EP19-7 サン・ピエトロ大聖堂

 クロエが通された政庁舎の一室は、建物の外観ほど古めかしくもない――と云ったところで勿論元素デバイス製ではなかったが、比較的シンプルな木調の応接室であった。その内装や調度品は、シンギュラリティ以前の21世紀中頃の物と思しい。

 ルチャーノはクロエを部屋に案内すると、大理石の低い応接テーブルを挟んで向かい合う革のソファに彼女を促してから、恭しく「暫くお待ちください」と述べて退出していった。


「…………」


 クロエは部屋に飾られた宗教的な絵画や小さな天使の彫刻を軽く見回す振りをして、それとなく要所をチェックする。


(監視カメラは部屋の奥と入り口の上。それに彫刻の台座に隠しカメラが一つか。他にも2、3あるだろうが――セキュリティとしてはだな)


 これは彼女が何か不穏を感じ取ったからそうした、という訳ではなく、単にクロエ自身に染み付いた習慣のひとつである。彼女がそんな感想を抱きつつ5分程待っていると、やがて戻ってきたルチャーノと一緒に現れたのは、一見して聖職者と判る司祭平服キャソックの老人であった。

 すぐさま立ち上がったクロエは、一瞬でその老人の頭から爪先までを観察する。――白髪混じりの頭に、険しく眉間に刻まれた皺と筋張った首。そして確かに閉じられている両目。

 盲人とは思えぬほどに確かな足取りで歩く彼は、背筋をしっかりと伸ばした状態で止まり、クロエに向かって微笑んだ。すると二人に先んじてルチャーノが紹介の言葉を発した。


「ヨーゼフ・ダリエンツォ元教皇猊下で御座います。――猊下、こちらが世界情報統制局よりお越しになった、クロエ・白・ゴトヴィナ一等規制官殿で御座います」


規制官殿」と老人。


(この男が――)


 笑顔で差し出されたヨーゼフの手を、クロエは無表情のまま握る。その顔を彼女が見間違えようはずもなかったが、クロエは動揺の素振りなど一切見せずにうそぶいた。


「こちらこそ初めまして。お会いできて光栄です、猊下。お忙しい中、お時間を頂いて感謝しております」


「いえいえ」と笑ったヨーゼフは、ルチャーノに「下がりなさい」と一言。


 それに応じてルチャーノが部屋を出ていき、静かなドアの音が止んでから数秒――クロエが口を開く。


「何か手掛かりが掴めればと思って来てみれば、いきなり本命の登場とはな」


「座ったらどうかね」


 ヨーゼフが手でソファを示すと、クロエは言われるままに黙ってそこに座った。


「私も失礼するよ」と、ヨーゼフも彼女と対面する形で腰を下ろす。


「――ここまで来てくれた君に、これ以上手間を掛けさせたくなかったのでね。時間が無いのはお互い様だが」


 そう言いながら、ソファとテーブルの狭い隙間で足をぶつけることもない盲目の彼を、クロエは注意深く見据えている。


情報犯罪者ディソーダーの首魁がまさか、科学を捨てた宗教国の元首であるとは、予想もしていなかったぞ」


もと、だよ。今回の教皇選出戦コンクラーヴェに私は参加していない。私の顔は知らなかったのかね?」


「ふざけたことを。対外的に発表されているヨーゼフ・ダリエンツォとはまるで違う顔だ。公人の外見までも偽装するとは、とんだ秘密主義くわせものだな」


「今に始まったことではないがね」


「何を企んでいる?」


 余計な質問など一切せず単刀直入に訊くクロエに、ヨーゼフは感心するように頷いた。


「話が早いな、君は。急いている様子もなく、それでいて核心だけを問う。――だが企みというのとは少し違うな。私たちは阻止しようとしているのだ」


「阻止だと……? 何を?」


「世界の終わりと始まりを、だよ。コールマン――いや、君たちはメベドの名で認識しているのだったな。彼の言葉を借りるなら、それは『起こり得るべくして起こる破滅』だ」


「(コールマン?)――お前がメベドではないのか?」


 するとヨーゼフは笑う。


「私には彼や君らのようなアルテントロピーは無いよ」


 そして彼は徐に瞼を開いてみせた。


「その眼――」とクロエ。


 彼女が目にしたヨーゼフの眼は両方とも、ぼんやりとした青い光を湛えていた。


(両眼に元素デバイス……こいつ、インテレイドか)


「ご覧の通りだ。私は元々人間だったが、本来の肉体を捨てた」


「………………」


 クロエは無言、無表情――だがその思考あたまの中では、僅かな情報から目まぐるしく推論が行われているであろうことが、ヨーゼフには見て取れた。


「その顔は色々と疑問が尽きない、といったところだね。だがそれを解決するには、まず彼と会って話をするべきだ。その為に来たのだろう? クロエ・白・ゴトヴィナ君」


 彼は目を閉じると、再び危なげない動きですっくと立ち上がった。


「ついてきたまえ。彼の許へ案内しよう」



 ***



 運転席にルチャーノを乗せたリムジンは、橙と琥珀色の古い建物に囲まれ、綺麗に石で舗装された道路を抜ける。後部座席には、対面して座るクロエとヨーゼフ。三人の時間は神妙な面持ちと沈黙に守られたまま過ぎていく。

 来た時に通った道とは違い、道路の歩道にはちらほらと街行く人々の姿がある。彼らは比較的カジュアルな服装の者が半分、そしてもう半分はローブを着た修道士やキャソックの神父などの宗教関係者であった。しかし新教皇の決定という慶事を受けてか、その職種や身なりを問わず、彼らの内の大半の者はその顔に笑みを浮かべていた。

 目抜き通りから逸れて、脇道にある検問を速度を緩めるだけで素通りした彼らの車は、やがてサン・ピエトロ大聖堂の裏へと着いた。数人の警備兵だけが点々と立っている様子から、そこが立入禁止区域であるのは一目瞭然であったものの、警備兵達はリムジンやそこから降りるルチャーノの姿を、まるでそこにいないものであるかのように見向きもせずに直立していた。

 ルチャーノが後ろのドアを開け、クロエとヨーゼフが降りると、彼は「私はここで」とその場に留まった。


 晴れ渡る空の下、荘厳な石造りの壁に沿って無言で歩くヨーゼフの後を、クロエは淡々と付いていく。


(こんなところにメベドがいるのか……? まさか奴までも教皇などということはあるまいが)


 程なくして現れた高い鉄柵の前に、二人の警備兵――。彼らは何も言うことなくその柵の扉を開け、ヨーゼフらを招き入れると、再び柵を閉じた。


「…………」


 囲まれたその敷地には何も無く、ただ目の前には今まで目にしていたのと変わらぬ壁。しかしヨーゼフがそのまま直進すると、壁は彼の身体に合わせて穴を開けた。


(元素デバイス製――)とクロエ。


 言うまでもなくその外壁はそれであった。

 彼女はヨーゼフに従って、慣れ親しんだその壁へと身を預け、大聖堂の中へと歩みを進めた。


 ――地下へと続く石の階段、冷たい石の壁。低い天井で節操なく主張するLEDの灯り。それらもまた元素デバイスであるのかどうか、原子かたちを変えぬ限りクロエには判別がつかなかった。

 ヨーゼフらはかなりの時間地下へと潜り続け、やがて大聖堂の地下にある教皇達の墓地よりも更に下であろう深部に達すると、階段はついに重々しい鉄扉おわりをみせた。


「この中に彼がいる」


 そう言ってヨーゼフが扉を押し開くと、内側に広がった光景にクロエは目を剥いた。


「ここは……!」


 そこはまるでWIRAウィラ本部のような、真っ白い広大な空間であった。そして入口から正面の先にあるのは、巨大な機械の箱――。クロエがそれを視界を拡大して視ると、表面には『ADAMアダム』の文字が刻まれていた。

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