと話せる準備が整ったみたいだ。これで僕の長い旅も終わりかな]
「準備だと?」
[うん。人というのはね、目隠しをしたまま目的地に連れてこられ『ここがそうだ』と告げられても、俄には信じられないものなんだよ。そこに到るまでの道程は自分の足で歩かなくちゃあいけない]
「その為に横槍を装って私に接触したり、わざと手掛かりを残すような真似をしていたのか」
[そうだよ。まあ君だけじゃなく、他の規制官たちにもヒントは与えていたけどね。でもやっぱり最初にここへ足を運んだのは君だった]
「……お前の目的は何だ?」
[ヨーゼフから聴いたはずだよ。僕らは
「何を言っている。フラッドによって人々を消滅させ、世界を破滅させようとしているのはお前達だろう」
[いいや、それは違う。フラッドは昇華なんだ。亜世界を界変から逃れさせる為の救済手段だよ]
「何が昇華だ。情報を消滅させることにどんな救いがある」
[世界としての在り方だよ。フラッドは情報を消滅させるのではなく、亜世界を源世界へと昇華させるんだ]
「馬鹿な……」と言いつつも、クロエはその可能性を否定出来なかった。と云うのも、
(だがもしそうならば――)
それはそれで納得がいく、と彼女は思った。
(もし本当に情報が消滅したのなら、それはアルテントロピーとして情報次元に還元されるはず。亜世界という膨大な情報がアルテントロピーに変換されたにも関わらず、私がそれに気付かぬはずがない……。それなのにダークネストークスから戻った時、ユウに告げられるまで私は、インベイジョンラインの
不本意ながらも沈黙でその理解を示すクロエに、メベド。
[どうやら思い当たる節があるようだね――。亜世界は
かつて行われた人類初の指向性転移実験――亜世界CTー2は、その際に起きた転移者の暴走がきっかけとなって、
「…………。もし仮に――」とクロエ。
「仮にお前の言うことが真実であったとして、何故それが世界を救うことになる? 消えた源世界の人間がその新たな世界で生きているとしても、少なくともこの源世界は滅びるぞ」
[それでいいんだよ]
あっさりとそう言い放ったメベドに対して、クロエの顔には憤りの色が浮かぶ。
「なんだと……? やはりお前は――」
[ねえ、クロエ。君はこの世界が妙だと感じたことはないかい? なんで揺るぎようのない物理法則や普遍定数なんてものが存在するんだろう――とかね?]
「…………」
[例えばこの世界の速度には光速という上限があるし、それは時空間を歪ませてでも絶対的に護られる。それっておかしな話だとは思わないかい?]
「……何が言いたい?」と、怪訝な目でアダムの箱――そこに付いた瞳を睨むクロエ。
[情報と現象は表裏一体。『リンゴであるという情報』が『リンゴという存在』を成立させている。でも
「情報次元を発見したお前が、今更廃れたID論を持ち出すつもりか?」
[本来の宇宙について語っているんじゃないよ。僕が話してるのは『この世界』のことさ]
「同じことだ。情報が充分な整合性と関係性を満たすことによって世界は構築され得る」
[うん、その通り――『充分な』だ。『完璧な』じゃあない。でもこの世界は違和感を覚えるほどに完璧過ぎるだろう? だから
「ならばお前は、この源世界が誰かの手で創られた、とでも言いたいのか?」
[正にその通りだよ。この世界は『界変のアルテントロピー』によって創られた、歪んだ源世界だ]
「界変のアルテントロピー……だと……」
その時クロエの頭の中に、激しい耳鳴りのような音が鳴り響いた。
(くっ……なんだこの声は――)
痛みや不快感は無かったが、視えない濁流に押されるように彼女は足をふらつかせた。するとメベドが静かな声で言った。
[これだけ話せば、もう記憶を受け容れられるだろう]
(記憶……?)
クロエはおぼつかない視界の中で何とかアダムに焦点を合わせるが、次第にその波は強くなる。
[僕に残された記憶を紐付けするよ。思い出して、リマエニュカ――お姉ちゃん]
メベドのその台詞を聴くと同時に、クロエの意識は情報の海へと投げ出された。
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